前回取りあげた文化庁が解散命令を下した二つの教団の犯した罪は、殺人と詐欺です。「オウム真理」は、信者の脱会を巡って各地で事件をおこしており、首都を混乱させて、間近に迫った警察の強制捜査を防ぐことが狙いで、無差別テロを実行しました。「明覚寺」の幹部は、僧侶に霊能力があるように装い、悩みごとの相談に訪れた主婦らから、供養料名目で金銭をだまし取った、悪徳商法を強行しました。明らかに世に悪をもたらす宗教集団です。
前回示した、カルトの害悪です。集団の価値観から抜け出せなくなり、自律的な意思決定を奪う。構成員や一般の人々に対して献金等の名目で経済的収奪を行う。構成員に対して暴力を行う。集団で犯罪行為に及ぶ。とのことですが、冷静に判断して見抜かなくてはなりません。再度繰り返しますと、それはマインド・コントロールによって誘導されます。マインド・コントロールの手順は、断りにくい環境を作る、未解決な問題を提示しズバリ答えてみせる、とにかく実践させ・わからせる・考えさせない。となりますが、心のスキマを狙われていると認識しなくてはなりません。しかし多くの信者は問題が表面化するまで、疑問を持たなかったことになります。
さてこの教団事件から遡る事800年前、親鸞聖人が生きた時代背景はどうだったのでしょうか。共に時代が濃く反映しているように思われます。歴史を学び直してみました。
親鸞聖人は1173年に生まれ1262年に亡くなります。すなわち鎌倉時代前半から中期にかけてです。これまでの腐敗した京都の朝廷に代わって、源頼朝により清廉な鎌倉幕府が樹立され、朝廷に取って代わって日本を支配し時代が刷新されたかのようですが、実際はそうではなかったのです。
1221年の承久の乱以前は、幕府の支配する範囲は東国に限られていましたが、幕府軍が乱に勝利したことにより、西国の荘園・公領にまで鎌倉幕府の御家人が地頭として任命され、幕府の支配が全国に及ぶようになりました。そして地頭は武力を背景にして、荘園や公領への支配力を強め、治安維持や年貢の取り立てなどを行い、支配を拡大していきました。
このように、しだいに新たな統治機構としての鎌倉幕府の支配が全国に及んでいったのですが、実は法律は全国で統一されたものはなく、公家だったら公家法、武士だったら武家法、それぞれの寺社や荘園だったら寺社法・本所法によって判断されることになっていました。日本全体で統一的に人々が支配されていたとはとても言いがたい状態でした。
そうした状況のなか、一般の人々の生業はどのようだったのでしょうか。農民たちは土地の生産力を安定させるため、刈敷・草木灰といった肥料を使用し、鉄製農具も利用されるようになり、荒地開発、用水路づくりなどの土木工事が行われて生産力が向上しました。こうした耕地開発の進行、農具・農業技術の改良により生産の増大がなされます。
それに触発されて手工業者が自立し、地域ごとに特色ある手工業製品が生産されす。手工業の発達は、余剰生産物(商品)の交易の場を求めることとなり、12世紀頃から荘園村落に生まれ始めた市は鎌倉時代に入ると数を増し、定期市に発展します。定期市では生活に必要な物資が売られる一方、農民は年貢の余剰を売って金銭を稼ぎ、道具や足りない食料を手に入れました。また鎌倉時代には宋銭が全国的に流通し、これによって各地で商業製品が生産され売買され、商業も発展していきました。
このように、農業における生産性が向上し、商工業も一定の発展を遂げたのですが、生産は自然の影響を受けるところ大であり、さまざまな災害に見舞われました。鎌倉時代に起きた大きな飢饉としては、寛喜の飢饉(1230~32)、正嘉の飢饉(1258~60)、元徳の飢饉(1330)が知られています。鎌倉時代には寒冷化が進んだとされ、飢饉の際には餓死者の死体があちこちに放置されていたと記されています。
地震については毎年のように起こっていました。1293年(正応6)4月13日に発生した大地震では鎌倉に大きな被害を及ぼして津波も発生し、死者は2~3万人に及んだと推定されています。その他、干ばつ・洪水・虫害・疫病などもたびたび起こったほか、承久の乱をはじめとした大小の戦乱も各地で勃発し、人々は毎日の生活をどのように送ったらよいのかという不安を常に感じていました。
一方、中世は「宗教の時代」とも呼ばれるほど、国家から庶民に至るまで宗教が大きな影響を与えていました。人々は日々の幸福を神仏に祈り、病気治しも修験者や民間陰陽師などに頼り、国家の安泰は「顕密仏教」が担っていました。東大寺・興福寺・延暦寺・東寺といった大寺院は天皇護持・国家安泰の祈祷をすることが最大の役割でした。しかし、祈祷をすることで災害を減少させることは無理があり、相次ぐ戦乱・飢饉・疫病を前にして、呪術的な仏教・神道・陰陽道は無力でした。
そうしたところに、個人の心の救済を図ろうと登場したのが、法然・親鸞・日蓮・一遍といったいわゆる「鎌倉新仏教」と呼ばれる仏教を打ち立てた僧侶たちでした。こうした仏教は、これまでの国家と強く結びついた顕密仏教の考え方とは大きく違っていたので弾圧されることになり、うねりとしてもまだまだ小さいものでしたが、確実に信者を増やし、室町時代になると社会全体に広がっていきました。
現代と比べたら明らかに経済的は未発達で、大自然予知も未熟な中世社会でした。どうしたら心の安住を得られるのか、幸せだという実感を得られるのか、その命題を解決するために現れたのが法然・親鸞・日蓮・一遍といった僧侶たちだったといえます。満ち足りたりているようにみえるけれど、先の見えない昨今。苦悩の中から立ち上がった僧侶たちが伝えたかったことを、ここで改めて学んでいく必要があるように思います。 ~次回に続く~
前回示した、カルトの害悪です。集団の価値観から抜け出せなくなり、自律的な意思決定を奪う。構成員や一般の人々に対して献金等の名目で経済的収奪を行う。構成員に対して暴力を行う。集団で犯罪行為に及ぶ。とのことですが、冷静に判断して見抜かなくてはなりません。再度繰り返しますと、それはマインド・コントロールによって誘導されます。マインド・コントロールの手順は、断りにくい環境を作る、未解決な問題を提示しズバリ答えてみせる、とにかく実践させ・わからせる・考えさせない。となりますが、心のスキマを狙われていると認識しなくてはなりません。しかし多くの信者は問題が表面化するまで、疑問を持たなかったことになります。
さてこの教団事件から遡る事800年前、親鸞聖人が生きた時代背景はどうだったのでしょうか。共に時代が濃く反映しているように思われます。歴史を学び直してみました。
親鸞聖人は1173年に生まれ1262年に亡くなります。すなわち鎌倉時代前半から中期にかけてです。これまでの腐敗した京都の朝廷に代わって、源頼朝により清廉な鎌倉幕府が樹立され、朝廷に取って代わって日本を支配し時代が刷新されたかのようですが、実際はそうではなかったのです。
1221年の承久の乱以前は、幕府の支配する範囲は東国に限られていましたが、幕府軍が乱に勝利したことにより、西国の荘園・公領にまで鎌倉幕府の御家人が地頭として任命され、幕府の支配が全国に及ぶようになりました。そして地頭は武力を背景にして、荘園や公領への支配力を強め、治安維持や年貢の取り立てなどを行い、支配を拡大していきました。
このように、しだいに新たな統治機構としての鎌倉幕府の支配が全国に及んでいったのですが、実は法律は全国で統一されたものはなく、公家だったら公家法、武士だったら武家法、それぞれの寺社や荘園だったら寺社法・本所法によって判断されることになっていました。日本全体で統一的に人々が支配されていたとはとても言いがたい状態でした。
そうした状況のなか、一般の人々の生業はどのようだったのでしょうか。農民たちは土地の生産力を安定させるため、刈敷・草木灰といった肥料を使用し、鉄製農具も利用されるようになり、荒地開発、用水路づくりなどの土木工事が行われて生産力が向上しました。こうした耕地開発の進行、農具・農業技術の改良により生産の増大がなされます。
それに触発されて手工業者が自立し、地域ごとに特色ある手工業製品が生産されす。手工業の発達は、余剰生産物(商品)の交易の場を求めることとなり、12世紀頃から荘園村落に生まれ始めた市は鎌倉時代に入ると数を増し、定期市に発展します。定期市では生活に必要な物資が売られる一方、農民は年貢の余剰を売って金銭を稼ぎ、道具や足りない食料を手に入れました。また鎌倉時代には宋銭が全国的に流通し、これによって各地で商業製品が生産され売買され、商業も発展していきました。
このように、農業における生産性が向上し、商工業も一定の発展を遂げたのですが、生産は自然の影響を受けるところ大であり、さまざまな災害に見舞われました。鎌倉時代に起きた大きな飢饉としては、寛喜の飢饉(1230~32)、正嘉の飢饉(1258~60)、元徳の飢饉(1330)が知られています。鎌倉時代には寒冷化が進んだとされ、飢饉の際には餓死者の死体があちこちに放置されていたと記されています。
地震については毎年のように起こっていました。1293年(正応6)4月13日に発生した大地震では鎌倉に大きな被害を及ぼして津波も発生し、死者は2~3万人に及んだと推定されています。その他、干ばつ・洪水・虫害・疫病などもたびたび起こったほか、承久の乱をはじめとした大小の戦乱も各地で勃発し、人々は毎日の生活をどのように送ったらよいのかという不安を常に感じていました。
一方、中世は「宗教の時代」とも呼ばれるほど、国家から庶民に至るまで宗教が大きな影響を与えていました。人々は日々の幸福を神仏に祈り、病気治しも修験者や民間陰陽師などに頼り、国家の安泰は「顕密仏教」が担っていました。東大寺・興福寺・延暦寺・東寺といった大寺院は天皇護持・国家安泰の祈祷をすることが最大の役割でした。しかし、祈祷をすることで災害を減少させることは無理があり、相次ぐ戦乱・飢饉・疫病を前にして、呪術的な仏教・神道・陰陽道は無力でした。
そうしたところに、個人の心の救済を図ろうと登場したのが、法然・親鸞・日蓮・一遍といったいわゆる「鎌倉新仏教」と呼ばれる仏教を打ち立てた僧侶たちでした。こうした仏教は、これまでの国家と強く結びついた顕密仏教の考え方とは大きく違っていたので弾圧されることになり、うねりとしてもまだまだ小さいものでしたが、確実に信者を増やし、室町時代になると社会全体に広がっていきました。
現代と比べたら明らかに経済的は未発達で、大自然予知も未熟な中世社会でした。どうしたら心の安住を得られるのか、幸せだという実感を得られるのか、その命題を解決するために現れたのが法然・親鸞・日蓮・一遍といった僧侶たちだったといえます。満ち足りたりているようにみえるけれど、先の見えない昨今。苦悩の中から立ち上がった僧侶たちが伝えたかったことを、ここで改めて学んでいく必要があるように思います。 ~次回に続く~