梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

カントの認識論(その1)

2011年04月30日 09時59分57秒 | Weblog
イマヌエル・カントは、18世紀プロイセン王国(今のドイツ)の出身で、近代で最も影響力が大きかった哲学者と言われています。そのカントが著したのが『純粋理性批判』で、難解な書とされています。

勿論私はこの書物を読んだこともありませんし、どんなことが書かれているのかも今回インターネット上で調べるまで殆ど知りませんでした。ある時期私は人から聞いたことや学んだことを書き留めていました。その備忘録を最近読み返していて、カントのことを書き記していた箇所を見つけたのです。

そこには「人の発言はその人の主観から出て来る。殆どの人は、物事ほんの一面しか見ていない。もっと見方の多様性を学ぶべきだ」とカントの言葉として、或る人が言ったことを書き留めていました。

今回『純粋理性批判』の内容を調べてみました。カントが問題としているのは、人間の認識能力であり、人間の客観的な認識は如何にして可能なのかと言うテーマです。(ここからの注釈は私なりの継ぎはぎのものであり、間違っていたり専門用語の言い回しがおかしかったりするかもしれませんので、それを考慮してお読み下さい)

例えば赤い花があったとして、我々にとっては赤い花だけれど、色の区別がつかない犬には灰色としか映らない。同じ世界を見ていても受け止め方が違っているのでは色を問うてみてもしかたなく、“本当にある”と言うことは一体どのようなことなのかとの疑問です。

このように感覚器官の制限によって人間は客観的な実在を知ることが出来ないならば、我々の認識は主観的で不確実なものだという結論になるでしょう。しかしカントはそうは言いません。

我々が外からの感覚的な刺激を受けたのは確かだとしても、それを赤い花などだと認識が出来るのは、そう認識出来る能力(感性と悟性)が元々我々に備わっているからだと言うのです。対象に認識に従うのではなく、認識に対象が従うことで初めて客観的な認識が可能となると言う、このカントの立場は従来の議論を根本的に覆すものであり、コペルニクス的転回と名付けられています。
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懐かしい東北

2011年04月23日 06時21分50秒 | Weblog
以前私は運送関係の仕事をしていました。私は父の経営する鋼材業の会社に入社したものの現場で大怪我をして、それがきっかけで先代が運送の別会社を設立して、10年間程そこに席を置きました。

その会社の主目的は、地方から東京に上がってくる運送会社に、帰り荷としてその地方に配送する荷物を斡旋する業務でした。先代が数年前から構想していた事業で、全て電話で商売が出来るので、怪我の後遺症が暫らく残った私には適任だったのです。

創業当時は東北六県にはよく出張に出掛けました。帰り荷を受けてくれる、その地方の運送会社を開拓していました。行く時は約一週間を掛け、車で東北地方を隈なく廻りましたので、主な幹線道路は大体覚えてしまいました。

今回の大地震で被災した岩手・宮城・福島県の地名に、当時出張で廻った懐かしい地名が多く入っています。釜石にも、石巻にも、仙台にも、南相馬にも、いわきにも一泊しています。昔の綺麗な街並みも、車窓から見た風光明媚な景色も、今は見るも無残なものに変わっているはずです。

学生の頃私は山登りのクラブに入っていて、一年の夏合宿は新潟・福島・山形三県にまたがる飯豊連峰に登りました。実は飯豊に登った後、やはり山形県にある朝日連峰に行く予定でしたが、私が原因で行くことが出来ませんでした。

何故なら、8日間分の食料や装備が入った重いザックを連日背負った為に、背中が擦れて皮膚が破れ、前半の工程中に膿んでしまったのです。急遽4年生のリーダーは、平地でゆっくりするプランに切り替えてくれました。他のメンバーにも大変迷惑を掛けてしまいました。

山形県の海岸線に出て、そして宮城県に入り女川町に着きました。今回の津波の被災地、また原発がある女川です。当時は原発も無く、女川湾は本当に綺麗な海でした。そこで泳いだりキャンプファイヤーをしたりした、楽しい思い出が残っています。初めてホヤ貝なるものを食べたのもそこです。

そんな東北の被災地が元に戻るのはまだ先のことでしょうが、一日も早い復興を願うばかりです。
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価値観と覚悟

2011年04月16日 12時23分23秒 | Weblog
よく価値観が変わると言いますが、その価値の尺度が予め想定されているものと想定されていないものがあると思います。今回浦安地区の地震による液状化は、ここに移り住む際、つまり不動産を買い求める時に、想定した人はどれ程いたでしょうか。

現在の新木場にしても浦安鉄鋼団地にしても、元々都心近くに在った木材や鉄鋼業者が、そこの都市化によって集団で移転して来たものです。移転先は、更なる規模の拡大や交通の利便性を考えたら、新たに東京湾を埋め立てした湾岸地区に移したことは理に叶ったものでした。

昭和の時代が終る頃、浦安の埋め立て地区には新たな住宅地が誕生しました。東京ディズニーランドが開設されて以来浦安市のイメージは一変して、都心から近いこともあり、一時期は高級な住宅地として脚光を浴びました。その後も、この地区での宅地の供給は増え続けました。

不動産を購入する際取得価格は当然重要ですが、交通の便や周囲の環境や街のイメージ等など、多くの選択要因はあります。しかし万一の天災を考えて選択する人は多くはないでしょう。ましてや浦安に於いての地震による液状化のリスクを想定した人は、限りなく少なかったことしょう。そして浦安の土地に対する価値観や評価は、今回の震災で大きく変わってしまったことも事実です。

賃貸でその不動産を借りているのであれば、今回の様なケースは他へ移り住めばいい訳ですが、自己所有している場合はそうも行きません。逆に言えば不動産を取得してそこに拠点を構えることは、万一の場合は覚悟を決めることに他なりません。

今後もしもの場合ですが、今まで以上の余震が関東近くで起きたとしたら、また東京湾に巨大な津波が発生したとしたら、液状化以上の災害をもたらすことは明白です。この様に天災は、何処に居ても避けられるものではありません。しかし避けられない天災に備え、その人災を極力回避することは可能です。

あらゆる想定をして価値観を普遍のものとすることも大事でしょう。その上で心構えの問題である、覚悟を決めなくてはならないと思っています。
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地震と桜の花

2011年04月09日 11時53分18秒 | Weblog
私の自宅の近くの桜は、ほぼ満開を迎えました。市川市にある真間川の両岸には、びっしりと見頃の桜の花が咲き乱れていて、この時期は地元ではちょっとした名所です。

わが社の浦安営業所の敷地にも桜の木があります。この浦安に事務所・倉庫を新設した際に、将来の花見を楽しみに、桜の苗木を植えました。自宅の近くの桜とは種類が違うのでしょうか、ここの桜は未だ満開とまではいきません。

今回その10本あった桜の木を、半分伐採してしまいまいした。あの地震で上・下水道管が破裂したのですが、ちょうどその配管が、桜の植え込みの脇にあったのです。配管は緊急に工事をして直したのですが、その時桜を引き抜き別の所で養生しまた植え替えるとの選択肢もあったのですが、手間が掛かかり断念しました。

その花壇があったところは、今は砕石を敷いているだけで、あの地震の傷跡の生々しさが残っています。先々そこをどうするか、まだ決っていません。

地震が起こるのも桜の花が咲くのも、考えてみれば天地自然の為せる業です。地震は岩板のひずみを修復する為に起こるのであり、地球も蘇生しているのです。植物も種から芽が出てまた実や種を作る為に花を咲かせるのであり、植物も再生しているのです。

甚大な被害を及ぼす地震は悪で、綺麗な花を咲かせ心を和ませる桜は善と、どうしても私達は単純に考えがちです。でもどちらも自然の摂理です。自然から見たら、人間のその捉え方自体が勝手です。自然現象は、言ってみれば人間的感覚の言うところの、義理も人情も無い、非情極まりないものです。

私達人間はそんな自然をどう受け止めるかです。天災による災害に遭った時、どう感じどう考えるかです。例えば今回被災地で全てを失った人であっても、復興に向けて立ち上がる人も沢山いると思います。そこに何かを見つけ、何かを気付いていく人もいると思います。

私達は大自然の中で生きていることを再認識し、人間のその心構えを変えていくことで、大自然とも向き合えることを学ばなくてはならないと思います。
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集約移転(その4)

2011年04月02日 06時08分26秒 | Weblog
このシリーズも今回で最終回としたいと思います。わが社においてはと言っていいのか、一般の会社においてはと言うべきなのか、物事は同時進行で起こるものです。この集約移転の最中、大地震が発生しました。

千葉工場にある機械のガス溶断機二台とレーザー切断機一台は、購入年度も新しく、浦安に移設することとしていました。浦安の方にその機械を設置する為に、従来素材販売事業で在庫保管していた場所を空けてスペースを作り出し、そこに基礎工事を始めていました。

地震で案の上、その基礎のコンクリートに若干のひびが入り、水平レベルが狂い、修復はしなくてはならないものの、大事には至りませんでした。千葉の機械は移送する為に千葉にあったものの、既に運転操作は出来ない状態でした。

従ってこの浦安の修復その他諸々で、10日程工期が遅れ、浦安での移設機械の操業が延びてしまったことは事実です。また浦安のガス溶断機も、従来の二本のラインの内一本を、千葉からの受け入れの為に造り直していましたので、加工能力は半減していました。

地震が有っても無くても、本来集約移転による加工能力低下は避けられなかった訳です。地震があって一週間は業界自体騒然としていて加工の注文はほぼストップ状態でしたので、お客様にも大きな迷惑をかけずに、遅れながらも操業出来ることは“これで善し”とすべきです。

地震の直後、倉庫出入り口の路面の緊急工事、仮設トイレの手配、浦安の溶断機レベルの調整、敷地内の上下水道の修復工事等など、実は今回の移設工事を請け負ってくれた工事会社に全てやっていだだきました。むしろこの工事をやっていなければ、この様いち早い対応は出来なかったことでしょう。恵まれました。

今回の集約移転において、私は殆どと言っていい位関与していません。掛かる費用の、つまりお金に関する最終決済のみ関与しました。4~5年前でしたら私は細かい所まで口を出していたはずです。工場のレイアウトから機械の統廃合から、今回によって浦安が新しく生まれ変わるイメージとすれば、それは社員のやる仕事です。今後も、私は任せられることは社員に委ねていくつもりです。
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