梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

葛西の地その4

2006年08月28日 17時48分58秒 | Weblog
わが社の商売の変遷はこの土地抜きには考えられません。わが社の三つの事業が次々にバトンがタッチされるように、また一時期は平行し支え合いながらうまく移行して来れたのも、葛西の立地は大きく貢献したと思います。

創業時から約30年続いたスケール集荷業とは、電炉メーカー〔5/29のブログで説明〕や伸鉄メーカー〔下記参照〕の製鉄所構内に作業員を出し、真っ赤な鉄が圧延される時その機械の下に剥がれて溜まっている、その鉄の粉をスコップでかき集めわが社の置き場にストックし、それをまた高炉メーカー〔5/29のブログで説明〕や電炉メーカーに納入する商売でした。

今で言う3K(きつい・汚い・危険)の代表的な仕事でしたが、そのスケールは当時まだ貴重な製鉄原料でしたから、わが社は最盛期関東地区で月間6~7000t集め、集めた分だけは売れました。ある時期その仕入先メーカーは、江東地区及び市川・浦安地区だけでも10社内外も在り効率的な集荷が実現しました。

次の商売への大きな転機は昭和40年代に入り、そのスケールの仕入先の伸鉄メーカーより、スクラップである材料を集めてくれないかとの依頼でした。要するにスクラップを市中から集荷し、規格サイズに加工したら、買ってやるとの新たなビジネスでもある提案でした。むしろわが社でその供給する材料を一定量納入したら、スケールの方は安定して売ってやるとのバーター条件でした。

昭和41年にその加工工場を建てるべく、本社の直ぐ近くに更に土地を買い求めました。まだその用地は田圃で、坪当たり5~6万円の世界でした。それから約30年間、所謂スクラップ加工業として、スケールの次の柱としての商売がスタートした訳です。そのスクラップの仕入先はわが社近くの町工場である、鋼板加工業者(溶断業者)でした。

その次の、今もってわが社のメイン事業である素材販売の取っ掛かりは、この溶断業者からの進言でした。梶哲さんのところで集荷したスクラップの中に、上物(加工用母材として使えるもの)があれば素材として、少し高く買っても良いですよ・・・。

昭和50年わが社はその様な中小の溶断業者向けに、市中の大手溶断業者から発生する残材や端板あるいは高炉メーカーから発生する級外品などを専門に在庫販売する事業を開始しました。板一枚一枚に定価正札を貼り、週一回はほぼ全在庫品のリストを作り販売先に送付する、ユニークな商売でもありました。

言うまでも無く、狭い工場で在庫の場所も惜しんで加工している業者にとってみると、近くに自社の倉庫代わりで、必要なだけ駆け引き無に便利に買える材料屋がある訳ですから随分と重宝がられました。

この事業も30年経過し、今では規格品(一級品)や規格相当品(無規格)だけの扱いとなりましたが、現在はその倉庫は浦安に移転し、自社溶断工場とも合体し操業を続けています。


※伸鉄メーカーとは:市中でスクラップを集め一定のサイズ・重さにし、溶かさずそのまま加熱して圧延し、主に鉄筋丸棒を生産していた小規模の鉄鋼メーカー。往年関東では30社ほど操業していたが、今日存続している企業は無い。
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葛西の地その3

2006年08月19日 17時09分36秒 | Weblog
なぜ江東区亀戸から、江戸川区葛西に引っ越したかと言いますと、先代(父親)の商売が拡大した事によります。

昭和35年は創業より8年目に入っていましたが、先代が興したミルスケール(簡単に言いますと鉄の粉)の集荷業も順調に推移していました。亀戸は当然借家でしたが、敷地内にはそのミルスケールやトラックの狭い置き場、小さい木造平屋の家は事務所と自宅が一緒でした。

そこは商店街に隣接していたこともあり、年々扱い量が増えるに従って、トラックの出入りも頻繁になり、更に鉄の粉が近隣に飛ぶなど移転は時間の問題でした。

どうして葛西が移転先になったのか、小さかった私にはその詳しい経緯は分かりませんが、その当時は「葛西の地その1」に書きましたように交通が非常に不便な土地でしたから、会社としては大きな決断でありリスクはあったと思います。しかし都心に近くその割に地価は安く、と選択要因としてはそんなものがあったと想像しています。

私たち子供にとっては、同じ敷地ながら自宅と会社が分離している葛西の新天地は、初めて自分の部屋が持てる喜びが全てで、それからの商売の行く末を憂慮したかもしれない親の心内など、微塵も知るすべさえありませんでした。
 
その後40年代に入り、この江戸川区南部には一つの社会現象が起こりました。主に運送業や金属鉄鋼業が墨田区や江東区から次々と移転して来ました。それらの会社も同じように近隣から追われるようにして、同じように広い場所が確保でき、土地も安く、都心に近いこと言うことで新しい土地を求めたのです。

結果的にわが社も、この土地で大きく飛躍し、商売の内容も大きな方向転換を迎えることになりました。
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葛西の地その2

2006年08月16日 10時26分45秒 | Weblog
コメントを頂きました内田さんのご指摘の通り、昔はこの地域の地名としては長島村とか葛西村しか無かった様です(正確には私も調べていませんが)。戦後も暫らくは、まだまだ自然が残っている、町と言うより、のどかな農村と漁村だったのでしょう。

引っ越した土地は、ちょうど旧地名で長島と葛西にまたがっていましたので、私も長島の呼び名にはいまだに懐かしさを覚えます。その後長島の地名は消え、そのほとんどが現東葛西や中葛西に地名変更されました。

当時我が家から一キロ位南下したところが海岸線でしたが、昭和40年代にはその先一キロ沖まで壮大な埋め立て工事が行われ、葛西南部の景色も一変しました。ですからこのあいだ十四日早朝、首都圏で大規模停電の原因になったクレーン船が破損した送電線の下の江戸川区は、昔は大よそ海だったと言うことです。

昭和44年、それまで新木場で折り返し運転をしていた地下鉄東西線が西船橋まで全線開通し、我が家から3分のところになんと葛西駅が出現してしまいました。

また昭和50年代中頃、環状七号線は葛飾区方面から葛西駅の南側50メーターまでで通行止め、その先は長らく工事中でしたが、それが湾岸まで貫通しました。

そのあたりから葛西は激変します。

農道を歩いて小学校に通った頃の葛西。大きな池では雷魚(らいぎょ)も捕れた頃の葛西。その葛西は、今ではそんな事を知らない人が多く住む、電車でなら20分で大手町に行ける都会に様変わりしてしまいました。
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葛西の地その1

2006年08月07日 11時10分50秒 | Weblog
自宅から海までは約一キロ程、小学校の遠足でも潮干狩り行ったことがあります。牧場が直ぐ自宅の裏手にあり、あの独特な臭いはありましたが、牛の声が聞こえのどかな感じが漂っていました。家の前にはきれいな小川が流れ、ザリガニや小魚などもよく取れました。小川のすぐ脇には海苔が干してあり、秋には稲が実り、蓮田も多くレンコンもよく収穫されていました。

これは私が小学生の頃の地元の様子です。しかし私は田舎に住んで居た訳ではありません。

これは正真正銘、東京都の話しです。そうなんです、江戸川区葛西の昔です。46年前、昭和35年7月わが家は、隣の江東区亀戸から引っ越して来ました。私が小学校の3年生の時でした。

当時葛西の地は、陸の孤島とか東京の片田舎と言われたほど、交通は不便でした。代々続いた農家はそこそこありましたが、所謂一般の住宅や会社・工場など殆どと言っていい位在りませんでした。

亀戸第二小学校から、葛西第一小学校に転校しましたが、そこの卒業生はほぼ全員隣の葛西中学に進学する時代でした。亀戸は既に都会で、進学受験についても熱心な文教地区でした。

その葛西小学校への編入は3年の二学期からでしたが、そこで最初にビックリしたのがクラス男子は全員が長ズボン、半ズボンは私唯一人でした。

他にもカルチャーショックは色々有りました。反対に受け入れる側も、都会から変なやつが来てと違和感はあったのでしょうが、幸いにもいじめには遭いませんでした。いじめの概念がまだ無かったのでしょうか。
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わが社の朝礼

2006年08月01日 13時18分02秒 | Weblog
直前に投稿しました「私のブログ」でも書きましたが、わが社では隔週の月曜日に朝礼を行っています。正確には私が参加する、とした方が良いかもしれません。

毎朝する挨拶代わりの会が世間一般の朝礼であるとすると、二週間に一回の朝礼を朝礼と言うかどうか分かりませんが。話しがややっこしくなりますが、実はわが社では世間一般で言う朝礼は、他に行っています。それには、私は参加していません。

溶断2工場では始業時毎日、現場職と管理職が集まり、本日の受注状況や工程管理や連絡事項など簡単なミーティングを行っています。

一方私の参加する朝礼は、主に営業・管理職及び事務職を10名程集め、朝8時半から30分間行います。

どんな事をするかと言いますと、先ず毎回持ち回りで一人担当を決め、経営計画書(わが社の年度方針書)を数頁ずつ読み上げます。その箇所の方針に対し、その者が普段感じていることや疑問点などコメントを付けます。

その後その担当者が、用意したスピーチを披露します。どんなテーマでも構いません。世の中の出来事、家族のこと、自分の趣味、生き方など・・・。過去色んなスピーチがありました。回を重ねるごとに、だんだん人前で話す、自分の意見を言うことに、社員の抵抗が無くなって来ていると感じています。

それからそのスピーチについて、各自フリーに意見があれば言ってもらいます。社員間の意思疎通や、互いの価値観の認識においてはとても役立っていると思っています。

最後に私が話します。話しの内容は? 今までのブログに書いてきた様なことです。

会議でもない、打合せでもない、発表会でもない、雑談でもない、考えてみると不思議な会合(朝礼?)かもしれません。
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