NHK大河ドラマ“真田丸”を、毎週欠かさず観ています。この脚本を書いている三谷幸喜さんの描き方は、とても奇抜で面白味があり、あの天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦の場面は、数分で終わってしまいました。
その関ヶ原では、東軍の勝利となります。直前の、所謂第二次上田城の戦いで昌幸と信繁(幸村)は、実質的には徳川秀忠を敗北に陥れたにもかかわらず、石田三成の西軍についた真田親子は、徳川に降伏します。
一方東軍についた信繁の兄信幸は、家康へ必死の助命嘆願をします。そして二人は死罪を免れ、高野山への流罪と決まります。信幸が父と弟に対して、「高野山が女人禁制ゆえ、麓の九度山に屋敷を建てました」との台詞が入り、9月18日に放映された内容では、その九度山村に直接入るシーンで終わりました。
この場面を観て、私は疑問を感じました。実は今年一月に、“二ヶ所の和歌山”と題してアップしたブログに、「真田昌幸・幸村の父子は初め高野山の蓮華定院に入りますが、寒さの厳しい高野山から20kmほど離れた麓の九度山に居を構えることを許されます」と、書いていたからです。
もう一度インターネットなどで調べてみました。「室町時代の1523年に、長野の小県・佐久地方の豪族と宿坊契約が結ばれたと言う記録がある。その縁で、海野家の一族でもある真田昌幸は蟄居の際この蓮華定院に滞在した」との記事があり、他に調べた範囲では、九度山に直に入った記述は出て来ませんでした。
複数の記述から、幸村の正室や侍女達は、やはり高野山は女人禁制の為に九度山に始めから住みつき、真田親子は蓮華定院に滞在したのはそれほど長くなく、二人は許可を得て後に山を降りることになった、とこのようなことが再確認出来ました。因みに、その蓮華定院は現在も宿坊として存在しています。
調べれば調べるほど、「諸説あり」の世界に入って行きます。父昌幸は九度山11年目にして、死を迎えます。幸村自身も大阪冬の陣の出陣まで14年間そこで蟄居生活をしたこととなり、過ごし方にしても諸説は当然あると思われます。
大河ドラマ“真田丸”は歴史検証番組ではありませんので、あくまでもドラマなので、三谷幸喜さんの簡潔な描き方に、私はなんら異論ありません。むしろ毎回の斬新さやユーモアに、私は惹かれてしまいます。
溢れているインターネット上の記述の真偽も、見定める必要があります。もっと根本的な問題は、「歴史は勝者によって書き換えられる」との言葉もあります。常にその視点で観ることが大事に思います。
その関ヶ原では、東軍の勝利となります。直前の、所謂第二次上田城の戦いで昌幸と信繁(幸村)は、実質的には徳川秀忠を敗北に陥れたにもかかわらず、石田三成の西軍についた真田親子は、徳川に降伏します。
一方東軍についた信繁の兄信幸は、家康へ必死の助命嘆願をします。そして二人は死罪を免れ、高野山への流罪と決まります。信幸が父と弟に対して、「高野山が女人禁制ゆえ、麓の九度山に屋敷を建てました」との台詞が入り、9月18日に放映された内容では、その九度山村に直接入るシーンで終わりました。
この場面を観て、私は疑問を感じました。実は今年一月に、“二ヶ所の和歌山”と題してアップしたブログに、「真田昌幸・幸村の父子は初め高野山の蓮華定院に入りますが、寒さの厳しい高野山から20kmほど離れた麓の九度山に居を構えることを許されます」と、書いていたからです。
もう一度インターネットなどで調べてみました。「室町時代の1523年に、長野の小県・佐久地方の豪族と宿坊契約が結ばれたと言う記録がある。その縁で、海野家の一族でもある真田昌幸は蟄居の際この蓮華定院に滞在した」との記事があり、他に調べた範囲では、九度山に直に入った記述は出て来ませんでした。
複数の記述から、幸村の正室や侍女達は、やはり高野山は女人禁制の為に九度山に始めから住みつき、真田親子は蓮華定院に滞在したのはそれほど長くなく、二人は許可を得て後に山を降りることになった、とこのようなことが再確認出来ました。因みに、その蓮華定院は現在も宿坊として存在しています。
調べれば調べるほど、「諸説あり」の世界に入って行きます。父昌幸は九度山11年目にして、死を迎えます。幸村自身も大阪冬の陣の出陣まで14年間そこで蟄居生活をしたこととなり、過ごし方にしても諸説は当然あると思われます。
大河ドラマ“真田丸”は歴史検証番組ではありませんので、あくまでもドラマなので、三谷幸喜さんの簡潔な描き方に、私はなんら異論ありません。むしろ毎回の斬新さやユーモアに、私は惹かれてしまいます。
溢れているインターネット上の記述の真偽も、見定める必要があります。もっと根本的な問題は、「歴史は勝者によって書き換えられる」との言葉もあります。常にその視点で観ることが大事に思います。