梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

今年を振り返って

2011年12月31日 10時32分53秒 | Weblog
今年も今日一日で最後となります。今年は東日本大震災が発生しました。その被害はわが社にも及び、ここ浦安市地区では液状化現象により、少なからず損害を受けました。

私にとってはこの大震災より、千葉工場の浦安への集約の方が、大きな出来事として心に残ります。その必要性や決断に至った経緯は、過去のブログでも書きましたので、省略します。

その集約移転の最中に、東日本大震災の直撃を受けました。結果、千葉より浦安へ移動する機械の基礎工事をしていたところで、その基礎が一部破損しました。それにより余分な費用も掛かり、予定していた修了時期も大幅に伸びてしまいました。

その集約移転や復旧では、社員も本当に必死になって頑張ってくれました。しかし移転に際し、千葉工場の全社員を浦安に受け入れる体制をとっていましたが、通勤時間などで、残念ながら10名の内5名が退職することとなりました。

年末を迎え今年を振り返り、その協力をして頂いた方々に挨拶をして廻りました。溶断機械のガス溶材を提供してくれていて機械の移設をお願いした会社。浦安の基礎を作ってくれて地震の修復工事をお願いした会社。そして千葉工場近くの同業者で社員を再雇用して下さった会社。

突然訪問したにもかかわらず、歓待して頂きました。このように現在わが社が当たり前のように操業出来ているのも、その方達のお陰です。地震の後、移転集約も終ったものの、慌しい中あらたまった挨拶も出来ていなかったので、伺ってよかったと思います。   

社員を再雇用して下さった会社に伺って、久しぶりにわが社の社員であった二人に再会しました。元気でした。そこでの仕事も慣れて、上司から信頼を得ている様子でした。

帰り際、その社員の一人が「社長!社長のブログを毎週見ていますよ!!」と。なんと有難い言葉でしょう。このブログで心が繋がっていたとは。

皆様良いお年をお迎え下さい!
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過去の反省(その2)

2011年12月24日 09時27分32秒 | Weblog
そしてパトカーの警官に、直接被災地を回り義援活動をしていることを告げました。警官は会長に対し、運送一筋のプロに敬意を表し、その活動の主旨に共感してくれたそうです。その後の警官の処理は? 皆様の想像にお任せします。

会長はもう何年も前から、自らトレーラーを運転することはなくなりました。しかし過去の運送経験の中では、昭和40年代よりされているのですから、色々な困難やアクシデントがあったことは間違いありません。

荷物を満載して交差点に差し掛かり、普通の道路コンディションならまだしも、路面が凍結している、上り坂か下り坂か、青信号以外の時のとっさの判断は真剣勝負です。過去何度か信号無視で警官に止められたけれど、会長の主張は通ったと聞いています。

運送会社に事故はつきものです。会長の会社は、百台以上のトレーラーが毎日休みなく全国を走り回っています。創業から現在に至るまで自損事故はあったものの、他人を巻き込んだ人身事故は一件もないということです。何かに護られているとしかいいようがありません。

そんな会長が最近自家用車を運転していて、信号無視で警察に捕まりました。三車線の道で右折する際に、直進や左折する矢印は出ていたけれど、右折の矢印が出る前に右折したとのことで捕まりました。

何回も通っている慣れた道だったそうです。しかし右折専用の信号が出来たことを認識していなかったのです。素直に違反の切符を切られ、罰金を支払いました。それから心を入れ替えたそうです。ここで捕まったことは何か意味がある。赤信号停止は何かの啓示、急いでいてもキッチリ止まることは大切だと。

その後、タイミングの良さに驚くことがあるとのことです。何回も赤信号に捉まり会社に着くのが遅れたけれど、その着いた時間に、計ったように、ものごとが揃っていることがあると仰います。

そんなことを通して、会長は過去を振り返るそうです。昔の自分は、随分無茶をしたと。何ごとも、今を、自然に受け入れることは意味があるのかもしれないと。
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過去の反省

2011年12月17日 06時22分42秒 | Weblog
運送会の会長で親しくさせて頂いている方がいます。その会長は、今回の東日本大震災で津波の被害を受けた岩手県の三陸海岸に何回も足を運び、惨状を自分の目で視察してきました。

この会社は毎月給料日に社員から一人1000円をもれなく徴収して、いざ義援金など必要があればとのことで、貯金をしてきました。100名以上の社員がいますので、年間では百万円以上のお金が貯まるそうです。

これまでの奥尻地震や中越地震の際も、その後実際に被災地に行って、現状を見聞きして、その上で地方公共団体にその義援金を直接手渡すということをやってこられました。日本赤十字社などに委ねない、凄さがそこにあります。

今回も陸前高田、大船渡、釜石など、三陸の海岸を何回も訪れました。そこに泊り込んで、実際に地元の人たちと会話をして、情報を集めたそうです。その上で一番困っているであろう役場に、直に義援金を手渡したとのことでした。

岩手県の内陸の花巻の出身であるその会長にしてみると、今回の被災は他人事ではなかったはずです。陸前高田で食堂を経営していた主人と顔見知りになり、今回全てを失った後に、やっとのことで屋台で仕事を再開した際に、その会長はお祝金を送りました。そんな絆をとっても大切にする方です。

そんなある日の夕方、車で東京への帰路についていた時のことです。海岸沿いの国道を走っていて、前に荷物を満載にしてのろのろと走っていたトラックがあったそうです。次の信号からは山道で、更に一本道が続きます。

そんな気の焦りもあり、信号は黄色になりそのトラックが停止しかけたので、右センターに出て追い越し、既に赤信号になっていた交差点を通過しました。左の道で信号待ちをしていたパトカーに、後から追いかけられ停止を命ぜられました。覚悟はしたそうです。

免許証の提示を受け、殆ど全ての資格を取得しているそれを見て、警官は先ずびっくりしたそうです。そして何故、東京の人がこんなところを走っているのか理由を聞かれました。 (次回に続きます)
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佐世保から(その3)

2011年12月10日 05時37分13秒 | Weblog

三日目は二日間泊まった佐世保ワシントンホテルを後に、九十九島クルーズ、弓張りの丘ホテルでの昼食、佐世保海軍資料館、田平教会、平戸城、オランダ商館と回って、最後は宿の旗松亭へ。三日目以降は、その会社の社員の方達と東京のつかみ会との懇親旅行となりました。

これは前日の話で、佐世保市内にある『ジャパネットたかた』を訪問して、とても感動しました。自社のスタジオでTV生放送している、高田社長自ら商品説明しているところを、直ぐ目の前で見せてもらいました。

「収録をしたものを使うとやり直しは利くけれど、その日の天候や時事などを織り込んで通販商品を替えていく醍醐味を、そのライブ感を伝えられない」と、説明を受けました。僅か25年で、年商1,700億、従業員450名の会社に育てた凄さがそこにありました。

バスのガイドさんとも、三日間車中にいればすっかり打ち解けるもの。我々の仲間で口の立つ社長とは、最後は掛け合い漫才になりました。佐世保の出身ガイドさん、その地は西海国立公園でもあります。さすがに地元のことは隅から隅までよく知っていて、話は飽きることはありませんでした。

その日最後に見学したのが、『オランダ商館』です。江戸時代、平戸と長崎は日蘭交流の拠点としての歴史があります。1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が設置した、東アジアにおける貿易拠点が、平戸オランダ商館です。

しかし30年後、幕府はその建物に西暦年号(キリストの紀元)を使用していることを理由に破壊を命じました。その石造倉庫が370年余りの時を経て、今年の9月に復元されました。歴史的な展示品も多い、そんな新しい観光スポットから、平戸城が綺麗に見えました。

わが社も昔は、取引先の鉄鋼メーカー等の協力会には参加していました。時代の流れでそのような会はほとんど無くなりました。その結果、取引関係のみが先行されてきました。さすがに3泊4日の旅は疲れました。しかし寝食を共にし、同じ体験をすることで、互いに深い絆が出来ることを今回実感しました。
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佐世保から(その2)

2011年12月07日 12時42分12秒 | Weblog

その得意先の会社が製造している港湾荷役機器は、グラブバケットと言います。クレーンの先に取付け、二枚貝のように開閉して、石炭・鉱石・土砂など大量にすくい揚げ、貨物船への積み降ろしに用いるものです。

港湾の岸壁に備え付けるものもありますが、バラ積の貨物船に搭載するクラブバケットを、その会社は主に造っています。この船舶用のグラブバケットでは、ほぼ100%の国内シェアを誇ります。その部材である鋼板の切り板を、わが社は納入させて頂いています。

二日目は本格的な視察となりました。お隣の佐賀県にある社内協力会社を始め、その会社の受注先である船舶のデッキクレーンやハッチカバーを製造しているメーカーに回り、そして最後は佐世保重工業を訪問いたしました。

佐世保はやはり、造船業の町そして自衛隊と米軍の基地でした。旧海軍の軍港が置かれた港町であり、現在もそれを受け継いだ造船及び国防の町です。見学させて頂いた佐世保重工業も、旧佐世保海軍工廠の設備を借受け設立したもとして知られています。

実はその会社の社長は佐世保のご出身ですが、長く東京で工場経営をされてきました。平成21年に佐世保市の企業立地奨励制度を活用して、新工場を竣工しました。「なにより支えてくれた故郷の方々の思いに応え、佐世保のために頑張りたい」そんな社長の想いがありました。

自社の一社繁栄ではなく、取引先メーカーや外注企業との、共存共栄を経営の基本に置いている会社です。外注先で協力会を結成した経緯も、今回故郷の地に工場を新設したのも、その地域に根ざした社長の経営哲学によります。

その協力会の名前は『つかみ会』。なんともぴったりのネーミングです。二日目の夜は、その会社の幹部社員も多く参加され、東京と佐世保のつかみ会の交流会となりました。来賓として佐世保の市長が来られ、会は盛況の中、お開きとなりました。

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佐世保から

2011年12月03日 07時23分22秒 | Weblog

このブログを書いている3日の朝、私は佐世保市内のホテルにいます。一昨日より3泊4日で長崎県に出張に来ています。わが社の得意先である、港湾荷役機器メーカーの佐世保工場の視察を兼ね、その会社の協力会の懇親旅行もありこの地を訪れています。

その会社は千葉県の浦安に本社工場があり、三年前に佐世保に工場を新設しました。本社での協力会は八年前に作られ、現在メンバーは24社です。佐世保工場に、この度10社の協力会が発足しました。その東京の協力会10社が今回佐世保を訪れ、佐世保の協力会と初めての交流が図られました。

本社の社員の方達10数名と共に、1日の昼過ぎに長崎空港に到着しました。バスで長崎市内に移動して、昼食と散策。グラバー園の入り口に建つ立派な建物の中華料理店にて、チャンポン皿うどんを美味しくいただきました。それから園内へ。

「ドックハウスとは犬の家ではありません」とバスガイドさん。昔修理の為に船が造船所に入っている間、乗組員達が宿泊した施設が園内一番奥にあり、これが旧三菱第2ドックハウスです。その二階のベランダからの、長崎の景色が一番素晴らしいと言われます。その日は天気も良く、港が一望できました。

私は、長崎市は過去何回か訪れたことはあります。佐世保市そして、今日これから向かう平戸市は今回初めてとなります。 (次回に続きます)
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