梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

人前で話す

2014年09月27日 06時20分57秒 | Weblog
“100人を前にあがらず話す”そのような新聞の記事が目に留まり、切り抜いておきました。「人は大勢の前に立つと、自分が失敗する姿を思い描き、それが緊張を招く」「この緊張が、あがった状態。ではそれを抑えるには、あがる不安にとらわれないこと」。

これだけ読むと禅問答のようですが、「あがることは自分が脅かされる事への無意識の防衛本能、過度に恐れないことと、あがり(緊張)を和らげる行動をとることがカギ」、と解説しています。「和らげるカギは、筋肉を弛緩させる動作と腹式呼吸であり、この体の状態を作っておいて、そしてスピーチ直前や本番での心構えが必要」、と書かれていました。

大学二年生の息子が、人前で話すことになりました。それも私と一緒に学んでいる勉強会で。今年二月から、私が長年参加してきた、月一回の勉強会に参加するようになりました。主に経営者や社会でリーダーを目指す人達向けの、人間学実践の勉強会です。

毎回先生の講義の前に、生徒一人ずつプレビューと称するスピーチがあります。一人10分程度で、話すテーマは自分の置かれている環境や、勉強会で学んだことで感じた事や考えたこと、また実際に行なってどのような成果(失敗)があったか等です。

一ヶ月前に自分がスピーチすることは分かっていても、息子には前もって準備をしている気配がありません。準備をしないで恥をかくのは自分です。自ら動くまでは放っておくことにしました。失敗をすれば、恥をかけば、そこからが勉強です。

俄かに動き出したのは、三日ほど前からです。どのような事を話したら良いのかは、私は、息子から聞かれればアドバイスはしました。しかしそれに乗じて、頼り過ぎることも予測して、ちょっと突き放しました。「お父さんは頼りにはならないね」、と息子。

当日ギリギリまで、書いたスピーチの原稿を会社でコピーしれくれないか等と言う始末。
私の心境は、もっと前から準備もしないで、何を今更です。件の新聞の記事は手渡しましたが、じっくり読んだのかどうか分かりません。

息子のプレビューは、終りました。内容の良し悪しや皆さんの評価はさて置いて、親の会に参加することや人前で話そうとした努力は認めてあげたいと思いました。
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水戸学に触れて

2014年09月19日 20時07分05秒 | Weblog
 (弘道館にある“尊攘”の書です)

先週の週末茨城県水戸で、水戸学の真髄についての講義を受ける機会を得ました。講義を受ける前に多少の知識はあったものの、それを覆される感動を味わいました。講師は、水戸学の第一人者である但野正弘先生でした。

水戸の九代藩主徳川斉昭は、藩政改革を重要施策として推進しましたが、その一つとして、藩校である“弘道館”を開設します。“偕楽園”もまた斉昭により造成されたものです。その斉昭の七男として生まれた慶喜は、徳川御三卿の一つ一橋家の養子となり、後に江戸幕府260年の最後の将軍となります。

午前中は、水戸駅前のホテル会議室で但野先生より「継承された水戸の心」と題しての講義。ウイットを交えた二時間余りの講義は、あっと言う間に終わりました。午後は、ホテルの直ぐ裏手にある弘道館を、先生の興味深い説明を受けながら見学をしました。

去年のNHK大河ドラマ『八重の桜』では、慶喜は自ら言ったことを覆したり、幕末の動乱に翻弄され、どちらかと言うと優柔不断な人物として描かれていました。私も、確かな勉強をした訳でもないのに、慶喜をそのようなイメージとして捉えていました。

鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、慶喜は大阪城を脱出して江戸城に帰着します。その折仏国公使のレオン・ロッシュより、フランスが全面支援するので再挙を勧められます。「たとえ如何なる事情があろうとも朝廷に向かい弓引くことはしない。自分は死すとも反抗はしない」とは、その申し出を丁重に断った慶喜の言葉です。

「慶喜には百の欠点があったとしても、長い日本の歴史においても特筆大書せられるべき一人で、大政奉還の決断は何人も出来なかった」。これは明治以降に活躍したジャーナリストで思想家の徳富蘇峰が、慶喜を評価した言葉です。

「もし朝廷と幕府と弓矢に及ぶとも、我等は幕府にそむくとも絶対に朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これ義公(水戸二代藩主光圀)以来の家訓なり」、父斉昭より、二十歳の慶喜が受けた教訓です。

慶喜ついては、以上のような事を但野先生から学びました。どんな汚名を着せられようが、また何事も自分の手柄と自慢せず、皇国日本の存続を願った水戸藩の家訓に忠実に従った慶喜公が、私の中にしかりと根付きました。
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12年前の判断(その2)

2014年09月13日 07時36分48秒 | Weblog
さて本題です。13年前、わが社に入社して役員を引き受けて下さった方がいました。わが社の仕入先でもあった商社に長年務め、50代半ばで関連会社に出向となって、そこで本来の任務も全うして、商社を定年前に早期退職をされた方です。その直後、私の補佐としてまた参謀役として、わが社に勤めてもらうことになりました。

それから1年後です。前触れもなく或る日突然と言えるほどの衝撃でした。長く素材を販売してきた会社から、多額の決済手形が、それも数日後の期日のものが落とせない、との事実を告げられます。細かい経緯は省略しますが、わが社は支援を申し出ますが、双方に行き違いも発生して、結局不渡りを出してその会社は破綻します。

販売先の商権を引き継ぎ、工場は借りて機械設備は買い取り、社員を再雇用して、わが社独自で経営してけるのか。その役員の常務が、私に代わって精査をしてくれました。販売先の商権が逸脱するのを防ぐ為にも、短期間の結論を迫られました。

その最中、私は常務にこんな質問をしました。「今回、私に起こっている事象はどう受け止めたら良いのでしょう」。「これは(この引っ掛かりは)、梶社長が持っている業(運命)でしょうね。これは大変な試練でしょうが乗り越えれば、この試練は大いに活かされるでしょう」

生半可なやり方ではわが身の運命をも危うくすることになるが、わが社も生きる為には、引き継ぐことの選択肢しかないとの結論でした。それから12年、わが社に加工事業も加わり、一つの柱になって、素材と加工が相乗効果をもたらし今に至っています。素材販売だけでは、今日のわが社は存在しなかったと言っても過言ではありません。

「社長はどうして、前の溶断業の会社の社員を引き継いだのですか」。目先のことしか頭になかった当時の私は、綺麗ごとでその会社と共に生きて行く為にとは、思っていませんでした。冷静に客観的に私にアドバイスをしてくれた、常務が当時いたので、その判断が出来ました。

その後の私は、どんなことがあろうとも関わった社員は、家族的な親しみを感じます。
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12年前の判断

2014年09月06日 06時08分19秒 | Weblog
「社長はどうして、前の溶断業の会社の社員を引き継いだのですか」。先週末、社員との食事会をした席で、ある社員から私への質問がありました。その前の会社の、女性社員がわが社の一員となって、この度60歳を迎えて退職することになりました。今回の懇親会はその社員の送別会も兼ねていました。

12年前にわが社の素材販売先でメインの会社が破綻して、商権を引き継ぐ形で、その溶断会社の従業員をわが社の社員にしたことは、何回かこのブログ上でお伝えしました。そして前の会社から在った、千葉成田の溶断工場も3年前に閉鎖して、浦安へ集約をしました。

千葉工場に勤務していた10名の社員は、地元の会社へ転職した者もおりましたが、地元からその後も浦安に通勤してもらった者もおり、集約は会社を存続する為の苦渋の選択であったとは言え、社員には大きな負担をかけてしまう結果となりました。

今回退職する社員はその千葉工場で、前の会社から長く勤務していた社員です。浦安まで電車を使って通勤していたこともあり、片道2時間は費やしていました。何とか還暦まではと言う気持ちで、特にこの3年間、長い通勤時間を乗り越えて本当に頑張ってもらいました。

「ちょっと歳は取っているけれど、わが家から巣立って、嫁いで行く娘のようなもの。出戻っては困るけど、たまには元気に里帰りをして欲しい」。わが社も取引がある地元の会社に、たまたま転職することになったその社員には、そんな言葉を贈りました。

彼女からしたら、前の会社から共に荒波の経験をした仲間との別れではあったのでしょうが、しめやかなものではなくて、終始笑いが絶えない会となりました。私が一次会で帰った後、二次会では更に盛り上がったようです。

冒頭の質問は、そのような様子をじっと見ていた、会社統合の後に入った社員からです。12年前の経緯は詳しくは知らない訳です。私としては、その社員だけに答えるのでなく、ここでもう一度明らかにした方が良いと思いました。  ~次回に続く~
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