カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

スウィーニートッド

2008-08-25 | 映画
スウィーニートッド/ティム・バートン監督

 今回は僕なりのネタばれなので、未見の人は読まないように。まあ、あんまり評判良くないし、影響もそんなにないとは思われるが…。しかし多くの人たちはこの映画を勘違いしてみてしまったのではないかと思わないではない。監督の屈折した人間性からみて、彼は彼なりに行き場のなくなった人間の救いを描きたかったのではないかと僕は感じた。

 まあ、言われたとおり残酷で、黙って座ってみることができなかった。僕は血に弱いのだ。したがって映画館で観るなんてとんでもなかったことだろう。ミュージカルは生理的に嫌いなのでミュージカルとして感心することはほとんど無いのだけれど、もともとシュールな雰囲気の漂うジョニー・デップが歌うというのは面白いのかもしれなかった。また、これだけ残酷な話なんだし、ちょっと異常な世界なので、ミュージカルにするよりなかったのかもしれないと、制作の意図もわかる気がした。
 しかしながら物語として面白くないにせよ、この映画には不思議な魅力のあるのも確かである。観終わった後にも、妙にあとを引くというか、分かりきったようなストーリーにもかかわらず、大人の童話として納得のいくものがあったことは確かである。人はなかなか自分の欲望(たとえそれが復讐であるにせよ)を成就させることはできないもので、そのことは分かっていながら、そういう目的をなりふりかまわず達成させた後に残る無情な悲しさというものは、実はこのようなものなのかもしれないとも思わせられた。いえね、全然そんな話じゃなかったじゃん、という人の意見もわかりますよ。しかし、おそらくそんな話だったのだと読む方が、実はごく自然な映画の見方だと思う。
 またこの話は本当に救いのない物語なのでもまったく違うと思う。娘はおそらく今よりしあわせな将来をおくることになるだろうし、それも父親は殺人鬼だということを知らないままに新天地へ旅ゆくことになるということが十分に暗示されている(いや、写真を見たので気づいたかもしれないとは少し思うが、展開としては打ち消されていると考えた方が自然だろう)。自分の愚かさというものは、自分の中で完結されて、新しい憎悪を生まない未来を達成させただけでも、十分に寓話としてしあわせな物語だったのではないかとさえ思うのだった。そしてどこにも行きようがなく人間を踏み外し怪物になりはてた自分を救うことができたのは、形を変えた自分の良心である妻の行動だったということも、深い悲しみに打ちひしがれていながらも、十分に理解できるラストだと思う。彼は悪魔から復活して人間として死ねたのだ。嘘で塗り固められた将来を作ろうとした煩悩は燃え尽き、不器用でも正直な自分に戻ることができるということなのだ。他人に無理やり陰謀の世界に投げ込まれようとも、愚直に生きていくしかない自分の将来は、かなしくもこのような形で復活することができるのである。それは同じようにハリウッドで映画をつくるよりない監督の姿なのかもしれない。非凡なものを持っているとはいえ、現世では上手く立ち回れない人たちにとって、この物語は同じような救いの道しるべなのではないだろうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 当たり前だが、老けてたなあ | トップ | 残念ではあるけど »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。