梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

健康とストレス(その1)

2019年08月31日 09時37分44秒 | Weblog
「ストレスとは、環境によって心や体に負担が掛かっている状態のことを言う。ストレスの要因により心や体に負担の掛かった状態が生じ、これが色々な反応や症状を起こし、長期に亘ると健康問題に掛かりやすくなる」。ストレスを調べると、こうあります。

生きている以上人間はストレスを全く無くすことは不可能ですし、また自分では中々解消出来ないのもストレスであると、私は捉えています。私は30代の頃、長期に亘りストレスを受けて、健康を害したことがあります。これは後でお伝えしますが、健康やストレスに関して先日興味深いテレビの番組がありました。

NHKBSプレミアム、番組名は「偉人たちの健康診断」、その日のタイトルは“戦艦大和 男たちの健康”でした。以下は、番組の紹介文です。

『太平洋戦争中、「世界一」の巨大戦艦を目指して建造された大和だが、海軍が目指したもうひとつの世界一があった。それは“健康”。残された設計図や元乗組員の証言などから、戦艦大和での生活を健康診断。画期的な水兵用ベッドや艦内エアコン、最新機器を備えた医務室などのハード面に加え、食事や運動など健康管理でも万全の理想を掲げた大和だったが、戦闘が始まると、その理想はことごとく崩れていった』。

「島が動いているようだ!」。極秘裏に戦艦大和は完成され、試運転をしているところを見た人の感想です。全長263m、排水量64,000トンの大和は、当時はそれほど巨艦だったのです。世界で最強を目指して建造された大和は、快適さでも世界一を誇りました。

戦艦大和の兵員室は、駆逐艦と比べ一人当たりの面積が3倍となりました。大のトイレには扉が付きゆっくり用を足せ、船内には売店があってお酒まで売っていました。番組では、戦艦大和の三つの快適装備として、冷房、ベッド、風呂、を取り上げます。

それ以前の軍艦でも、弾薬を冷却するため艦内には空調装置がありました。しかしその冷房を兵員の為に艦内に張り巡らせ、夏期温度をだいたい摂氏27度程度に持ちこたえます。一般家庭でエアコンが普及したのは昭和40年代ですので、これは画期的です。

大和には、三段式の吊り下げベッドが造られました。それ以前のハンモックは、狭いスペースには適していましたが、最大のネックは寝返りが出来ないことです。ベッドであれば寝返りをし、血行障害を防ぎ、腰や首の痛みを解消し、胃腸への負担を軽減します。

そして大和には5~6人が入れる、海水風呂が設置されました。それまでの兵員の入浴は週に一回程度でしたが、大和では3日に1回この海水風呂に入れました。温泉で言えば食塩泉(熱海温泉と同質)であり、非常に体が温まる温泉に入れたということです。

更に健康の源が「大和メシ」です。肉料理も豊富で、栄養バランスが取れた献立が毎日提供されました。麦飯が主食ですが1日720g、大盛りのお椀7杯分に相当します。大和メシの1日のカロリーは、約3000kcalとなります(現代成人の目安2000kcal前後)。

昭和16年12月の日米の開戦直後から、皮肉にも戦いの主役が大和のような戦艦から航空機へと移行したことは、戦史に明らかです。この状況の変化により、大和が必勝を目指していた戦艦による艦隊決戦自体が行われなくなり、出番が少なくなります。

そのような中、徹底した日々の訓練は怠りませんでしたが、フィリッピン近くの洋上で戦闘に備えている時期が長期に及びます。戦わずして洋上に浮かぶ快適な戦艦を、大和は「大和ホテル」、武蔵は「武蔵旅館」と、揶揄してそう呼んだ人もいます。

しかし戦時には艦内は一変します。空調のダクトが空気の通り道となり火災の原因となるので、送風を止めてしまい、蒸し風呂状態となります。被弾に備え兵員は声や音を出せず、無音の閉鎖空間となります。そして大和メシはおにぎりに変ります。兵員はその強いストレスで、免疫力が低下してしまったのです。  ~次回に続く~

勇壮な戦艦大和
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諦めない(その2)

2019年08月24日 05時29分04秒 | Weblog
松下幸之助翁を初め世の中の偉人は、成功するまでやり続けた人です。成功者は、途中で諦めなかった人達です。恐らくその人達は、出来るか出来ないかなのではなく、出来る為にどうしたらいいのかだけを考えたのだと思います。成田緑夢さんはその一人と言えます。

今その成田さんに、厳しいお父さんは傍に居ません。彼はたった一人で、走り高跳びで2020年の東京パラリンピック出場を目指しています。その理由は「僕と一緒に色々考えてくれて、良いものを見つけ出せる人が中々見つからない」であり、他者の演技を観ても「僕には人や物が発するエネルギーがカラーで見えるんですよ」とも話します。

成田さんが小学校6年の時、兄姉は父の指導に我慢できずに出て行ってしまいます。その後一手に父の厳しい指導を受けますが、緑夢さんが障害者になったことで、父は少し変ったと言います。上手く演技が出来ると、褒めてくれるようになったと言います。

五輪を目指すのが当然の昔の成田家では、父が脳、子供達はロボット。「現在は、過去の厳しい父の指導も理解出来るし、良き理解者同士で普通の親子関係に戻った」と、緑夢さんの今の心境です。離れて行った兄姉も、何かがあれば父の元に集うそうです。

“NEVER NEVER NEVER SURRENDER”。これは今から17年前の2002年、阪神タイガースの監督に就任した星野仙一監督が掲げたチームスローガンです。そして何とその翌年、星野監督は、阪神を1985年以来18年ぶりに8度目のリーグ優勝に導きます。

注目したいのがnever surrenderですが、これは「諦めない」に相当する英語でしょう。しかし同じ「諦めない」でも、頭をよぎるのはnever give upです。何故ここで敢えてsurrenderが使われているのか、私なりにその違いを調べてみました。

give up には本来相手という概念がない、surrender は相手が存在すると解釈される、と出てきました。相手となると、成田さんに特定の相手はいない相手は自分自身となり、星野監督は相手がいた相手は常に上位のチーム、と想定と出来ます。

更に次のようなことが出てきました。never give upは、将来に亘って継続的に諦めるなという意で、現在に焦点を当てる場合には用いない、とありました。surrenderは、自分は勝つことが不可能と分かって、戦いを放棄すると公言してしまう場合、とありました。従ってnever surrenderならば、自分で負けと認めなければいいのです。

しかし野球の場合の勝ち負けは明らかです。リーグのシーズンの順位は明確に結果が出ます。下位であれば降伏を認めざるを得ません。ですから星野監督は、never never never surrender絶対に負けない、降参しないぞとの思いを込めたのではないでしょうか。

成田さんの場合は、どの種目でも、オリンピックでもパラリンピックでも、勝つチャンスを狙っています。成田さんは、今勝たなくても将来に亘って勝つことを諦めていません。ですから成田緑夢さんは、never give upがぴったりなのかもしれません。

お二人の諦めない姿勢から、企業経営において学ぶことがあります。企業では優れた才能や技能よりも、何事にも諦めない心構えが必要とされているのかもしれません。最初から妥協では進歩はありません。諦めることを諦めてしまうことだと思います。

緑夢さんの秀でたスノーボードやウェイクボードは、空中で自分の身体を自在に操るトランポリンがベースです。そのトランポリンは父の隆史さんが一から指導しました。子供が離反しても、信念を曲げないその父の偉大さも感じます。

父隆史さんと緑夢さん
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諦めない(その1)

2019年08月17日 06時05分24秒 | Weblog
成田緑夢(ぐりむ)という方が出ているテレビ番組を先日観ました。去年の平昌パラリンピックで、男子スノーボードバンクドスラローム種目の金メダリストです。現在25歳ですが、それまでの壮絶な人生に圧倒され、テレビに釘付けとなりました。

「子供を絶対オリンピックに出さす」と信念を持ったスパルタの父の下に生まれ、兄姉と一緒に、成田さんは1歳の時にスノーボードを始めます。歩くのもままならない1歳です、この時点で凄さが伝わります。父の指導によりその後トランポリンも始めます。

父の隆史さんは、大阪でトランポリンの教室をされている方です。「結果を出さなければ意味が無い、練習の数をやる、数をやったら何かを得る」、これが父親の主義です。当然練習は半端ではなく、練習の為学校を休ます。この様子は世間の批判を浴びます。

成田さんはその結果を出します。2010年高校2年の時にトランポリン全国高校選手権において歴代最高得点で優勝します。一方兄姉はスノーボードで2006年のトリノ五輪に出場を果たしますが、受賞の結果は出せませんでした。弟成田さんは、2013年3月には初出場の世界ジュニア大会で、ハーフパイプ部門で優勝を果たします。

しかしその1カ月後、成田さんに悲劇が襲い掛かります。いつものように自宅でトランポリンを飛んでいました。両足首にスキーの板の重さを想定した2.5キロずつの重りを付け、2回転宙返りで5メートルを飛ぶジャンプを1日に300回繰り返していました。

飛んだ瞬間に左足が滑った。その時は重りの付いた左足が体の回転についてこなかったのです。前屈の体勢で落下し、「バキッ!」という大きな音とともにひざが逆に曲がりました。前十字靱帯、後十字靱帯の断裂に半月板の損傷。動脈も破裂し、内出血が広がっていたといいます。

「歩けるようになる可能性は20%、切断の可能性もあります」。医師は両親にそう告げました。入院は半年に及び、手術は4度。「足は切らないで欲しい」と父が医師に懇願していたと、彼は後で知ります。父は、息子は必ず歩ける復帰できると信じていたのです。しかし腓骨(ひこつ)神経まひで、左ひざから下の感覚を失う障害が残りました。

兄弟と共に当然のように五輪を目指していた成田さんですが、大怪我をしてその夢を諦めなくてはならなくなりました。しかし退院から半年も経たずに、父が放った衝撃の一言「スキーに行くぞ」です。左足を引きずって30分も歩けば、30分は冷水で冷やさなければ腫れも痛みも引かない状態の頃です。痛みに耐えながらスキー靴を履く、また夏にはウェイクボードも再開します。

そんな時、1通のSNSのメッセージに心が揺さぶられます。「怪我をしても、頑張っている緑夢君に勇気をもらった」。障害のある人からのメッセージでした。「自分がスポーツをすることで、誰かを励ませるかもしれない」。初めてスポーツをする意味を考えるようになったそうです。

五輪は無理でも、パラリンピックがある。結果を出せば、障害のある人や怪我で引退を迫られたスポーツ選手たちの夢や希望になれるかもしれない、そう思ったといいます。父の多大な影響もありますが、“絶対、諦めない”これが、平昌パラリンピックでの金メダリストに繋がったのだと私は思います。

実は成田さんは現在、走り高跳びで2020年の東京パラリンピック出場を目指しています。このパラリンピックの他、何と、成田さんは最終的には夏冬の五輪の出場も視野に入れているようです。父親が諦めず彼の足を切断しなかったことが、成田さんの夢や希望に繋がっています。 ~次回に続く~

成田緑夢さん
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2019年08月10日 10時13分29秒 | Weblog
どの会社でも決算上の年度があります。そして会社の多くは、年度で締めて業績を棚卸しして、新たな期の経営方針や経営目標を策定されています。わが社の年度末は6月です。毎年8月初旬に、わが社は全社員参加の経営発表会の開催を継続してきました。

ここに、『経営計画書』(下の写真)があります。これは24年前のわが社のもので、この時初めて経営計画を作成して、社外で印刷をしてもらって20頁ほどの冊子にしました。久しぶりに読み返してみると、懐かしいものがあります。

以来毎年計画書を作り直し、外部の場所を借りて発表会を行なってきました。初期の頃は、来賓を招き、ホテルの会議室で発表会を行い、その後はホテルで懇親の食事会を開き、と厳粛な形を重視しました。何年を経て、発表会の形態の変遷がありました。それはわが社の経営の変遷でもあり、わが社は何を目指すかの模索の結果でもありました。

そもそも何故、24年前に経営計画発表をしたのかです。その2~3年前、私はある経営者セミナーに参加したからです。そのセミナーの先生が、経営者に必要な三種の神器を強調されました。その三つとは、「お客様第一主義」「環境整備」「経営計画書」でした。

「お客様第一主義」、利益の根源はお客様からもたらされ、徹底して社長自らもお客様へ訪問しなさい。「環境整備」、社員による会社の掃除・清潔を浸透させ、働く環境を整えなさい。「経営計画書」、明文化した経営指針を示し、毎年経営発表会を開催しなさい。

30年前先代の死去によって、突然会社を引き継ぎ経営の実体験が無い私は、経験が無ければ学び、会社を何とか変え発展させたいとの思いが先行していました。セミナーに参加したのはその理由からです。その一念で、経営計画発表会を継続してきました。

しかし、ある時ふと思い当ります。私の中に、社員を引っ張り上げたい思いが強ければ強いほど、社員との距離を感じるようになります。振返ったら社員が付いてきていない、そんな状態でした。私は変えたいけれど、社員は変えたい強い思いはない。私は社員の目線で見られなくなっていたのです。今から10年ほど前のことです。

話は一気に飛びますが、先週3日土曜日の午後です。江戸川区葛西にある区の施設コミュニティ会館で、今年の経営発表会を行ないました。数年前から私は発表会の資料を一切作っていません。私の話も開催時間二時間の内、最後の3~5分だけです。

この発表会のスタートから何年間は、私が全部の資料を作り、私がほんど話しをしていました。それからすると、現在は隔世の感があります。今は、発表会が終わった後の懇親会は居酒屋でワイワイガヤガです。

勿論お客様第一主義も大事ですが、それを支えてくれる社員も同様に大事です。環境整備も大切ですが、指示命令ではない社員自ら行なう5Sを心掛けています。経営計画作成とその実施は、私は一歩退いて幹部以下に委譲しています。

今回発表会の最後に私が話したことです。「計画書にある経営目標を達成するのは、幹部だけではなく皆さん全員です。未来へ向けて会社を変えるのはあなた達です。それは一人ひとり行動を起こして達成出来ます。従って全員が本気になれば会社は変ります」。

いずれ私は社長職を退きます。その時の為にも、幹部社員へ会社の運営は極力任せています。それは私が前から後に廻って、社員の後押しをすることです。昔のように無理に社員を引っ張ろうとする、私だけの発表会では意味がないと強く感じています。





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若さの保持(その2)

2019年08月03日 09時17分44秒 | Weblog
買い求めた櫻井秀勳氏の著書のタイトルは“老いない流儀”で、8年前、82歳で発刊されたものです。櫻井氏が出版界に入られたのは22歳ですが、作家デビューをされたのは55歳で、その後現在まで書き続けた著作は200冊を超えています。

この著書の根底にあるのは、老いても何かに挑戦し続け常識的な健康法は行なわない、です。80を過ぎても若い世代と同じ時間で同じ仕事量をこなすことが、心に若さを植える。自分に合った健康法を証明させながら生きる。これが「老いない流儀」なのです。

人の行なうことの反対を敢えて行なう、氏のそのルーツは母親にあります。関東大震災や先の戦争の空襲で、人が逃げて行く方向とは反対へ非難することで、母親は家族を助けます。人が大挙して行く所は落とし穴(危険)がある。皆が英語に殺到する時代、氏が大学でロシア語を専攻したのも、少数派を志向した理です。以下は、本書の引用です。

「学生時代の友人と会うと、多くの人達は時代に取り残されています。だからパソコンを出来ないし、スマートフォンも持っていません。私がiPadを取り出すと目を丸くします。自分は時代に取り残されていると思った瞬間から、老いは実感となるのです」。

「私の元気の元は、多くの女性の友人や若い知人に囲まれていることです。男達は、女性と付き合うとなると、すぐ恋愛や結婚を思い浮かべてしまうものですが、仕事柄私は多くの女性と付き合い、女性に対する好奇心は旺盛でした。仕事においても、何事も出来ない理由をあげるたびに、一歳ずつ老いていくことを恐れるべきです」。

この本を読んで感ずることです。物事は、捉え方と思いようです。人はどうしても世間一般の常識に従おうとしますが、自分の流儀つまり個性をもっと持ってもいいのではないかです。勿論摂理や法則から外れてはいけませんが、自分の若さや健康は、自分自身でしか作り上げられません。

櫻井氏は第二の人生を強調します。50代位から、第二の人生を設計したほうがいいと言います。定年になって何の仕事もしなかったり、新たな勉強をしなかったりすると、老いは加速し、第一の人生に埋没してしまうと言います。そうなると、女性からモテないし女性の力を借りられないと断言します。

この本には、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生が登場していました。残念ながら二年前に亡くなられましたが、この本が出された時は101歳で、「10年手帳」というものを使っていたとのことです。そこに美智子皇后の誕生パーティの日程を2020年まで書き込んでいたのだそうです。

日野原先生は50年以上前から皇后の生家である正田家の主治医を務めていたので、その日だけは欠かせないとの理由です。100歳を超えても10年間に果たすべき使命を記していたことになります。櫻井氏は、その凄さに感銘したと書かれていました。

逆に考えれば、死ぬまで果たす使命を持っていれば長生きするとのことです。老いるとは使命感の喪失です。老いるか老いないかは、使命感を持つか持たないかの差なのかもしれません。私はここに、若返りや長生きのヒントを見つけたように思いました。

私はあることが切っ掛けで、一年前からほぼ毎日ウオーキングに励んでいます。やり過ぎは禁物で、疲れている時や痛みがある場合は少し身体を休めます。櫻井氏は、夜中から翌朝の5時までの執筆生活を、何年間も、未だに続けられています。人間は十人十色、医者の進める健康法通りに生活する人間ばかりではないようです。

使命感を持ち続け好奇心を捨てないことで、自己流であっても、櫻井氏は健康で長生きを立証されています。“20歳若くなる最強メソッド『若返り入門』”を読んだことから、そのような方を知りました。若返りとはいかないまでも、せめて若さの保持は心がけます。

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