梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

私の洞窟タイム

2018年09月29日 09時45分40秒 | Weblog
この紙面で、今年5月頃から私が早朝ウォーキングをしていることを、何回か書かせてもらいました。これからも継続しようと思っていますので、この習慣は定着しそうです。5時20分に家を出て、ウォーキングの時間はおおよそ40分です。

朝起きて直ぐ歩き出しますが、その日の体調はどうか、このウォーキングで大体分かります。毎朝自分の身体と対話をしているようで、体調がすぐれないと、この40分が長く感じます。古傷で長年かばってきた、左足の筋肉が付いてきたことも実感しています。

話は少し変わります。男性ホルモンと呼ばれているテストステロンは、一般的に男性のテストステロンは女性の10倍以上あり、女性のホルモンと呼ばれているエストロゲンと、健康な女性のエストロゲンは男性の10倍以上あると言われています。

例えば、自立、冷静、問題解決、強さ、競争、これらが男性的特性であれば、共生、情緒、世話、繊細さ、協力、これらは女性的特性です。この特性の現れや保持は、つまり男性ならテストステロン、女性ならエストロゲンのホルモン分泌によると言われます。

男女の関係でも、このホルモンを互いに分泌させることで、互いのストレスを減らことができ、心のバランスを保て、相手を上手に支えられる。このようなことを、先日読んだ本で知りました。

男性は「一人になりたい」、女性は「話を聞いて欲しい」。最もシンプルな行動欲求が男女にはそれぞれあり、これによってそれぞれのホルモンの分泌も高まる。男性の「一人になりたい」を、その本では「洞窟タイム」と表現していました。

私の早朝ウォーキングは、自分一人になってその自分と向き合っている「洞窟タイム」を実行しているのかもしれません。しかし、一方の女性(家内)は「話を聞いて欲しい」訳ですから、その時間も男性(私)は割かなくてはなりません。

今から38年前家内と結婚して、既に娘二人は他家へ嫁ぎ、去年結婚し同居していた息子夫婦がアパートを借り別居したことを、前回のブログに書かせてもらいました。自宅は35年ぶり家内と二人だけに。その二人だけの生活は、そろそろ一ヵ月経ちます。 
  
子供達が小さかった頃、わが家には夕食時の“しきたり”がありました。食事中はテレビを観ないことです。食べることに集中するのは勿論ですが、会話も大事にしたかったからです。その日の出来事、学校や友達のこと、遊びの計画、話題は尽きませんでした。

今家内と二人の夕食時、テレビはつけています。しかし音量は絞って、BGMのようにしています。それでも家内とは会話は途切れることはありません。一時間半ほどの食事が終わると、別々の行動に。家内は2階の寝室に、私は1階の居間に行き、私はそこでゆっくりテレビを観ます。このような二人の生活が傾向化してきました。

夜の私一人のテレビタイムも男の洞窟なら、私は朝夜二回の洞窟タイムを作っていることになります。だから、夕食時家内の話をしっかり聞けるのかもしれません。

前述の本はつい最近読んだものです。後付けとして私達の行動が理にかなっていることを認識しました。男女のホルモンを互いに分泌させることで、互いのストレスを減らことができ、心のバランスを保て、相手を上手に支えられる。とのことと、なります。
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家族が暮らす家

2018年09月22日 06時17分00秒 | Weblog
市川の自宅は遂に家内と二人だけになりました。去年結婚した息子夫婦が同居していたのですが、9月の頭浦安にアパートを借り別居することになりました。今年の3月に孫が産まれ、その孫共々出て行きましたので、家の中は急に静かになってしまいました。

今から38年前家内と結婚して、この千葉県市川市に住むことになります。私の父方の祖父と祖母が暮らしていた、木造平屋の家が在りましたが、既に二人は他界して空き家になっていました。その空き家を、結婚直前に少し改造して私達の住まいとしました。

そして二人の娘が誕生します。それからしばらくして私の父から、その平屋を壊して新築二階建ての家を建てたらどうかと提案されます。その平屋で不自由なく生活が出来て、当時は金利も高く借金までして私は自分の家を持ちたくなかったのですが、父の強い勧めもあり、新居を建てることになりました。今から30年前のことです。

その2年後に父は他界します。父の後押しがなければ、自前の家を建てることは、中々実現しなかったかもしれません。それから3年後に長男が産まれます。平屋建ての家では想像できなかった、快適な生活を送れたことは言うまでもありません。

「休日だからといって、父親は家で一日中パジャマのままで過ごすな」、「日に一度は父親の座で飯を食え」。渡部昇一の著書“父の哲学”の中に出てくる言葉です。このようなことで自然と父親の権威が醸し出され、家庭内で子供の躾けが出来ると氏は仰います。

家族一緒に暮らす家とは寝食を共にして、癒される場でもあり、親の姿を子供に手本として見せる場であり、子供の将来をしっかり見守る(観察する)場でもあります。私は渡部昇一氏ほど厳格な昔型の親父ではありませんが、大正時代生まれの私の父の家庭での振舞いを見ていますし、無意識にそれが私の家の中でも出ていると思ってきました。

わが家にはそのスペースはあったものの、私の両親は年老いても、亡くなるまで一緒に住むことはありませんでした。しかし家内の母親は、義理の父親が死んだ後、軽い脳梗塞を患い、ある時期から同じ屋根の下で暮らし、わが家で最期を見取りました。

多感な年頃の娘達は、家内に大事にされている祖母を見ていましたし、近しい身内の死と向き合うことが出来ました。核家族の時代と言われ、今や三世代が同じ家で住むのは珍しくなりましたが、娘達にとっては貴重な経験になったと思いました。 

その娘二人もそれぞれ他家へ嫁いで、何年か前に家を出て行きました。そして息子夫婦も自立をしたいと、半月前に家を出て行きました。家内と二人だけになったのは実に、35年ぶりです。

結婚した直後は二人が当たり前でしたが、その後娘や息子に恵まれて子供がいるのが長く当たり前となっていました。考えてみればスタートラインに戻っただけです。しかし若かりし頃とは違い、互いの良い所も悪い所もすっかり分かっている(はずの)二人です。

最近ようやく家内の料理の作り過ぎが、修正されてきました。家族の人数が減った以上に、二人は小食になったのかもしれません。そして感ずるのは家が広く散らかっていないです。余計静かに感じてしまいます。二人だけの生活がまた定着するのには時間が掛かりそうです。 
  
家族とは人間のもっとも基本的集団であり、それを支えるのが家。父の哲学や母の慈愛を伝えるのも家。家族が暮らす家は、単なる家ではないと思っています。
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14サミッターとは

2018年09月15日 06時29分03秒 | Weblog
「14サミッター」とは、地球上には8,000メートルを超える山が14座あり、全部を登頂した人のことです。全世界では現在30名を超えています。2012年29番目となりますが、わが国で初めて達成した人が出て、未だにその後に続く日本人はいません。

その人は竹内洋岳(ひろたけ)という方で、現在47歳です。過去日本でも14座完全登頂を目指した人は9座までは4名いましたが、その内の3名は、10座を挑戦している最中あるいは他の山で遭難して亡くなっています。この14座は全てが、中国とネパールとパキスタンの国境近くのヒマラヤとカラコルム山脈にあり、エベレスト(8,848m)が最高峰、次にK2(8,611m)と続きます。

二ヶ月前その竹内氏の講演を聴くチャンスがありました。立正大学山岳部出身で、ICI石井スポーツ所属のプロ登山家で、身長180cmで体重65kg。体型は私と殆ど変わらず、そう言われなくては、偉業を成し遂げた登山家とはとても思えませんでした。

2006年9座を制覇して、登山家としてのプロ宣言をします。しかしその翌年の2007年7月、ガッシャブルムⅡ峰(8,035m)を登っていた時、6,900m付近で起きた山の斜面の形が変わる程の雪崩で、300mも大落下をします。4人のパーティ(竹内氏以外は外人)で2人が死亡して、竹内氏は一命を取りとめるものの瀕死の重傷を負います。

全身打撲、片肺が潰れ、肋骨が5本折れ、背骨が破裂骨折。雪崩から救助されても、命が助かったという喜びも全く感じない。当時はただ生きているだけ、との気持だったそうです。日本に帰国し、破裂した背骨上下を金属のシャフトで連結する手術を受けます。

仲間の誰もがもう登山を諦めると思っていたそうですが、それでも竹内氏は14サミッターを目指すことを断念しませんでした。翌年、そのチタンのシャフトが背中に入ったままで、ガッシャブルムⅡ峰に挑み、ピークを踏むことが出来ます。

「8,000メートルの高さとは」。竹内氏は言います、「旅客機が飛んでいる高さ」。酸素の量は平地の約三分の一、酸素ボンベを使わなければ五歩登ってゼイゼイ・ハアハア。そこは生き物がいること自体がとても不自然、生命感がなく死の地帯だそうです。しかし高所でしか観られない素晴らしい景色もあり、最も宇宙に近い世界が広がっているそうです。

その8,000メートルの世界に初めて竹内氏が踏み入ろうとしたのは27年前、大学の山岳部の創部40周年記念シシャパンマ(8,027m)遠征です。しかし竹内氏はピークに立っていません。大人数で大量の物資を持ち込んで組織的に登る形式、ピークに立てる人は極僅かなのです。竹内氏はその後日本山岳会にも入り、組織的遠征を経験します。

しかし徐々に、少人数で全員ピークに挑む、世界中からクライマーを募る国際公募隊登山に、竹内氏は傾倒していきます。ヨーロッパでは既に一般的で、それまでの日本の組織的登山に対し、同じ山に楽しんで登りたいとの目的を共有するパーソナル登山です。荷物も軽量化する為に、無酸素(酸素ボンベを使用しない)登山が主流です。

そして遂に2012年5月、竹内氏にとって14座最後のダウラギリⅠ峰(8,167)に手が届きました。パートナーが高度障害を起こし最後は一人で登ります。ここでは割愛しますが、下山途中でその死の地帯から受難を受けます。BC(ベースキャンプ)に無事戻って成功なのです。そして日本人初の14サミッターが誕生します。

少数でも皆がピークを目指す、それも楽しんで。会社の在り方の理想かもしれません。14サミッターである以上に、竹内氏の考え方や生き方にも感動を覚えました。





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やらない・やれない理由(その2)

2018年09月08日 06時48分49秒 | Weblog
どこの会社でも、やらなければならない日々の業務は既に存在しています。それまでの日常業務を、余裕を持ってこなしていたのであれば、新たな取り組みに時間は割けるでしょう。しかしわが社においてもそれ程余裕はなく、幾ら時間があっても足りない、そのような状況も現実です。

会社で事業計画を立て実行するということは、この日常業務の他にプラスアルファの仕事をすることです。勿論、現行の業務を見直し、問題はないか、あればその原因を探り、その解決策を織り込んで、新たな取り組みをしなくてはなりません。日常業務しか出来ないのであれば、新たな計画を立てる意味はありません。

「人は、自分の見たいものしか見ず、経験した範囲でしか物事を考えない」、「人は、自分流に勝手なイメージを作り、声高に主張する」、「人は、考えたくない事態は存在しないと決めつける」。これは、“失敗学”で有名な東大名誉教授の畑村洋太郎氏が、失敗を生む人間の悪しき特性として挙げた言葉です。

また人間の認知の特徴として、削除、歪曲、一般化、があるとされています。人はありのままの現実を全て受け取らず、削除・歪曲・一般化を行なっているのです。畑村氏の三つの指摘は、正にこの脳のフィルターを通していることに他なりません。

日常業務を遂行するにしても新たな取り組みに挑戦するにしても、何かでつまずいたり難航したりして上手く運ばないと、その捕らえ方はこの脳のフィルターを通す可能性があります。やらない・やれない理由を、つまり脳が作ってしまう落とし穴がありそうです。

話は変わります。わが家の近くに競馬場があります。先日の日曜日その近くを車で通りました。雨が降っていたのですが、沢山の人が傘を持って黙々と競馬場に向っていました。雨以上に競馬に魅力を感じて、行く人は目指す所に行くのでしょう。

私の早朝の散歩で、犬の散歩や自身の散歩そしてジョギングしている人達に多く出会いますが、雨が降っているとその人達に出会わなくなります。競馬場に向う人達は、競馬場に行きたいという明確な目的を持っているから、傘を差してまで行くのです。

明確な目的を持っていれば、やらない・やれない理由を排除して、やることを行動に移す大きな原動力となります。私の散歩の目的は脳の活性化の他に、通っている療法院のアドバイスを受けて、長年使わなかった左足の筋肉をつけ歩行力を増すことでもあります。

40年前の外科手術を担当した医師から、「骨は付きましたが左足の股関節の機能はこれ以上改善しません」と言われました。私自身も、もうこれ以上の回復はないと、動かない理由を長年信じてきました。しかし左足が動かないのは、私が動かしてこなかったからです。

わが社の7月の月次で結果が出なかったことを以って、「この結果は幹部がいいと思ったから(容認したから) 」との発言は、事を起こさない理由を自ら解釈して、何もせずやることをやっていなかったと私は推察しました。 

それに幹部は気付き挽回を期しました。7月の二の舞を踏まないとの気迫も伝わります。8月の月次がそろそろ締まりますが、改善していることを願います。
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やらない・やれない理由(その1)

2018年09月01日 10時03分13秒 | Weblog
今年の5月このブログ上で、“運動は脳によい!?” とのタイトルで、頭脳と運動との関係を明確に示した本のことをお伝えしました。記憶力を増し集中力を高めるなど、脳にとって運動がとても良いとの内容で、その最適な運動である散歩やジョギングをすることを私は始めました。

3カ月を過ぎ続けています。しかしジョギングは、通っている療法院の院長に止められました。私の足は40年前の手術で左足の長さが短く、筋肉も十分付いてなく、この状態でのジョギングは下半身が硬直し、身体のバランスを崩すとの理由でした。

その散歩で気付いたことがあります。早朝、犬の散歩や自身の散歩そしてジョギングしている人達に多く出会います。しかし雨が降っている朝は、ぱったりとその人達に出会わなくなります。私はといえば、暴風雨でもない限り傘を差して散歩しています。

このように多くの人はやらない理由があると、普段やることを、やらないようになります。仕事においてはどうでしょうか。やらない(やれない)理由があると、やることを諦めてしまうことはないでしょうか。そこのところを、私なりに考えてみました。

人間の根底には、楽と得を求める性癖や、何事も面倒くさいという性質が、どうもありそうです。この考えに立つと、むしろやらない理由を無意識に探しているかもしれません。これは、ごく普通の人が持っているごく普通の性癖や性質と捉えた方が、分かりやすいと私は考えています。

傘を差して散歩をする私は、やらないと気持が悪い自分と、楽をしたい自分との葛藤でもあります。しかし、やってしまえば後には爽快感が残ります。もっとも最近、老人は無理をするな、健康を害する、との諸説が多くあります。どちらかというと、私は頑なな人種かもしれません。

わが社で先般このようなことがありました。毎月10日前後に、わが社では先月の月次業績がまとまり、社員に発表しています。新しい期に入った最初の7月の月次は、本来の結果が出ませんでした。前年度に比べ、経費増(人員増・設備投資)はありました。

「この結果は、幹部がいいと思ったから(容認したから)、悪い結果となった」。この言葉は、その月次を発表した幹部による発言です。一見自ら非を認めて、潔くとられるかもしれません。しかし本当にそうなのか、言葉に隠されている何かを探ってみました。

7月の月初から、この結果でいいと思ったのでしょうか。悪い結果を予測して、途中から何か策を講じたのでしょうか。やろうとしてやれなかったのか、何もせず過ぎてしまってからの言い訳なのか。発言した本人は、それ程深い意図がなかったかもしれません。

今期の経費増の人員増にしても設備投資にしても、直ぐ効果が表れないことを私は理解しています。たまたま7月お客様からの注文も減ったかもしれません。しかし成果が出なかった理由をそこだけに求めるなら、良い成果は出るはずがありません。

何かを気付いてほしいと、厳しく追い詰めることはしていませんが、「この結果は幹部がいいと思ったから(容認したから) 」は、やらない理由・やれない理由を自ら認めて、やることをやっていなかったと推察しています。 ~次回に続く~
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