梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

天災の教訓(その2)

2011年05月28日 06時11分42秒 | Weblog
戦争は天災ではありません。しかし多くの人を巻き込み生命を脅かし被害を与えて、一個人では食い止めることが出来ないとしたら、その意味では天災と同じと言えるかもしれません。二つの天災を、わが社は過去乗越えて来た訳です。

今回の天災によるわが社の失敗は、その損害修復の費用を発生させたと言うよりも、危機管理においてです。正直に言えば、災害時の危機管理機能や防災マニュアル等が全くありませんでした。地震は何処かで起こるものだとは分かっていても、それが自分の身に降りかかるとは全く受け止めていなかったのです。

失敗学で有名な或る教授が、日本人の特性として「見たくないものは見ない。考えたくないことは考えない」と、そんなことを挙げています。正にわが社はそれを地でいっていました。嫌なことは想定外にしてしまう、それは愚かな経営者や会社の姿であるかもしれません。

人間に物事を最後は成し遂げるチャンスがあるとしたら、その失敗から学ぶ姿勢だと思われます。嫌なことは想定外にしてしまった結果、そこで失敗をした。ならばその、その失敗から真摯に学ぶしかありません。

そこに新しい気付きや発見があるなら、むしろ失敗を恐れるより、失敗をすることがいいことかもしれません。しかし勘違いしてはならないことは、それでは失敗したからと言って、何もしないでは成功には繋がることはないのです。

わが社の戦中から戦後の約10年間の空白を埋めるように、父親は昭和27年にそれまでとは違う形態で鉄鋼業に携わり始めました。わが社の社歴で、天災や戦争が起こったとしても、それを糧とし礎として存続して来たことは間違いありません。その不屈の意志は、今後も会社には残したいものです。

最近マスコミにおいても、地震の情報や知識が溢れています。今後、相当な警戒を要する余震はまた起こると言われています。我々が今回の大震災で習得すべくは、失敗学や、想定外の想像能力とその対策かもしれません。

天災の被害を単に糧にするだけでなく、その対処・対策を知恵として組織に残せれば、天災を乗越えられる企業の永続性は可能となることでしょう。
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天災の教訓(その1)

2011年05月21日 11時11分47秒 | Weblog
わが家には関東大震災の時に撮った多くの写真が残っています。父方の祖父の弟は洋服屋を当時営んでいたとのことですが、写真愛好家でもあったようです。その大叔父が、被災して遺体となった写真を数多く撮っていました。

関東大震災による死者や行方不明者は10万人を超えたとされていますが、倒壊による圧死や津波による溺死は当然あったものの、火災によって亡くなった人が大半を占めたと言われます。

実際その写真も、熱風や衣類に飛び火した熱さから逃れる為に、川や池などに飛び込み幾重にもなった遺体が多く、凝視するのも躊躇するようなものです。小さい頃私は怖くて見ることも出来ませんでしたが、天災の恐ろしさや惨さを後世に伝える貴重な実写かもしれません。

当時梶家は、墨田区本所に店を構え既に鋼材商を営んでいたので、激震地で罹災したのは確かです。またこの関東大震災が発生したのは大正12年9月で、私の父の産まれたのは大正13年1月ですので、祖母は父を妊娠している時に震災に遭ったことも事実です。

大変だったことでしょう。どこへどうやって避難したのか、そしてその後どうして家業を復興したのか、私は詳しくは知りません。祖父や祖母から少しは聞いたかもしれませんが、残念ながら記憶にはありません。大震災のその翌年産まれた父も20年前に他界しましたので、もう知る術もありません。

その大震災で店をたたむとか廃業したのではなくて、昭和17~18年まで祖父の鋼材商は続きましたので、それなりの復活をしたのだと思います。その努力の並々ならぬことは、今の自分の身に置き換えてみても十分に解ります。

今回の東日本大震災では、浦安の液状化により、わが社も少なからず損害は出ました。しかし祖父は多くを失った訳で、私の受けた被害とは比較にならないことは言うまでもありません。強固なバイタリティーがなければ再起は実現しなかったはずです。わが社の社歴から、そんなことを学ばなくてはなりません。

折角再起した20年後に、今度は戦争により、祖父の会社は休業に追い込まれます。
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カントの認識論(その3)

2011年05月14日 09時54分11秒 | Weblog
カントの言葉として私が書き留めてあったのは、簡単に言うと「多くの人の発言とは一面的な主観からであり、その見方の多様性をもっと学ぶべきだ」となります。本来カントの言っていることは、物事はどうして認識できるのかの論なのですから、どっちが正しい間違えのような一元的なべき論ではないようであり、書き記していた言葉に違和感を持ちました。

これは或る人が伝えてくれた内容を、私自身が聞き方を間違っていたのかもしれません。こんな事例からでも推測出来るのは、伝える人が正しくとも、聞き手が違う解釈をしてしまう危険性は常にあります。ともあれカントが唱えた論理を、今回少しでも調べられたことは、私は収穫だったと思っています。

ここで話を身近なものにしたいと思います。最近私は人の書いた文章を二度読み三度読みすることが多くなりました。歳を取って一回では頭に入らなくなったとも考えられますが、一回だけですと読み落としや間違った解釈をしているところが意外とあるのです。

こうなると書かれていることを正確に認識すらしていないとなります。人の話を聞くとなると、その人の先入観や表情表現までもが入ってしまいますからもっと厄介です。さらに認識を曲げてしまう要素が入り込んでしまいます。

赤い花を識別するような例として挙げた自然現象や事象ならば、まだ誤解も許せるかもしれません。しかし人間に関わる情緒や心情についての感受は、言うなればイギリスの経験論においても、多様性の前に、先ず正確に認識することの大事さが問われます。

人間の感性や感知能力というものは、人間に自我や我欲がある限り、偏りから完全に逃れることは出来ません。そうであるならば、感情で持って感知してしまっても、理性で持って考えてみる。これが解決の糸口になるかもしれません。この理性とは、世の中のことわり(摂理・法則)、大陸の合理性と言ってもいいのではないでしょうか。

カントの認識論を長々と書いてきました。私の解釈や見解も、物事の認識論においての一つの認識です。後は皆さんの認識に委ねたいと思います。
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カントの認識論(その2)

2011年05月07日 07時30分36秒 | Weblog
カントによれば人間は“物自体=本当にある”を認識することは出来ず、認識出来るのは“現象”だけであると言います。つまり感官を触発して表象を生じさせ、我々に現れた限りでのその現象は認識可能だが、その背後にある真実在それ自体は不可知であとしました。カント以前の哲学は、物自体を認識出来るとしていました。

カントのこうした議論以前に、哲学の分野ではイギリス経験論と大陸合理性と言う、二つの大きな立場が対立していました。経験論を代表するのはベーコンでありロックであり、合理論の代表的論客はデカルトでありスピノザでした。

経験論は人間の心は白紙のようなものであり、人間の認識は全部経験に由来する感覚的なものだと説き、感覚のうちに無いものは知性のうちに無いとし、因果関係などもその立場から説明しようとしました。言い換えれば人間の観念は全て後天的に得られるとしたのです。

一方合理論は生得観念、つまり生まれながらに持っている観念を認め、真の認識は経験に基づかない先見的な理性の働きによるとします。三角形の内角の和は180度だとされる普遍的な命題は経験的に得られたものではないと言う訳です。感覚や感性による認識は言わば程度の低い認識と合理論ではされたのです。

カントは全ての認識は経験とともに始まるが、だからと言って全ての認識が経験によるものでは無いとします。経験が我々に与えるのは部分でバラバラな印象に過ぎず、それをまとまった認識として成立するのは先験的な時間や空間認識の形式であるとし、両者の統合によって認識は初めて普遍的・客観性を獲得出来るとしました。

全ての認識は経験とともに始まると言う点では経験論的立場と言えますが、先験的認識を認めるのは合理的立場と言えます。つまりカントの哲学は、経験論と合理論との融合なのです。

ここまでが私がネット上で調べてみた、『純粋理性批判』のカントの認識論となるのですが、一見分かったようで、やはりとても難しい内容です。そして私の備忘録に書いてあったものとは、主旨が違うかもしれないと気が付きました。
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