友人からもらった本『真理のことば/ブッダ』と『般若心経』の著者、佐々木閑さんは元々科学者を目指そうとされた方です。京都大学工学部工業化学科を卒業された後、同大学の文学部哲学科仏教学専攻を卒業しました。現在は、花園大学文学部仏教学科の教授をされている仏教学者で、専門は仏教哲学や古代インド仏教学です。科学と仏教の両方の観点から捉えられる佐々木さんは、ブッダの考え方はかなり科学的だとの見解です。
ブッダの死後できた般若心経、つまり大乗仏教では、この世の全ての法(基本的存在要素)は、空(実体がないという状態)である。この世を形成しているおおもとのその存在要素には、そもそも実体がないと捉えている。一方ブッダは、この基本的存在要素までは否定していない。この佐々木さんの論により、私としてはブッダの真理と大乗仏教の違いが、はっきり分かりました。
物事をより細かくしていくと、これ以上分解できない基本要素にたどり着く。それがこの世の実在であり、それらがそれぞれに、因果の法則に沿って寄り集まったり離れたりし、常に転変しながらかりそめの姿としての物体や現象を現出させている、との捉え方がブッダである。この考えは、物事を構成している要素をどんどん分解していくと素粒子にたどりつく、現代科学に通じるものだと佐々木さんは云います。
ブッダと大乗仏教は、どちらが正しくどちらが間違っているという話ではなく、私自身は子供のころから生粋の科学っ子であるため、あいまいなところがないブッタの方が好きである。しかしブッダは隙のない論理で世界観を構築しているだけに、人の情が求める不思議だとか運だとかの「救い」の要素があまり感じられず、反面大乗仏教はこの世の厳密な因果のシステムを空の概念によって無化し、全てが漠然とはしたが、見果てぬ夢にも希望が持てるようになり一般化した。このように氏は分析します。
突然ですが下の図を見て下さい。これはイタリアの心理学者である、カニッツァが作った「カニッツァの三角形」と呼ばれている図です。三角形が二つ重なっていますが、黒い線で書かれた上に白い三角形が重なって見えます。白い三角形が背景と比べ明るく、浮き上がって見えます。この白い三角形に輪郭があるよう見えますが、何も描かれていません。これは私たちの心の中にある輪郭である。
実はこの図は、氏の本の中で「ブッダの教えと脳科学」というテーマ引用されています。科学的に物事を捉えるというのは、つまり原因と結果によって世の中が動いているか見ていくことで、例えば脳科学であれば、脳の中がどのような形で作用していくかを見ていくことである。仏教の場合であれば、それが自分の心の中がどういう因果則の連鎖によって動いていくのか、それを見ることになる。
この図で輪郭が見えるのは、やるべき仕事として脳が補完(網膜像)している。間違ったものを見ているということではなく、ここにあるものと写る網膜像と、ありのままの世界を理解したいと働く脳の機能とのズレである。仏教も科学も、要は世の中を正しく見ようと、本当の姿はどうなのだろうとの共通した出発点がある。以上が氏の論点で、ブッダと科学の共通点を知りました。
現実の世界に置き換えてみると、目の前に現れる事象についても、正しく見ようと本当の姿はどうなのだろうと、我々は日々努力します。前回のテーマのわが社のプロジェクトの取り組みについても、提携先との関係や新規の攻め方について、社内でも積極派と慎重派に分かれてしまいます。今は混沌として答えが直ぐに出ないかもしれまん。トップに立つ物としては、例えば清濁併せ吞むような度量も問われます。
この世で起こっている物事の正しい姿とは何か。それはすなわち「すべてうつろう」ということ。すべてのものは時々刻々と変化するのであり、永遠不滅なもの等どこにもない。これを、ブッダが説いた『諸行無常』といいます。諸行無常の世界を正しく認識し、我を捨て、執着を離れる捉え方を持ち続けたいと思いました。
ブッダの死後できた般若心経、つまり大乗仏教では、この世の全ての法(基本的存在要素)は、空(実体がないという状態)である。この世を形成しているおおもとのその存在要素には、そもそも実体がないと捉えている。一方ブッダは、この基本的存在要素までは否定していない。この佐々木さんの論により、私としてはブッダの真理と大乗仏教の違いが、はっきり分かりました。
物事をより細かくしていくと、これ以上分解できない基本要素にたどり着く。それがこの世の実在であり、それらがそれぞれに、因果の法則に沿って寄り集まったり離れたりし、常に転変しながらかりそめの姿としての物体や現象を現出させている、との捉え方がブッダである。この考えは、物事を構成している要素をどんどん分解していくと素粒子にたどりつく、現代科学に通じるものだと佐々木さんは云います。
ブッダと大乗仏教は、どちらが正しくどちらが間違っているという話ではなく、私自身は子供のころから生粋の科学っ子であるため、あいまいなところがないブッタの方が好きである。しかしブッダは隙のない論理で世界観を構築しているだけに、人の情が求める不思議だとか運だとかの「救い」の要素があまり感じられず、反面大乗仏教はこの世の厳密な因果のシステムを空の概念によって無化し、全てが漠然とはしたが、見果てぬ夢にも希望が持てるようになり一般化した。このように氏は分析します。
突然ですが下の図を見て下さい。これはイタリアの心理学者である、カニッツァが作った「カニッツァの三角形」と呼ばれている図です。三角形が二つ重なっていますが、黒い線で書かれた上に白い三角形が重なって見えます。白い三角形が背景と比べ明るく、浮き上がって見えます。この白い三角形に輪郭があるよう見えますが、何も描かれていません。これは私たちの心の中にある輪郭である。
実はこの図は、氏の本の中で「ブッダの教えと脳科学」というテーマ引用されています。科学的に物事を捉えるというのは、つまり原因と結果によって世の中が動いているか見ていくことで、例えば脳科学であれば、脳の中がどのような形で作用していくかを見ていくことである。仏教の場合であれば、それが自分の心の中がどういう因果則の連鎖によって動いていくのか、それを見ることになる。
この図で輪郭が見えるのは、やるべき仕事として脳が補完(網膜像)している。間違ったものを見ているということではなく、ここにあるものと写る網膜像と、ありのままの世界を理解したいと働く脳の機能とのズレである。仏教も科学も、要は世の中を正しく見ようと、本当の姿はどうなのだろうとの共通した出発点がある。以上が氏の論点で、ブッダと科学の共通点を知りました。
現実の世界に置き換えてみると、目の前に現れる事象についても、正しく見ようと本当の姿はどうなのだろうと、我々は日々努力します。前回のテーマのわが社のプロジェクトの取り組みについても、提携先との関係や新規の攻め方について、社内でも積極派と慎重派に分かれてしまいます。今は混沌として答えが直ぐに出ないかもしれまん。トップに立つ物としては、例えば清濁併せ吞むような度量も問われます。
この世で起こっている物事の正しい姿とは何か。それはすなわち「すべてうつろう」ということ。すべてのものは時々刻々と変化するのであり、永遠不滅なもの等どこにもない。これを、ブッダが説いた『諸行無常』といいます。諸行無常の世界を正しく認識し、我を捨て、執着を離れる捉え方を持ち続けたいと思いました。
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