カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

昔の恋人

2008-08-28 | 読書
昔の恋人/藤堂志津子著(集英社文庫)

 昔の恋人に会ってみたいと思うのは自然なことなのだろうか。いや、単純に会いたいという気持ちは分からないではない。しかし、やはり現在の自分の立場というか年齢という時期もやはりかなり重要な要素になるだろう。現在の生活とはかけ離れた過去のことでも、恋愛ということを経た関係のものが再会するには、やはりなにがしかの危険な匂いがしないではない。そういうスリリングさを楽しみにする(期待する)ような場合であれば、積極的に会いたいという気持ちになるのはわかる。単に今はどうしているのかというような同窓会的な興味であるとかいうことでも、それは会いたいのかもしれない。しかし、見るだけの興味というのは、つまるところ見てしまえば終わりであって、ノスタルジーでさようならである。今の生活は、たぶん変わらないだろう。
 この小説の中の人たちは、過去の消化が完全に上手くいっていないようでもある。そういう危険な状態のまま過去との遭遇をするというのが、いかにスリリングなことなのかということがよく分かった。というより、著者の力量なのだけれど、実に読ませるというか、ぐいぐい引き込まれてしまって、たいして意外な結末じゃないのかもしれないが、あっと驚いてそういうものかと感心させられるのである。なるほど、このような魂の清算のさせ方があるのか、と妙に感心するのだ。それは、たぶん僕の年齢と近い人たちの大人のやり取りが展開されている所為もあるのだろうと思う。これは僕が二十代の頃にはたぶん分からなかった話ばかりだろう。
 人というのは、生きていく上で、少なからぬ心の傷を負うものなのではないかと思う。それは無意識にせよ、今の生活態度にも考え方にも影響があって、そして自分自身を形作っていることは間違いがなかろう。三つ子の魂のような性格的な変わらなさというものもあるというのはそれもわかるが、そういう性格的なものを揺り動かすぐらいの、今の行動まで影響を与えるぐらいの、体験的な傷というものがあるものではないか。それはいわゆるトラウマというようなものなのかもしれないが、多くの場合恋愛体験において、そのような傷を負う場合が多いのかもしれない。トラウマであれば、ちゃんと自分で意識づけできるようであれば、それは何とか抱え込んだままでも生活に支障はなかろう。しかし、わだかまりは残ったまま、そのしこりが消えないまま生きている人は、あんがい多いのかもしれないとも思う。人との関係において生じたしこりなので、やはりそのものを取り除くためにも、しこりを生じさせた人物とは、会ってみる必要があるのかもしれない。それもとても重要なのは、しかるべきタイミングで。
 そのタイミングのいうものが、中年というか、まだ色気の残っている時期である必要があるのだろう。それはまだ、セックスの関係が十分に芽生える可能性を必要とするという意味である。いや、年齢を重ねてもそういう問題がなくならないということは聞き及んでいるが、いわゆるまだまだ未熟なものを残したまま、表面的な魅力でもって相手を動かせるというフェロモンのようなものを持っている時期ということを言いたいだけである。僕は普段あまり意識していなかったが、たぶん女という性の人たちにとって、これは大変に重要なことなのかもしれない。
 正直に言ってというか、至極当たり前のことなのだが、恋愛というのは肉欲というものと切り離せはしない。そういう綺麗ごとで済ませられないものであるからこそ、深い傷さえ作り出すことがあるのだ。それは真正面からいうことがなかなかできないだけのことであって、人間が生きているというそのものの問題でさえあるのだろうとも思う。だからこそ、基本的にはそこから逃げずに、最終的には向き合わざるを得ない。結果的に翻弄される危険はあるにせよ、結局は自分自身を取り戻すためにも、会って確認をするという行為はやはり必要なのだろう。物語はちっともまっすぐなものではないけれど、非常にいさぎよく恋愛を語っている堂々とした傑作恋愛小説集だと思った。
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