突き立った櫟の芽

2008-03-21 | 【樹木】櫟
 道に、クヌギのもじゃもじゃした殻斗が幾つも落ちていた。見あげると、梢には、まだかなりの殻斗がついたままだった。秋に落ちず、冬を越したようだ。
 堅果(ドングリ)は、殻斗との間に離層ができて、堅果のお尻にある維管束が乾燥することによって落ちることになる。殻斗が落ちるのも似たようなことが起きるからだろうか。新芽が伸び出したこととは関係があるのだろうか。
 ベランダの鉢植えのクヌギは、今、新芽をニョッキリ突き立てはじめた。幼いクヌギだが、はっきりと生命の息吹きを感じさせてくれる。

木々に咲く黄色い花々

2008-03-20 | 【樹木】ETC
 雨の午前、傘をさして散歩をする。
 黄色い花々を見ながら歩いた。
 いずれも、木々の花である。
 ここ数年の木々への関心が、その名をあげられるようになった。
 ミモザ(フサアカシア)の黄色い毬、マンサクの黄色いリボン。
 ヒイラギナンテン、トサミズキの小さな黄色い花を見おろす。
 レンギョウのひらきはじめた黄色い花びらを、しぼみはじめた男が見る。
 少年の日々は遠くなったなあと思う。
 そして、思いなおす。すぐそこにある、わがうちにあると。
 歳月が過ぎただけだと。

梅散りゆくを眺めて

2008-03-18 | 【樹木】梅
 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

 古今集におさめられている小野小町の歌である。「ながめ」を「長雨」ととれば、ここの花は桜のことなのだろうが、「若い日」のこととも受けとめられる。また、「ながめ」を「眺め」とすれば、花は、梅だって何だっていいということになる。
 女性のつくった歌だが、男の胸にも響く。男も容色は衰えるし、歳を経るにしたがって惜春の気持ちもつのる。少年時代、青春時代のことが思い出される。そんな思いは女より強いかも知れない。
 また、「俺はいったい何をやってきたのか」という慚愧の念にとらわれたりする。そんな時、懐かしく思い出すのは、どういうわけか、悪戯をしたことや失敗、過ちともいえることをおかしたことなどである。
 世間知もついて、無難に過ごした日々には、沸き立つような面白味はない。
 若き日が遠ざかりつつあり、その「身世に経る」女性を見て、彼女たちは、どんな色恋を過ごしてきたのかなあと思うことがある。
 吉井勇作詞の「ゴンドラの唄」の1番と4番だ。

 いのち短し 恋せよ乙女 あかきくちびる 褪せぬまに
 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを
 いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 褪せぬまに
 心の炎 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを

カタクリの薄紫の花

2008-03-17 | 【樹木】ETC
 武蔵丘陵森林公園の中央入口で、案内係のひとに、「ここから、梅林までは、どれくらいかかりますか」と尋ねた。
 「三、四十分歩きますね。クルマで来られているなら、南口に移って、入った方が良い」
とのことで、駐車場への再入場が出来るようにすると言われた。
 「そうしようか」と応えると、「でも、今、カタクリの花が咲いている。そこには、ここからの方が近い。カタクリを見てからにされては」と言われた。
 薦められるまま、そうすることにした。
 特に、カタクリに関心があったわけではないが、なにかの本で、その花期が短いと読んでいて、その記憶があった。早春、周辺の草木が伸び出すともう終わりと。
 カタクリの花には、カメラをかかえた爺さん婆さんがたかっていた。
 あとで、カタクリの花のことを、少し調べて、案内係の薦めに従ってよかったと思った。
 カタクリはユリ科の多年草で、落葉広葉樹の林床に群生、早春に一週間ばかり、花を咲かせるということだ。その姿を地上に現すのは、一ヶ月くらいのことで、その間に、落葉樹の木々の間に射し込む暖かい光を受け、光合成を行い、養分を鱗茎にためて、生き延びているのだと。ファーブルが、「植物記」で芽の鱗片に栄養をためて生きる植物のことを語っていた。例えばニンニクのことなどだったが、もうよく覚えていない。
 カタクリは、花を咲かせるまでには、七、八年もかかるそうである。しかも今、日本では、カタクリが生育する環境が減ってきており、珍しくなりつつあるという。見ておいてよかった。
 「春の花の女王」とも呼ばれる花の色や形、サイズについては、何かでお調べください。

紅が濃い梅の花

2008-03-17 | 【樹木】梅
 武蔵丘陵森林公園の梅林を歩いて、最も紅が濃い梅の花は、「鹿児島紅」との名札の付いたものだった。花期は、2月中旬から3月中旬と言われ、もう盛りが過ぎた様をしていた。他の梅は、春の陽をうけて、ほとんど盛りであった。
 公園を歩いているのは、盛りを過ぎた人たちが多い。立派なカメラを携えた老年男性の姿が目立つ。

「クヌギの太りかた」

2008-03-17 | 【樹木】櫟
 ベランダの実生のクヌギは、枝の芽を大きくさせだしている。その実を拾ったのは、一昨年の秋で、その年は、ドングリが豊作だった。去年はどちらかというと不作だった。山のドングリが不作だと、熊が人里にまで出てくる云々と言われる。
 ドングリの豊不作は、天候の影響もあるのかも知れないが、基本は、樹木自体が持っている自己制御の周期によるようである。
 一般的に、実のなる樹木は、実を多くつける年は、幹の太り方が少ないと言うことである。何年かに一度は自粛、実の量を少なくする。限られた条件下で、あれもこれもとはいかないというわけである。このことは、年輪を見れば分かるということである。
 クヌギなどの場合、それがどれくらい年輪に現れるのか、よくは知らないが。いずれにしろ、ベランダのクヌギは、まだその域にまで達していない。

梅は盛り

2008-03-17 | 【樹木】梅
 コナラが中心の林の中、カタクリの花を見て、そして、梅林に向かった。
 白、淡紅、紅、深紅、梅の花は盛りだった。
 何とも美しかった。
 陽気もよかった。
 このように梅の花見をしたことが、これまであったろうか。
 武蔵丘陵森林公園、3月15日。

春を告げぬユーカリ

2008-03-14 | 【樹木】ETC
 ユーカリ(有加利)というと、思い浮かぶのが、羽村市動物園に、1本、すっくと立っているユーカリである。写真を撮ったことがあるからだと思う。樹高は、10メートルを超えていたように記憶している。白っぽい主幹が真っ直ぐ伸びて、上の方で支幹がでて、葉をつけていた。
 ユーカリは、オーストラリアが原産で、種類は多い。コアラが、その葉を食べるのは、そのうちのごく一部の種類である。
 フトモモ科の常緑高木で、原産地のオーストラリアでは、100メートル超す高さにまでなるという。6、7月に白い花をつけると言うが、ユーカリは、「春を告げる」というイメージからは程遠い(3月12日ブログ参照)。
 以前、多摩動物公園のコアラ館の出口に、これをコアラが食べるということで、葉のついた枝がおいてあった。手に取ってみたが、葉の形や香りのことは、よく憶えていない。
 この記事の論旨とは関係ないが、コアラをかわいいと思ったことはない。動物園を歩いていると、しばしば「カワイイ」と発せられる声を聞く。何をみても、「カワイイ」である。密かに軽蔑している。

「すみれ色の森」

2008-03-14 | 【樹木】ETC
 先日のブログで、ランボオの「イリュミナシオン」の中の「すみれ色の森」と訳された部分について、つい、「まだ色が淡い若葉がつきだして、ぼんやりかすんだかのように見える森が想像できる」と書いた。しかし、文字通り追えば「新芽が萌え出たすみれ色の森」と訳されており、どちらかというと枝々の芽が膨らみ、赤味を濃くしてきた状態であり、思いこみによって誤ったことを言ってしまったと気づいた。もし、葉が生え出しているにしても、まだ赤紫の嫩葉というところか。
 今朝、家を出て、駅に向かう道すがら、多摩動物公園に続く林を眺めて、そう気づいた。ちょうど今、新芽が赤味を帯びて、林全体が、薄赤茶に見える。

「花に物思ふ春」

2008-03-13 | 【樹木】梅
 ベランダの鉢植えの枝垂れ梅、今年は12個の蕾しかつけなかった。しかし、けなげにも、その12個の蕾は花となった。そして、もう散りはじめている。
 《はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける(新古今集 式子内親王)》

春を告げる「ユーカリ」

2008-03-12 | 【樹木】ETC
 先日のブログで、アルチュール・ランボオの「イリュミナシオン」の「大洪水のあと」から、次の部分を引用した。
 《それから、新芽の萌え出たすみれ色の森のなかで、ユーカリスがおれに春だと言った。》 粟津則雄訳(1973年、思潮社発行「地獄の季節」)である。
 同じ部分を小林秀雄は次のように訳している(1938年発行の岩波文庫「地獄の季節」)。
 《やがて菫色の大樹林に芽は萌えて、有加利の樹が、俺に春だと告げた。》
 この中の「有加利」は、のちに「ユーカリ」と改められたようだ(1970年改版)。
 それにしても、ユーカリスとユーカリでは、大違いだ。詩句から思い浮かぶイメージがまるで異なってくる。
 ユーカリスは、○○百合とか、○○水仙とも呼ばれる白い花を咲かせる草本である。ユーカリは、コアラがその葉を食べる樹肌が白っぽい樹木なのだ。
 それに、「菫色の大樹林」と言われると、どのようなことかと思い惑ってしまう。「新芽が萌え出たすみれ色の森」と言われれば、まだ色が淡い若葉がつきだして、ぼんやりかすんだかのように見える森を想像できる。
 要するに、翻訳では、このようなことがよくある。この前、ボードレールの詩に関して友人と、芸術性が感じられない云々と話し合っていたので、このような事例もあると、取り上げてみた。