梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

集約移転(その3)

2011年03月26日 06時09分13秒 | Weblog
千葉の営業所には9名の社員がいました。工場長は元々浦安営業所に居た社員で、千葉に異動する際に工場近くに社宅を借りて、単身赴任をしていました。その他の8名は、全員が地元の社員でした。

千葉は閉鎖するので、当然のことながら最大の課題は、その社員達をどうするかです。会社としては、全員が浦安に来てもらうことを要望しました。しかしこの移転集約を今年1月の上旬に発表した際、その社員達には驚きと共に動揺が走りました。

社員は会社の事情は理屈では分ってくれても、片道50k以上も遠い浦安に毎日どう通勤するのか、プラスの交通費や高速代は補償されるのか、通勤するにしても、転職をするにしても苦渋の選択だったはずです。会社もそこが一番の懸案で、時間を掛けて話し合い、出来る限りの譲歩案は出したつもりです。

転職をするにしてもその会社は、どんな職種で処遇はどうなのか、相手の会社側にも条件があるのですから、社員にとって見ると不安極まりない問題です。社員と会社との話し合いの中から、近くの同業社で採用を検討してもらえる所はないか、それを会社で当って見る事となりました。

幸いにも、本当にタイムリーにも、二社が採用を前向きに考えてくれ、製造現場の4名が、そこに再就職することが3月上旬決定しました。彼等がわが社でやっていた同じ技能が活かされる職種で、そしてわが千葉工場から共に2~3kも離れていない二社に、受け入れて頂くこととなりました。

他の2名は自力で地元の再就職先を捜すとのことで、工場長含め3名は浦安に来ることで、全ての社員の行き先が決りました。社員の心情に禍根が残らないことを願いながらの、移転集約に伴う人事でしたが、このような形で終息しました。

退職者の送別会を、先週金曜日に千葉工場の近くの居酒屋で行いました。今回の地震直後と重なり、浦安の全社員が参加出来なかったのですが、涙あり笑いあり盛り上がりました。会社の都合で、わが社を離れて行く社員を出してしまい、経営者としての責任を強く受け止めています。しかしその社員達とも、私の身勝手かもしれませんが、絆はしっかりと結ばれているように感じています。
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集約移転(その2)

2011年03月18日 15時34分27秒 | Weblog
破綻した会社の千葉の営業所を引き継いで何とかやって来た事と、葛西の本社を売却し浦安を取得して本拠を移し変えた事と、そんな別次元の事象がここで一つに繋がり、浦安で全社が集結するのを決めた事を前回書きました。

ここで一つの疑問が生じるかもしれません。千葉工場を存続してもよかったのではないかと、何故移転集約をしなくてはならなかったのかと。その理由と目的をズバリ書かなくてはならないと思います。

その会社を引き継いで暫らくしてから、中国五輪の影響で鉄鋼業界は特需が巻き起こりました。鉄鋼原材料も高騰し前代未聞の鋼材価格となり、メーカー生産が追い付かない鋼材は、我々の流通加工業も仕入れれば高値で売れ、その恩恵を享受しました。売上が上がって利益が出ている時は全てがハッピーです。わが社の二工場も仕事が満杯になり、後で大きな落とし穴があることも知らずに、その時はラッキーでした。

その後のことは今更詳しく書くまでもないことですが、鉄鋼業界でも世界同時不況以前まで業績が戻ったところ、依然として厳しいところとまちまちで、業界平均としては6割~7割操業がいい線です。

はっきり言ってわが社の浦安と千葉工場は同質です。つまり同じ様な機械があり、加工に於いては特別な異さは無いのです。従って最盛期の仕事量に戻らない限り、今後もその様な見通しを立てるならば、二箇所でダブルでかかる経費や社内間の横もち輸送も無駄です。筋肉質になり、業務効率や生産性を上げる為には、一極集中にたどり着きました。(社員の雇用問題は次回に譲ります)

移転集約を繰り返し、その都度引越しをし、その様なことはしない方がいいに決っています。しかし我々を取り巻く環境や業界の情勢は千変万化です。ともあれ会社の存続や前進、常に身の丈に合った経営を心掛けるならば、その都度の判断と決断も必要です。

何よりも私は今この時節、同じ屋根の下に社員全員が一緒になることが、わが社にとって一番大事だと思いました。これは会社側の責任ですが、残念ながら千葉と浦安工場との温度差が近年生じていて、集約移転は、この解消の目的もありました。
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その後近況!

2011年03月15日 09時54分49秒 | Weblog
今回の地震で、皆様の被害は如何だったでしょうか。
程度の差こそあれ、影響はあったことと存じます。
被災された方には、心からのお見舞いを申し上げます。

お陰様で、倉庫出入り口の路面の修復工事が終りました。
工場の機械など点検も終わり、取りあえず従来通りの操業が可能となりました。
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近況報告です!

2011年03月12日 10時22分39秒 | Weblog
昨日午後2時46分に東日本で大地震がありましたが、
わが社の浦安営業所でも、物凄い揺れを体感しました。
わが社の社員及び家族は、皆無事です。
建屋(工場・事務所)に目立った損傷はありません。
工場内の鋼材や機械等(細かい点検はこれからですが)も今のところ大丈夫です。
但し浦安営業所の地下の水道管が破裂して、水が道に溢れ出てしまいました。
従って現在断水状態です。
また倉庫の出入り口が液状化現象で、地面が隆起し中から泥が流れ出し、
トラックの出入りは現状では不可能となりました。
早急に修復する予定ですが。

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集約移転(その1)

2011年03月05日 12時14分56秒 | Weblog
わが社の千葉営業所(山武郡芝山町にある工場)を、今月いっぱいで浦安の営業所に移転集約します。従って千葉工場は閉鎖することとなります。ここに至った背景や経緯を少し書いてみたいと思います。そもそもわが社は、何故この芝山に営業所があるかを説明した方がよいのかもしれません。

平成14年、わが社の素材販売先でメインだった会社が破綻しました。当然大きな負債を抱えました。しかしその会社の仕入れ先がほぼわが社一社だったこともあり、その社長から従業員とお客様の面倒を見てもらいたい旨の依頼もあり、わが社自身も生き残る為にその溶断加工事業を継承することとしましたが、他に選択肢は無かったと言っても過言ではありません。

その社長は二代目で、長年墨田区八広には本社工場がありました。二代目社長とすると、手狭でなかなか最新の機械化が図れず、商店や住宅がある街中にあって、近隣に騒音や振動で迷惑を掛けている本社工場の将来を考えて、平成4年に千葉の芝山に土地を取得して新たな工場を建てたのです。この投資が、後々この会社の大きな負担となり、倒産の要因になったのも事実ですが。

わが社が引き継いでからは、暫らくはその2箇所はわが社の工場として、賃借して運営して来ました。当時わが社は、まだ江戸川葛西に本社倉庫があり、別に市川市の岸壁近くに借りていた倉庫もありましたので、一気に営業所は4箇所になってしまいました。

それとは全く別線で動いていた、数年前から急速に都市化が進んだ葛西本社の移転は最大の懸案でした。葛西の土地を買ってくれるところが現れて、急転直下その計画は動き出しました。浦安に新天地も決り、平成16年には新倉庫が完成しました。

市川の倉庫と本社倉庫を、先ず浦安に移しました。次に墨田区の工場を、浦安に移しました。借りていた千葉の工場は、その後わが社が取得して、そのまま運営して来ました。それが今回、移転集約を決定した芝山の営業所なのです。

破綻した会社を継承したり葛西の本社を売却したり、そんなバラバラの事象や決断が一つに繋がり、今回の千葉工場の移転を最後に、浦安で全てが集約一体化出来るとは想像だにしませんでした。

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