梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

成田工場のその後(その5)

2013年01月25日 20時05分20秒 | Weblog
不動産会社からは、7月断られた会社がその後方々探した結果が、相応しい物件が見当たらず、わが社成田工場が気に入ったらしく念の為にと、また連絡が入ったと言うのです。

その会社は材木問屋さんでした。代々続いている中堅企業のようですが、鉄鋼業と同じく材木業も決して経営環境は良くないものの、独自路線で活路を開き生き抜いて来ている会社だと、その不動産会社から聞かされました。

同業他社が廃業や倒産する中で、その処分品を極力安く一括買い取り、選別をして、古材を大事に活かして在庫販売をしているとのこと。勢い在庫量は多く、現在自社倉庫の他に二箇所借りているけれど、更に置き場所が不足の状態で、新たな倉庫を探していたのです。

早速現地立会いのもと成田工場の設備を全て見てもらいました。先方からは、思っていた通り満足できる倉庫、との第一声。建物図面や設備概要資料は既に先方は見た上で、何回か外からの下見は済ませていたのです。

その現地での立会いが、その社長と初対面となりました。細かいことには拘らず、ストレートに物はおっしゃるけれど、好感の持てる方でした。互いにこれ以上無駄なことは避け、極力現状のままの引渡しで話しは進みました。

肝心な売却価格についてですが、今回も先方からは値引き要請はありました。ただし第三者に壊された変電装置など破損や毀損がある状態で、わが社が修復をしない引渡しとのことで最終合意をしました。

前回キャンセルされたところとの価格が、高いか安いかの話しはここでは明言を避けます。何よりもこの成田工場の新たな価値を見出してくれて、買い手売り手の心が一致したのですから、これ以上喜ばしいことはありません。

先方の調達資金の問題や、わが社の先方から頼まれた若干の懸案もあり、暫らく時間を要しました。その間契約書は交わしませんでしたが、今回は不動産会社によって、きっちりと中継ぎをしてもらったことは言うまでもありません。

そして新年1月11日全てが終り無事代金も入金となりました。
~次回をこのシリーズ最終とします~
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成田工場のその後(その4)

2013年01月19日 11時00分07秒 | Weblog
その売却先からは、政府系金融機関から融資を受けたいので、暫らく引渡しは待ってもらいたい旨の連絡を何回かはもらいました。しかし終始、間違いなく取得するので心配は要らないとの内容でした。

それから二ヶ月後、全く思ってもみないことが起こりました。先方からの突然のキャンセルです。その理由は、息子から反対を受けたとのことでした。

取得した土地を利用しての新規事業を、息子である専務に将来任せるつもりだが、今回の投資額が過大になり過ぎるので、当面自己所有している設備で行っていきたいとの主張です。

私から見てこれは明らかに偽りです。有利な制度融資がおりなかったのか、改築など行うと意外と費用が掛かるのか、先方のよこしまな本心が伝わって来ました。息子のせいにして自分の責任を回避する、人間性を疑うものでした。

それにしてもこの二ヶ月引っ張ってきた空白をどう埋めるものなのか。口頭ではありましたが、その社長を引き合わせて頂いた第三者を介しての約束ごとでしたので、場合によっては違約金を、との考えが一瞬頭を過ぎりました。

しかし、その断り方に呆れかえり、そんな人を相手にしてしまったというのが私の本音でした。それ以上煮詰めなかった落ち度があるのは自分です。そんな先方を信用した原因は自分にあると、直ぐに切り替えることにしました。

その直後です。成田工場に行って気付いたことです。空き家になっていた工場が、空気がよどんでいて暗い感じを受けたのです。また以前は気にならなかったことですが、完全に片付けがなされていない箇所も何故か目立ちました。

9月に入り、そんな掃除が終りかけていた頃です。取引銀行の関連の不動産会社から「7月に梶哲さんから断られた会社ですが、万一売却が決っていないのなら、もう一度話をしたいと申し出がありました」との連絡が入ったのでした。

その不動産会とは、初期の頃、方々に声を掛けていた一社でした。7月の段階ではわが社は先の会社に売却が決っていましたので、実はその不動産会から引き合いがあったのですが、既に決ったとお断わりをしていたのです。 
~次回に続く~
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成田工場のその後(その3)

2013年01月12日 10時54分31秒 | Weblog

このテーマが何故(その3)かと言いますと、去年の9月に書いた続きだからです。
閉鎖した成田工場が、人気が無く空気がよどんで暗い感じがして、完全に片付けも済んでいないことから、再度清掃をやり直した事までを書きました。

それから三ヶ月経った去年12月下旬、ある会社と売買契約書を取り交わし、昨日11日に正式引渡しとなりました。そうです売却先が決って、ようやく成田工場はわが社の手を離れました。閉鎖してから一年九ヶ月掛かりました。

実は、一旦決った話しが破談となりました。この経緯を振り返って、その間の自分の心境などを整理してみたいと思いました。

当初は当然のことながら、地元の不動産会社やその外方々に手を尽くし、売却なり賃貸なり相手先を探しました。その価格にしても賃料にしてもあくまでもわが社の希望で、具体的になった段階で煮詰めればよいとの考えでした。

始めの頃は、少ないながら何件かの引き合いが入りました。しかしその話を進め現地を案内するものの最終価格の詰めまでは至らず、相手先にとってもこの物件は選択肢の一つであり、それ以上進むことはありませんでした。

半年経った頃から、そんな話しすら断ち切れ、全く引き合いが途絶えました。地元の大手物流会社に飛び込みで当たってみるとか、更に新たなルートで探すとかにしても、空を掴むような途方もない仕事です。完全に甘くみていました。

そんな去年の6月、前向きに取得したいとの話しが持ち上がります。成田工場から遠くない会社で、新規事業の為の倉庫を求めていたのです。その会社の社長とは、ある方を介して数年前に知り合いになった人です。久しぶりに三人で食事をしていた時に、急に話しが進んでいきました。

早速工場に案内をし、その場で売買価格の話となり、翌日には先方からわが社が提示した価格より一割強の値引き要求がありました。長らく空き家にしている工場も、一年経った辺りから、建屋が荒らされたり変電設備の銅線なども盗まれたりしていました。これ以上時間を費やしても、この先で決る保証も無く、その値引きを受け入れ承諾しました。勿論、実質交渉成立です。      ~次回に続く~
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新年のスタート

2013年01月05日 10時24分41秒 | Weblog
明けましておめでとうございます。2013年が皆様にとりまして、実り多き年となりますことを心よりお祈り致します。

4日営業部長と私は新年の挨拶回りで、会社は休みでしたが、一足先に活動を開始しました。仕入先様の鉄鋼メーカーや商社を半日掛けて回りました。都心の本格的な仕事のスタートは、7日からの様子で、街は人並みもまばらでした。

意外とスムーズに挨拶回りが終りましたので。その足で二人は浅草に向かいました。先代の墓参りに行くことにしました。地下鉄銀座線の上野の駅で、大勢の人が乗り込んで来て、さしずめ朝の通勤ラッシュの様相です。

そうです、皆さん浅草に行くのです。ここに居る人達は未だ正月休みです。我々は浅草の一つ前の駅、田原町で降り東本願寺に向かいます。墓参りを済ませ、国際通りを横切り、浅草寺仲見世の方向に歩いて行きました。

途中蕎麦屋に入りましたが、タッチの差で待ち時間無く、席に着くことが出来ました。私達が出る時には、空席待ちのお客さんが既に溢れかえっています。暫らく歩き有名な天麩羅屋さんに差し掛かると、異常な程の行列。

一時期週末も閑古鳥が鳴いている程閑散としていた浅草も、今や完全に観光地として復活しました。色々と復活の要因はあったのでしょうが、東京スカイツリー効果は絶大です。しかし古くから浅草に親しんでいる私としては複雑です。

売れる商品は何でもあり、儲かれば全て良し。お店や施設が繁盛するのは、それはそれで良いのですが、本来持っている浅草の風情や人情味が薄れて、昔の浅草を知っている人が去って行かなければと思います。

話は戻りますが、当日訪問した鉄鋼メーカーの役員の方が、政権も交代して経済再生効果も期待出来て、今年はメーカーにとっても良い環境なってくる、と久しぶりに明るい表情でした。勿論我々流通もそれを望むところです。

しかし為政にしても経営にしても、マジョリティにただ迎合するだけでは本質を見失う恐れがあります。浅草に来ましたので、仲見世を通って浅草寺に行こうとしたのですが、その人込みにあまりにも圧倒され、浅草駅に直行しました。
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