梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

親鸞展(その2)

2023年05月26日 18時21分47秒 | Weblog
たまたま参加した地元の文化講座は、「なぜ生きる/親鸞聖人と『歎異抄』」とのテーマで、副題は「苦しくとも生きねばならぬ理由は何か?」でした。その案内が新聞の折り込みチラシとして入っていて、受講料も事前申し込みも不要とのことでした。興味を持ち、講座に参加してみました。

平日の日中行ってみると、参加人数は14~15名ほどで、年齢層は60~70歳代です。二時間のこの講座は、以前から継続して行われているようで、私はその後三回受講することになりました。講師は三人が持ち回りで行っています。いずれの方の話も分かりやすく、私は歎異抄の解説書を読んだことがありましたが、また新たな切り口を発見できました。おおよその内容としては、以下となります。

幸せには絶対と相対がある。相対の幸福は長く続かず、絶対の幸福は尽きることがない。相対の幸せとは、常に比較する相手(尺度)が存在する。食べる寝るは誰よりも、もっと美味しいものを食べたい、まだ十分に寝たいとなる。健康は誰よりも、病に侵されずいつまでも元気でありたいとなる。金や地位は誰よりも、さらに金が欲しい、より名誉が欲しいとなる。これらは、一度得たものでも崩壊する可能性があり、無くなることで苦しみにかわる。

絶対の幸せには、比較するものが全くない。いつでも、どこでも、誰にでも、不変のもの。一念の瞬間(そう思えば瞬く間に)で、この幸せに達成できる。なぜ生きるかとは、幸せになるためである。絶対の幸せが理解できれば、生きている意味が分かる。相対の幸せは生きていく目的にはならないが、絶対の幸せは生きていく目的になる。この絶対の幸せの発見は、ブッタの智慧なのである。

お金の不安、健康の不安、老後の不安、等々。人間は根本的に不安がつきまとう。その不安はどこからくるのか。それは未来からくるのである。お金は無くても不安だが、あればあるほど無くならないか不安になる。今はよくても、ハッキリ分からない未来が不安なのである。ならば未来を明るくする。死は確実な未来である。死んだらどうなるか、死んだ先を明るくさせられる。それが歎異抄に書いてある。摂取不捨(収め取って捨てられない)の利益(幸福)に生かされると。それが絶対の幸福なのである。

さらにこれを理解するには、運命のメカニズムを知ることである。「行い」が分かれば未来が分かる。行いが未来をつくるのである。どんな結果にも必ず原因がある。原因とは、自分が行ったことである。結果とは、その自分の行為から得るものである。結果が善くも悪くも、それを自業自得(因果応報とも)という。運命はどう決まるのか。自分の行為が自分の運命を決めるのである。蒔いた種は必ず咲くが、蒔かぬ種は絶対咲かない。

以上が、三回受けた講座の要点です。「無人島に、一冊持っていくなら『歎異抄』」という言い回しが、もてはやされています。しかし、いきなり原文を持って行っても、理解は難しいでしょう。当然誰かが著した、解説書に頼ることになります。明治以降、書名に『歎異抄』と付く書籍は、500冊を超えるといわれています。

講座を受け持つ講師は、解説書であっても、読んでも中々理解できないので、直に話ができる対面式な講座が大事だと強調します。しかし講座を連続的に開催しても、毎回初めての人が参加するので、先にどんどん進められない難しさがあると言及します。

無料でこのような講座を主催している団体にどのような背景があるのか、まだハッキリ分かりません。怪しげな組織かと疑う気持ちもありますが、しばらく続けてみようと思います。いずれにしても、直前に親鸞の教えを学び直し、親鸞展を観に行くには良いタイミングでした。最終的に京都行きを決めた理由として、関西である人と会う目的もありました。   ~次回に続く~ 





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親鸞展(その1)

2023年05月20日 06時00分31秒 | Weblog
今年は浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたります。それを記念して、京都国立博物館で親鸞展が3月25日から5月21日まで開催されました。5月9日その展覧会に行ってきました。

親鸞は京都に生まれて、九歳で出家して比叡山で修行に励みますが、二十九歳で山を下り、法然上人の弟子となります。そこで全ての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏に出遇うも、法然教団は弾圧を受け、親鸞も罪人として還俗(げんぞく)させられて越後に流罪となります。その後、罪が赦された親鸞は、関東へ赴き長く布教に励み、やがて京都へと戻り、晩年まで主著「教行信証」や「和讃」など多くの著作の執筆や推敲を重ねました。その九十歳の生涯と教えは、今も多くの人を魅了して止みません。 ~親鸞聖人の生誕850年パンフレットより~

親鸞については、去年の7~8月にかけ『歎異抄』と題して六回に亘りこのブログ上で取り上げました。取り上げたきっかけは、NHKの番組で歎異抄について細かくシリーズで解説していたのを観たからです。そして私の父方の宗派が浄土真宗でしたので、この際色々勉強してみようと思いました。歎異抄とは、親鸞の没後、説いた教えの解釈が乱れ、弟子の唯円がそれを嘆いて著わしたものです。

私自身も誤解があったのが次の一節、【善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや】です。意訳は、「善人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、ましてや悪人はなおさら往生できる」となります。となると誰でも、「悪をするほど浄土へいけるのか」「悪をするほど助かるのだ」と、そう捉えてしまいます。これは「悪人正機説」といわれています。

「悪人正機説」の誤解を正すには、親鸞の「善人」と「悪人」の認識を明らかにすることです。私たちは常に常識や法律を頭に据えて、「善人」や「悪人」を判断しています。故に、もし「あなたは悪人ですか?」と聞かれれば、多くの人は「違う」と答えます。一方で「あなたは善人ですか?」と聞かれれば、「善人とは言えないかもしれないが、悪人と言われるほど悪いことはしていない」と答える人がほとんどです。つまり多くの私たちは、自分を「悪人」と思っていないのです。

人間はみな「煩悩の塊」であり、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は知りぬかれたからこそ、必ず救うと誓われたのです。親鸞の説く「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に「悪人」と見抜かれた全人類のことであり、いわば人間の代名詞に他ならないのです。つまり「悪人」とは私(私たち)のことなのです。

では親鸞の「善人」とは、改めてどんな人をいうのでしょうか。善を励んで何とか助かろう、念仏称えてどうにか救われよう、そう勝手に思っている人を、「自力作善(さぜん) の善人」と親鸞は喝破しました。つまり弥陀の本願を疑っている人であり、多くの私たちの疑心の「善人」は、弥陀の他力本願の対象にはならない。だが弥陀は、自力作善のその「善人」さえも浄土へ生まれさせると誓われたのだと、親鸞は諭します。弥陀は誰でも誘引し救いたもうから、【善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや】と言われたのです。親鸞は、自力ではなく、他力の信心を獲た「悪人」こそが、往生の正因を獲た人だと明言したのです。

現代の私たちは、自分が「悪人」だと思えないのに、他人を「悪人」だと思いがちです。何故私たちは、自分に甘く他人に厳しいのでしょう。その理由は、自己主張と自己正当化に明け暮れる私たちのあり方にあります。その状態が「煩悩の塊」なのです。このような私たちを、阿弥陀仏は、仏たらしめようとして本願を起こしたのです。本願の対象は、つまり自己中心を免れない私たちなのです。それを親鸞は「悪人」と言うのです。多くの宗教は、「悪人」から「善人」への転換を要求します。しかし本願念仏においては、「悪人は悪人のまま」で、いいのです。悪人正機説の解釈は、大よそこのようなことになります。

去年のブログを書きながら、例えばこのような学びをしました。今回京都の親鸞展に行くことに決めたのは、直前に、歎異抄に関する地元の文化講座にたまたま参加したからです。    ~次回に続く~


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書き続けること(その4)

2023年05月13日 05時58分21秒 | Weblog
コラム天声人語に、村上春樹さんの新作『街とその不確かな壁』についての記事が載りました。「新作を読んで感銘を受けた。新人時代から40年を経て、ついに決着をつけたのだと。壁と影が主題の同作のもとは、デビュー翌年の1980年に文芸誌で発表した中編『街と、その不確かな壁』だ。だが内容に納得できず、書籍化もされなかった。85年の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で一部取り込んだが、終止符は打てなかった」。天声人語を今回担当したコラムニストは、大学時代からこの中編を知っている、村上さんのファンのようです。

「今回珍しく付けたあとがきで村上さんは、あの中編が“喉に刺さった魚の小骨のような”存在で、書き直せて“ほっとしている”と書いた。コロナ禍が始まったころに着手し、3年かけて完成させたという。改めて両作品を読み比べてみると、40年間で書き上げた物語の完成度に時の流れを実感する。新人時代の後悔も、無駄にならないと思える。小骨を忘れず挑戦し続けることができれば、の話しだが」。こう、コラムは結んでいました。

村上さんにとって、長年この中編は体内からすっきりと吐き出せない、未完で心残りの作品だったのです。他の新聞紙面では、「書きたいものを書けるだけの力がつき、書き直すべき時期が来た」と自ら語っています。40年間心の壁を抜けだす自分をずっと信じていたととれます。見方を変えれば、プロの作家でも40年間は書けないものは書けないともとれます。

レベルは低いですが、私の喉に刺さる小骨です。その私の喉の小骨は、このブログを書き終わり、そして都度解消しますが、毎週繰り返すことになります。でも、自ら書き続けてきたブログです。単に苦しみから逃れるためだけに書き終えているのであるならば、意味はありません。では私にとってこのブログはどのような存在なのか、です。

大学の現場でチャットGPTの問題点が取り沙汰されています。学生の論文などでチャットGPTを使って書くことは、剽窃(ひょうせつ)や盗用の疑いもあり、大学教育の危機といえるとの見方です。教授も生成AIが使用されているかどうかの判断がつかなくなることもある。一方、学生が多くの時間を費やしてきた調査、検索、形式を整えることをAIに任せ、論文の中身の充実に集中できる。そのような見解もあります。

賛否は分かれますが、「AI時代はもう後戻りできない」が大勢のようです。一律な利用禁止は何も生み出さず、文章の生成や相談事など実に多彩な使い方ができ、アイデアの創造や効率化などの点で極めて有用性が高いのがAIである。しかし、出力をうのみにせず、長所・短所を理解した上で利用することが大切であり、自分で考えることなしに答えのみを教えてもらう用途には利用すべきではない。人間がAIの一段上に立てとのことです。

使えたとしてもチャットGPTを使用しないと決め、書き続けようとする、改めてこのブログはどのような意味があるのでしょうか。先に示したように、やはり「自分で考えることなしに答えのみを教えてもらう用途には利用すべきではない」のです。他者の意見を取り入れ、自らの体験も生かし、正しい物事の捉え方や考え方を探究する。その視点でブログを書くことに、意味があると思います。

新陳代謝を繰り返し日々変化できる可能性を持てることは、人間の特性でもあります。その為には、インプットは欠かせません。そしてアウトプットも必要です。村上春樹さんは「小説家は肌で感じたものを書くのであって、考え過ぎると書けない。頭に情報を入れておいて、それを変容させて書くのが小説だと思う」と語っています。自分の頭で温め生成せよ、自らコンピューターになれとのことです。 

17年を振り返って、ブログがあったから、色々なことに興味が持て私の行動の原動力になったことは確かです。投稿が1000回を迎えるのは二年後です。ブログを通して、これからも自分と向き合っていきたいと思います。

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書き続けること(その3)

2023年05月06日 05時35分23秒 | Weblog
私のブログと同じように、締切りがあり書き続けられ公開されているものとすれば、新聞の一面にあるコラムがあります。朝日新聞であれば「天声人語」、日本経済新聞であれば「春秋」です。月曜日から日曜日まで毎日掲載されていて休むことはありません。二紙を読む時は、最初にこのコラムを私は目を通すようにしています。

文字数でいうと、天声人語が600字程、春秋が550字程となります。因みに私のブログの字数は1,700字前後です。字数のボリュームからすると私のブログの方が多いのですが、私の場合は週一ですので、勢い字数は多くなっています。しかし読者からすると、1,000字位までが読みやすいのかもしれません。二つの新聞のコラムの筆者などについてこの機会に、調べてみることにしました。

先ず「天声人語」からです。連載開始は1904年、タイトルが変わったこともありますが、一世紀以上続く歴史ある朝日新聞の看板コラムです。筆者は男性二人で、一週間交代で書いていたようです。去年10月新たに一人女性が加わり、筆者は三人になりました。以下、二人で書いていた時の一人が語ったコメントです。

『テーマを決めてどう着地するか分からないこともあり、テーマや切り口は、その時その時、その日暮らしで考えています。「こういうテーマをいつかやりたいな」と思っても書き溜めることはなく、それに向けて勉強することはありますが、書き上げることは直前の瞬発力にかけています。夜に書き終わり、家に帰って次のテーマを考えつつ、次の朝に新聞を読み、最終的にテーマを決め、夜に書き上げる、この繰り返しです。書く時には、「書きたいこと、書くべきこと、書けること」この3つを闘わせます。書きたいと思っても、それを支える材料を持っているか、納得させられることなのかが重要。本で読んだことがあるか、取材したことがあるか、書けるけど面白いか、などを考えます』

次に「春秋」です。天声人語と同じく日経新聞の一面の一番下に掲載されていて、イメージとしては天声人語のような感じです。導入部分は様々な事件や歴史などを引用して、締めの部分は我々が考えなくてはいけないトピックや社会問題に絡めています。たまたま、春秋筆者歴15年の記者が著した“「春秋」うちあけ話”との本の中で、その方が語った言葉が見つかりました。以下です。

『社説的な批評精神は命だが、目線を低くして、やさしい言い回しで紡ぐ短文であること。大切なのは「説く」よりも「語る」こと。時に感性や人情に訴えかける記事であるからこそ、自由に読んでもらえるよう見出しも署名もない。大上段に振りかぶらず、読者の目を引きやすい導入部で、イキのいいネタを手早く。時々のネタ探しから、構成や推敲、紙面になるまでを綴る。伝わる文章とはどういうものか、大切なのは言いたいことを言うために読後感に気をつけて文章を書いている』

24時間単位で書き続け多くの耳目を集めているコラムに対峙して、筆者は相当なプレッシャーを感じていることでしょう。筆者の一人は「書き溜めが出来ない」といっていますが、取りも直さず日々の生のネタを臨機応変に取り上げるからです。とはいえ、普段から多くの知識を吸収し最低限の実体験をしていないと、恐らくコラムの継続は不可能でしょう。完璧なコラムを書き上げようとする、筆者の精力は尊敬に値します。

「梶さん、ブログのネタ切れはありませんか?」と、たまに聞かれることがあります。「先のテーマを4~5個位はキープしていますので、それはないです」と答えます。そのテーマごとに思いついた事柄を、メモとして事前にストックしておきます。一面コラムのように締切りが常に迫ってくることなく、書く内容も限定されることなく自由に選べるので、私は恵まれていると思います。

私の場合、同じテーマで何週にも亘ってシリーズにしているのは、新たなネタを次から次へと探さなくてもいい対策ともいえます。書くボリュームは一週間単位では同じですが、そのテーマを深く掘り下げられ、ゆっくり時間を掛けて書くことができます。    ~次回に続く~

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