梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

返し尽くせぬ恩

2010年08月28日 06時11分16秒 | Weblog
大阪の知っている方が先週他界されました。享年66歳、突然の心筋梗塞によるものでした。その訃報が私に入ったのは通夜の前日でしたが、どうしても都合が付かず葬儀には参列出来ませんでした。

わが社は鋼材を仕入れる際には、例えば大手鉄鋼メーカーとは直に商売は出来ず、必ず商社(一次問屋)が介在します。つまりわが社の仕入窓口は商社となります。一昔前までは所謂大手総合商社がその一次問屋でした。近年はその商社から鉄鋼部門が外出しされ、更に他の商社と統合され殆どが別会社となり、我々鉄鋼二次問屋の商権はそちらに移譲されました。

27年前に、その大手商社にわが社は飛び込み営業をかけました。目的は、当時わが社で扱っていた発生材(規格外商品)の仕入れ拡充でした。その商社の製鉄原料部の或る担当者は、聞いたこと無い小さな会社が、無謀にも総合商社に挑んで来たことに大変興味を持ってくれたのです。

それから暫くしてその商社はわが社に口座を開設してくれて取引が開始したのですが、その方の英断と懐の広さ、信じられない運びでした。それまで総合商社とは全く無縁だったわが社にとっても、まさに青天の霹靂でした。

当時は先代が元気な時で、その下で私の弟が仕入れを担当していました。弟はその方に公私共に可愛がって頂き、度々ご自宅に招待されては食事をご馳走になり、懇切に商売の指導も受けました。その商社とわが社の取引は、後に厚板部へ主管が移されてからも、その方と個人的なお付合いは続きました。商社を退職されたその方は、経営コンサルタントして後進の指導をされて来ました。
 
生前先代は、ある高炉鉄鋼メーカーとの取引を切望していました。昭和50年に端材で鋼板販売を開始したわが社にとってみれば、夢のまた夢でした。しかしその商社と取引が出来た結果、その商社が強く後押しをしてくれたお陰で、十数年前にその高炉メーカーと取引がスタートして、今日に至っています。

わが社の恩人である、その方が亡くなられたのです。そんな出会いと縁が無かったら今日の梶哲商店はあり得なかったでしょう。昨日弟と大阪の豊中市のご自宅を尋ね、ご霊前で心からの御礼を申し上げました。
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言葉に真心を

2010年08月21日 10時50分32秒 | Weblog
このブログ上でも今まで何回か書いてきたことですが、自分が話すことに関して最近疑問を抱いています。人が話すことも、当然のことですが気になります。何で疑問を抱くか要約すると、意味が無い言葉を発していないか、嘘や偽りの話しをしていないか、言葉数が多過ぎないかです。

人類史上では初めから言葉があったのでは無く、他の動物と同様に言葉以外でコミュニケーションを図っていたことは自明です。言葉以前は、身振りや音声などによる情報伝達をしていたのであり、それこそ以心伝心という手段があったのでしょう。

言葉は便利な手段として、人間の進化と共に相当な発達をしたはずです。本来言葉はストレートに表現しておかなくてはならないのに、言葉を巧みに使えば使うほど嘘がつけるようになり、無意識に使うことも身に付いたのではではないでしょうか。

特に日本人の話し言葉には、かなり本音とは違うものがあると言われています。ですから言葉の裏を読み取らなくてはならなくなります。またその話し言葉に、意味が有るのか無いのかも判断しなくてならなくなります。便利に使い過ぎた弊害とも思われます。

“言葉は言霊(ことだま)にしなくてはならない”という考えがあります。私はあらためて、これを実践したいと思っています。使う言葉を厳選して、その言葉に真心を込める。簡単に言ったら、気を入れて話すことでしょうか。

私は中学生になった頃から、どちらかと言うと無口になりました。理由は色々でしたが、一つは受験戦争との葛藤だったかもしれません。無口な性格は高校まで続きましたので、話す能力は未熟のまま成長しました。社会に出て必要に迫られ話すようになりましたが、自分では未だ口下手と思っています。

言葉数が少な過ぎても問題があり、それは自覚しています。しかし今私は社長の立場で、特に思うのは、話し過ぎです。言葉数が多いから伝わるかと言うと、どうも逆効果です。話す時は言葉を言霊とする努力をし、話さない時は話さないことの重さを考えながら、話すことを考えたいと思います。
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最後の出番長男

2010年08月14日 14時20分23秒 | Weblog
8日の日曜日、帰国する高校二年の長男を成田空港に迎えに行きました。イギリスとアイルランドの、二週間に亘る修学旅行から帰って来たからです。ロンドンでの二日間だけが観光で、残りはアイルランドの首都ダブリンでの語学研修でした。

家内は山形の実家に行っていましたので、私が迎えに行くことになりました。英国の通貨ポンドとアイルランドの通貨ユーロの残金を空港で日本円に両替して、学友とも別れ、息子と車で帰路に。その車中、彼は日本と向こうの文化の違いを盛んに話してくれました。

彼は去年ニュージーランドに、二ヶ月間語学の研修留学をしました。その経験もあってか、今回は余裕があったようです。初日は聞き取りにくかった英語も、その後勘が戻り、少なくとも話す方は相手に通じたとのことでした。若い時の外国語や海外体験は、自然と身に付いてしまうものなのですね。

ダブリンでホームステイをしたのですが、その60歳前後の夫婦が親しみやすく、とても気が合ったようです。ご主人はタクシーの運転手で夜居ない日も多く、奥さんとは結構会話も楽しみ、ビデオで映画も一緒に観たそうです。

長男は、勉強が好きではありません。はっきり言って、今は最低限の勉強しかしません。そんな彼を見て当然のことながら家内は、時にはくどく、時には厳しく責め立てます。一方私は、学ぶことの必要性は説きますが、勉強の強制は一切しません。

強く出てしまうそんな母親に対して、ののしったり、反発をあらわにしたりはします。しかし父親に海外の体験談を屈託無く話せる、ホームステイ先で外人の大人と人間関係を結べたらしい息子を見ていると、曲がった道を歩んでいるとは私には思えません。

親はどうしても、勉強が出来る子供を良い子だと決め付けがちです。この尺度を今一度考えてみる必要があります。私は子供を見る尺度は色々あっていいと思います。長期の留学が息子の近い将来の夢のようです。海外留学の功罪はあることは私も知っていますが、その夢をもう少し見守りたいと思います。
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実家にいる次女

2010年08月07日 10時28分22秒 | Weblog
前回は長女のことに関して触れました。わが家には次女もいますので、彼女のことも少し紹介したいと思います。次女は去年美術大学を卒業して社会人二年目です。学生時代は下宿していましたが、現在は私達と一緒に住んでいます。

去年の新卒者の就職状況は、世界同時恐慌の直撃を受け最悪でした。もっとも次女の場合、全くノー天気でした。体育会系の長女は、就活は早くから積極的に行っていて、当時は景気も良かったせいもあり、大学4年になった時点で内定を4~5社から貰っていました。

案の定、マイペースの次女は卒業後暫く職には就けませんでした。「ああ、プータローってこうなって行くのだろうな・・・」と、私は静観すれども、一切口出しはしませんでした。親が幾ら苦言を呈しても、本人の気持ちが伴わなければ逆効果であることは読んでいたからです。

原宿にある小さなファッションブランド店で、欠員が出たから手伝って欲しいと、娘の友人から誘われバイトで勤め出したのは去年の6月頃です。しかしそこの経営者がいい加減であったのか、今年2月にその店舗は閉鎖となりました。

ようやく本気で自分で職を探し出した矢先、学童保育の仕事を見つけて来ました。両親が共働きなどで保護者が不在である小学校の児童を、家庭に代わり放課後一定時間保育する、そのスタッフなのです。元々この学童制度は公設ですが、現在は民間の企業がこの保育を請け負っているようです。

親が不在の時間帯、学校と家庭を繋ぐ大切な役割です。児童から「先生!」と呼ばれるそうですが、学習教育はしてはいけないそうです。しかし次女の場合、絵を描くこととか工作をするとかはお手の物ですから、結構児童が慕って集まって来るようです。“芸は身を助く”ですね。

それにしても、毎日疲れて果てて帰って来ます。児童に突然飛びつかれた、暴力を振るわれた、喧嘩の仲裁をしたらとばっちりを受けた、など等。それよりも、心の悩みを抱えている子供も多いとか。親子の関係や家庭の事情が、どうも子供に反映されるようです。何ごとも勉強だからと、いつも励ますのですが。
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