大阪の知っている方が先週他界されました。享年66歳、突然の心筋梗塞によるものでした。その訃報が私に入ったのは通夜の前日でしたが、どうしても都合が付かず葬儀には参列出来ませんでした。
わが社は鋼材を仕入れる際には、例えば大手鉄鋼メーカーとは直に商売は出来ず、必ず商社(一次問屋)が介在します。つまりわが社の仕入窓口は商社となります。一昔前までは所謂大手総合商社がその一次問屋でした。近年はその商社から鉄鋼部門が外出しされ、更に他の商社と統合され殆どが別会社となり、我々鉄鋼二次問屋の商権はそちらに移譲されました。
27年前に、その大手商社にわが社は飛び込み営業をかけました。目的は、当時わが社で扱っていた発生材(規格外商品)の仕入れ拡充でした。その商社の製鉄原料部の或る担当者は、聞いたこと無い小さな会社が、無謀にも総合商社に挑んで来たことに大変興味を持ってくれたのです。
それから暫くしてその商社はわが社に口座を開設してくれて取引が開始したのですが、その方の英断と懐の広さ、信じられない運びでした。それまで総合商社とは全く無縁だったわが社にとっても、まさに青天の霹靂でした。
当時は先代が元気な時で、その下で私の弟が仕入れを担当していました。弟はその方に公私共に可愛がって頂き、度々ご自宅に招待されては食事をご馳走になり、懇切に商売の指導も受けました。その商社とわが社の取引は、後に厚板部へ主管が移されてからも、その方と個人的なお付合いは続きました。商社を退職されたその方は、経営コンサルタントして後進の指導をされて来ました。
生前先代は、ある高炉鉄鋼メーカーとの取引を切望していました。昭和50年に端材で鋼板販売を開始したわが社にとってみれば、夢のまた夢でした。しかしその商社と取引が出来た結果、その商社が強く後押しをしてくれたお陰で、十数年前にその高炉メーカーと取引がスタートして、今日に至っています。
わが社の恩人である、その方が亡くなられたのです。そんな出会いと縁が無かったら今日の梶哲商店はあり得なかったでしょう。昨日弟と大阪の豊中市のご自宅を尋ね、ご霊前で心からの御礼を申し上げました。
わが社は鋼材を仕入れる際には、例えば大手鉄鋼メーカーとは直に商売は出来ず、必ず商社(一次問屋)が介在します。つまりわが社の仕入窓口は商社となります。一昔前までは所謂大手総合商社がその一次問屋でした。近年はその商社から鉄鋼部門が外出しされ、更に他の商社と統合され殆どが別会社となり、我々鉄鋼二次問屋の商権はそちらに移譲されました。
27年前に、その大手商社にわが社は飛び込み営業をかけました。目的は、当時わが社で扱っていた発生材(規格外商品)の仕入れ拡充でした。その商社の製鉄原料部の或る担当者は、聞いたこと無い小さな会社が、無謀にも総合商社に挑んで来たことに大変興味を持ってくれたのです。
それから暫くしてその商社はわが社に口座を開設してくれて取引が開始したのですが、その方の英断と懐の広さ、信じられない運びでした。それまで総合商社とは全く無縁だったわが社にとっても、まさに青天の霹靂でした。
当時は先代が元気な時で、その下で私の弟が仕入れを担当していました。弟はその方に公私共に可愛がって頂き、度々ご自宅に招待されては食事をご馳走になり、懇切に商売の指導も受けました。その商社とわが社の取引は、後に厚板部へ主管が移されてからも、その方と個人的なお付合いは続きました。商社を退職されたその方は、経営コンサルタントして後進の指導をされて来ました。
生前先代は、ある高炉鉄鋼メーカーとの取引を切望していました。昭和50年に端材で鋼板販売を開始したわが社にとってみれば、夢のまた夢でした。しかしその商社と取引が出来た結果、その商社が強く後押しをしてくれたお陰で、十数年前にその高炉メーカーと取引がスタートして、今日に至っています。
わが社の恩人である、その方が亡くなられたのです。そんな出会いと縁が無かったら今日の梶哲商店はあり得なかったでしょう。昨日弟と大阪の豊中市のご自宅を尋ね、ご霊前で心からの御礼を申し上げました。