梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

教団に学ぶ(その2)

2023年06月24日 05時34分41秒 | Weblog
前回取りあげた文化庁が解散命令を下した二つの教団の犯した罪は、殺人と詐欺です。「オウム真理」は、信者の脱会を巡って各地で事件をおこしており、首都を混乱させて、間近に迫った警察の強制捜査を防ぐことが狙いで、無差別テロを実行しました。「明覚寺」の幹部は、僧侶に霊能力があるように装い、悩みごとの相談に訪れた主婦らから、供養料名目で金銭をだまし取った、悪徳商法を強行しました。明らかに世に悪をもたらす宗教集団です。

前回示した、カルトの害悪です。集団の価値観から抜け出せなくなり、自律的な意思決定を奪う。構成員や一般の人々に対して献金等の名目で経済的収奪を行う。構成員に対して暴力を行う。集団で犯罪行為に及ぶ。とのことですが、冷静に判断して見抜かなくてはなりません。再度繰り返しますと、それはマインド・コントロールによって誘導されます。マインド・コントロールの手順は、断りにくい環境を作る、未解決な問題を提示しズバリ答えてみせる、とにかく実践させ・わからせる・考えさせない。となりますが、心のスキマを狙われていると認識しなくてはなりません。しかし多くの信者は問題が表面化するまで、疑問を持たなかったことになります。

さてこの教団事件から遡る事800年前、親鸞聖人が生きた時代背景はどうだったのでしょうか。共に時代が濃く反映しているように思われます。歴史を学び直してみました。

親鸞聖人は1173年に生まれ1262年に亡くなります。すなわち鎌倉時代前半から中期にかけてです。これまでの腐敗した京都の朝廷に代わって、源頼朝により清廉な鎌倉幕府が樹立され、朝廷に取って代わって日本を支配し時代が刷新されたかのようですが、実際はそうではなかったのです。

1221年の承久の乱以前は、幕府の支配する範囲は東国に限られていましたが、幕府軍が乱に勝利したことにより、西国の荘園・公領にまで鎌倉幕府の御家人が地頭として任命され、幕府の支配が全国に及ぶようになりました。そして地頭は武力を背景にして、荘園や公領への支配力を強め、治安維持や年貢の取り立てなどを行い、支配を拡大していきました。

このように、しだいに新たな統治機構としての鎌倉幕府の支配が全国に及んでいったのですが、実は法律は全国で統一されたものはなく、公家だったら公家法、武士だったら武家法、それぞれの寺社や荘園だったら寺社法・本所法によって判断されることになっていました。日本全体で統一的に人々が支配されていたとはとても言いがたい状態でした。

そうした状況のなか、一般の人々の生業はどのようだったのでしょうか。農民たちは土地の生産力を安定させるため、刈敷・草木灰といった肥料を使用し、鉄製農具も利用されるようになり、荒地開発、用水路づくりなどの土木工事が行われて生産力が向上しました。こうした耕地開発の進行、農具・農業技術の改良により生産の増大がなされます。

それに触発されて手工業者が自立し、地域ごとに特色ある手工業製品が生産されす。手工業の発達は、余剰生産物(商品)の交易の場を求めることとなり、12世紀頃から荘園村落に生まれ始めた市は鎌倉時代に入ると数を増し、定期市に発展します。定期市では生活に必要な物資が売られる一方、農民は年貢の余剰を売って金銭を稼ぎ、道具や足りない食料を手に入れました。また鎌倉時代には宋銭が全国的に流通し、これによって各地で商業製品が生産され売買され、商業も発展していきました。
 
このように、農業における生産性が向上し、商工業も一定の発展を遂げたのですが、生産は自然の影響を受けるところ大であり、さまざまな災害に見舞われました。鎌倉時代に起きた大きな飢饉としては、寛喜の飢饉(1230~32)、正嘉の飢饉(1258~60)、元徳の飢饉(1330)が知られています。鎌倉時代には寒冷化が進んだとされ、飢饉の際には餓死者の死体があちこちに放置されていたと記されています。

地震については毎年のように起こっていました。1293年(正応6)4月13日に発生した大地震では鎌倉に大きな被害を及ぼして津波も発生し、死者は2~3万人に及んだと推定されています。その他、干ばつ・洪水・虫害・疫病などもたびたび起こったほか、承久の乱をはじめとした大小の戦乱も各地で勃発し、人々は毎日の生活をどのように送ったらよいのかという不安を常に感じていました。

一方、中世は「宗教の時代」とも呼ばれるほど、国家から庶民に至るまで宗教が大きな影響を与えていました。人々は日々の幸福を神仏に祈り、病気治しも修験者や民間陰陽師などに頼り、国家の安泰は「顕密仏教」が担っていました。東大寺・興福寺・延暦寺・東寺といった大寺院は天皇護持・国家安泰の祈祷をすることが最大の役割でした。しかし、祈祷をすることで災害を減少させることは無理があり、相次ぐ戦乱・飢饉・疫病を前にして、呪術的な仏教・神道・陰陽道は無力でした。

そうしたところに、個人の心の救済を図ろうと登場したのが、法然・親鸞・日蓮・一遍といったいわゆる「鎌倉新仏教」と呼ばれる仏教を打ち立てた僧侶たちでした。こうした仏教は、これまでの国家と強く結びついた顕密仏教の考え方とは大きく違っていたので弾圧されることになり、うねりとしてもまだまだ小さいものでしたが、確実に信者を増やし、室町時代になると社会全体に広がっていきました。

現代と比べたら明らかに経済的は未発達で、大自然予知も未熟な中世社会でした。どうしたら心の安住を得られるのか、幸せだという実感を得られるのか、その命題を解決するために現れたのが法然・親鸞・日蓮・一遍といった僧侶たちだったといえます。満ち足りたりているようにみえるけれど、先の見えない昨今。苦悩の中から立ち上がった僧侶たちが伝えたかったことを、ここで改めて学んでいく必要があるように思います。  ~次回に続く~
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教団に学ぶ(その1)

2023年06月17日 05時47分59秒 | Weblog
安倍晋三元首相の銃撃事件は、あと少しで一年を迎えます。(事件の背景:実行犯が小学生の時、母親は旧統一教会に入信。父親は4歳の時に自殺し、一つ年上の兄も7年前に自殺。一方で母親は宗教活動にのめり込んでいった。父親の生命保険金を含めて少なくとも約1億円を献金し、02年に自己破産する。伯父は生活に困窮した一家に経済的な支援を続けたが、母親は献金をやめなかった。実行犯は母親が破産するきっかけとなった宗教団体を、国内で広めたのが安倍氏だったと思い込み、安倍氏を狙ったと供述)

その旧統一教会への解散命令の請求を視野に入れた文科省の調査は、開始から七カ月近くが経ち、長期化しています。宗教法人法にもとづく文科省の「報告徴取・質問権」は6回を数え、教団側から一応の回答はあるものの、お仕着せです。宗教法人法は、「法令に違反して著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為」などがあった場合、文科省などが、宗教法人への解散命令を出すように裁判所に請求できると定めています。

文化庁によると、「法令違反」で裁判所が解散命令を出したのは、地下鉄サリン事件を起こした「オウム真理」と、霊感商法の詐欺事件を起こした「明覚寺」の2例だけです。いずれも幹部が刑事事件で立件されています。今回の文科省の「手持ち証拠」の中心は、教団をめぐって組織的不法行為や使用者責任を認めた民事訴訟判決とみられます。解散命令請求が確実に認められるかは見通せず、集めた証拠で十分か、慎重な姿勢を崩していません。

その解散命令が出れば、旧統一教会が消滅すると捉える人も多いと思います。しかし解散しても、日本法人がなくなるだけです。韓国の統一教会はそのまま残ります。そして日本の信者は、韓国へ直接資金を送ることになるのではないかとの見方も有力です。それほど、カルト教団に一旦に入信した信者の問題は根が深いといわざるを得ません。

ところで「カルト」とは何なのでしょうか。語源のcultは元々「宗教・儀礼」を意味する言葉です(元来「悪い宗教団体」の意味ではなく)。現在のカルトとは、特定の教祖や教義を熱狂的に信じる小集団のことを指します。中でも、代表者または特定の主義主張に絶対的に服従するよう、メンバーやメンバー候補者の思考能力を停止や減退させて、目的のためには違法行為も繰り返して行なう集団を「破壊的カルト」と称しています。

絶対服従や思考能力を停止や減退させるための手段としては、マインド・コントロールがあります。マインド・コントロールの手順は、断りにくい環境を作る、温かい人間関係を築く、未解決な問題を提示しズバリ答えてみせる、とにかく実践させ・わからせる・考えさせない、自己犠牲を払わせる、などとなるでしょう。

そして、カルトの害悪は以下のようなものがあります。信教や思想信条の自由を侵害する。カルトの価値観から抜け出せなくなり、自律的な意思決定ができなくなる。構成員や一般の人々に対して献金等の名目で経済的収奪を行う。構成員に対して暴力や性的虐待を行う。病気が治るなどと称して生命や身体を害する。集団自殺や犯罪行為に及ぶ。カルト集団のために奉仕を強制される。児童の虐待やネグレクト、家族関係の断絶。

カルト問題の深刻さは、被害を受けた者が被害を受けたと認識できず、むしろ積極的に信仰や信条を選択したと確信している点にあります。人は一度ある価値観を受け入れると、その価値観に基づいて行動し、その価値観から自力で脱することが困難となります。オウム信者の多くが教祖の指示に抗えず、犯罪に加担してしまったことは、それを物語っています。

時の権力者に、強力な教団として恐れられたのは、親鸞の浄土真宗でした。知識のない者や修行をしない者でも、専修念仏で救われるとする他力本願の教えは、多くの人々に救いの道を示しました。しかし一方で、当時の仏教界においては異端視され、弾圧を受けることになります。

ついには、朝廷を巻き込んでいる仏教界の訴えによって、親鸞は越後へと流罪になります。親鸞の教えは、為政者や既成教団から、信者をマインド・コントロールする「破壊的カルト」と思われたのでしょう。教団を解散させる代わりに、教祖を流刑にしたのです。    ~次回に続く~
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親鸞展(その4)

2023年06月10日 06時04分46秒 | Weblog
平成知新館の外観はシャープでモダンなデザインが特徴的で、内観は日本的な空間を取り入れた直線を基調とするスペースでした。1階の受付で音声ガイドを借ります。ナビゲーターは檀れい(女優:親鸞の妻の恵信尼役を)、ナレーションは大塚明夫(声優:親鸞の役を)です。音声ガイドに役者を起用しているところに、京都国立博物館の親鸞展への力の入れようが伝わります。
 
エントランスから一旦エレベーターで3階まで上がり、各フロアを巡り下まで降りてくる形で、国宝11件と重要文化財70件を含む計約180件が展示されていました。浄土真宗十本山が加盟する真宗教団連合が協力し、浄土真宗各派の寺院が所蔵する法宝物を一堂に集めての特別企画でした。

本展示会では、親鸞の求道と伝道の生涯を、自筆の名号・著作・手紙をはじめ彫刻・影像・絵巻などを集め、解説分を添え紹介し、展示は第一章から第七章までに分けています。第一章、親鸞を導くもの/七人の高僧。第二章、親鸞の生涯。第三章、親鸞と弟子。第四章、親鸞と聖徳太子。第五章、親鸞のことば。第六章、浄土真宗の名宝/障壁画・古筆。第七章、親鸞の伝えるもの/名号。各章のタイトルはこのようになっています。 [名号(みょうごう)とは、仏・菩薩の称号のことで名をもって号(さけ)ぶという意味]

第四章の親鸞と聖徳太子、についてです。親鸞は六角堂で聖徳太子の本地、救世観音より夢告を受けたとされます。第四章では、夢告に関する法物や「和讃」より、親鸞の聖徳太子に対する信仰をうかがい知れます。親鸞は9歳で得度し、比叡山で20年間厳しい修行を積むものの、迷いは晴れず、下山して聖徳太子ゆかりの京都六角堂に百日籠ることとなります。この時の夢のお告げに導かれ、生涯の師である法然に出遇ったとされます。 [和讃とは、仮名まじりの平易な言葉で、仏、菩薩、経典、祖師などをたたえた歌] 

第五章の親鸞のことば、についてです。第五章に出てくる『教行信証』が、本展示会でも目玉のようでした。教行信証とは、親鸞が著した、仏教書です。第六巻からなり、広く経典や解説論の中から念仏往生の要分を抜粋・編集し、浄土真宗の教義を組織体系化した書です。つまり、親鸞の信仰と思想を体系的に述べたものです。60歳の頃から80代にかけて執筆したとされます。「坂東本」(国宝)、「高田本」(重要文化財)、「西本願寺本」(同)の3本が集結したのは今回が初めてのようでした。

「坂東本」は現存する唯一の親鸞自筆本です。墨で消したり朱筆で上書きしたり、膨大な推敲の跡がよく分かります。関東大震災で被災して劣化、最初の部分が欠けているそうです。「高田本」は親鸞生前に書写されたもの、「本願寺本」は親鸞の死後に作られた清書本にあたるそうです。3本を並べることで、どう書写されていったかが分かるようになっています。

今回の私の一番の感動は、この親鸞の直筆をこの目で確認したことです。親鸞が今ここで書いたような錯覚すら覚えます。教行信証の添削に、八十歳代の加筆・訂正も見られます。晩年まで弛まず求道を続けた親鸞の人柄をリアルに感じることができました。これだけでも親鸞展に行った甲斐がありました。ただ残念なことは、歎異抄を著わしたとされる弟子の唯円の名が出てこなかったことです。行く前に歎異抄の講義を受けましたが、その思想背景までは触れられていなかったことです。

当日は観光バスで、遠距離から団体客が来ていました。浄土真宗十本山が加盟する教団連合が協力した企画だったこともあり、本山詣の形をとったのでしょう。親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞-生涯と名宝」は、3月25日から開館し5月21日に閉館となりました。5月18日時点で既に来館者数が10万人を突破し、4年ぶりとなる10万人記念セレモニーが行われたようです。

京都で会おうとした彼との待ち合わせがあり、博物館からまた歩いて祇園に向かいました。約束の時間より早く着き、食事をする店のすぐ近くの喫茶店に入りました。窓から見る外の風景は、インバウンドの旅行客が引きも切らず行き交っています。850年前に生まれた偉人の声を聞けたとの思いと、目の前にある現実の浮世とが交錯する時間でした。



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親鸞展(その3)

2023年06月03日 05時34分36秒 | Weblog
京都の親鸞展へ行くことを最終的に決めたのは、関西である人と会う目的もあったと前回書きましたが、そのある人とは誰かです。今から3年前まで、京都で月一回(一泊二日で)開催される勉強会があり、私は15年間参加していました。その勉強会で知り合った人で、家業を継いで若いながら頑張っている関西に住んでいる男性がいました。

その彼に久しぶりに再会しようと思ったのです。家業の他に新しい事業にも進出して、課題や悩みを抱えていました。その胸の内を語ってくれるので、京都の勉強会の前後に個人的に食事をしていました。その勉強会を私は辞めて、疎遠になっていましたので、彼から関西に来る時は是非声を掛けて欲しいといわれていました。親鸞展を観終わった夕方、久しぶりに京都で彼と会うことを約束しました。

今回の東京・京都往復は、夜間運行の高速バスを利用することにしました。前日の深夜東京駅八重洲ターミナルから出発して、翌早朝京都駅八条口乗降場に着き、昼間京都国立博物館で親鸞展を観て、夕方祇園で彼と食事をして、その日の深夜京都から高速バスで翌朝東京に戻る。東京に戻った昼からは用事もあり、約32時間の強行軍でした。

高速バスに実際乗ってみて、若い人たちに人気があるのが分かります。新幹線に比べて料金は格安で、移動している間に睡眠がとれて、宿泊代が浮いて、前後の日中の時間が有効に使えます。しかし、若者である前提条件があります。7~8年前に高速バスを利用したことがありましたが、以前と比べ今回は確実に疲れを感じました。
 
今回初めて、ネットカフェなるものを利用しました。事前に調べておきましたが、京都駅八条口で高速バスを降りた目の前の雑居ビルの中にありました。24時間営業です。早朝の6時台に着きましたので、こんな時間には拝観寺や博物館も開いていませんので、すぐさま店に入り受付をします。

オープン席(隣との仕切りが浅い)、シングル席(仕切りが深くプライベートは確保される)、個室(扉があり鍵が掛かる)、仕様は料金により違います。ネットゲームができマンガ図書があり、シャワー室やパウダールームもあり、利用の仕方は様々です。場所柄、高速バス利用の京都の観光客が時間調整として使う人が多いのでしょう。私は個室を選び、会員になるために200円は必要でしたが、結局4時間利用してトータルで3000円程でした。

夜行バスの疲労感が何となく残っていて、椅子がほぼフラットになるので、横になって寝ようとしました。感情が高ぶっているのか、身体がそこまで要求してないのか、眠れませんでした。個室とはいえ天井が他の個室と共有で、気密性には難があります。体力がある若者が上手く利用しているネットカフェも、実体験をしてみないと語れません。テレビを観たり読書をしたり、自然体で11時近くまでそこで過ごしました。

当日は天気も良く、京都国立博物館まで歩くことにしました。途中、外国人と多く行き交います。コロナ禍で激減した外国人観光客が完全に戻った感があります。京都の歴史を刻みながら流れている鴨川を渡り、市内で有数の名所清水寺の手前に位置するのが、京都国立博物館です。道路を挟んで博物館の、南側にあるのは三十三間堂です。途中交番で道を尋ねますが、観光都市を意識している警官が、懇切丁寧に教えてくれました。

京都博物館は、明治30年に開館。主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を収集・保管・展示する、国立の博物館です。平成26年「平成知新館」を開館。敷地の中では、明治の赤煉瓦造りの本館「明治古都館」と新館「平成知新館」、二つの異なった趣の建物が対照的でした。

八条口から博物館まで歩いて約30分。陽を遮る雲もなく、汗が噴き出ていました。平日(火曜日)にもかかわらず、チケット売り場は行列ができていました。さていよいよ、平成知新館で催されている親鸞展です。    ~次回に続く~

 明治古都館

 平成知新館での親鸞展
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