梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

有り難うございました

2008年06月29日 15時34分32秒 | Weblog
山下様、「私の怪我3」にコメントを頂き有り難うございました。

知らない方が継続して見て下さり、コメントを寄せてもらえるなんて、なにより嬉しいです。励みにして、今後も頑張ります。
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タイムリーに

2008年06月29日 07時35分37秒 | Weblog
一週間前の金曜日(20日)、名古屋に在り、わが社で取引させてもらっている鉄鋼メーカーの株主総会がありました。わが社ではそこの株を若干保有していますので、私は三年ほど前からその会社の総会に出席しています。

そこに出席すれば、年に一度でもその会社の社長を始め他の役員とも挨拶が出来きます。またその会社の実情がよく解ります。そんな目的で毎年行くことにしています。

今年の総会は株主である個人投資家から、かなり突っ込んだ質疑が多く長時間に及びました。主な内容はもっと利益を出せないのか、東証に上場しないのか等でした。

この会社は主にスクラップから鉄を作る電炉メーカーなのですが、ご多分に漏れず鉄源の高騰はスクラップにも及び、コストアップとして収益を圧迫しています。それを販売の方にもっと転嫁出来ないのかとの指摘です。

またこの会社は現在名証一部に上場していますが、もっと株の売買が活発に行われるメジャーな東証に上場しないのか、株式時価総額を上げろとの催促なのです。どちらも株主:ステークホルダーのもっともな主張です。

しかし私は株主でもある反面、取引先である別のステークホルダーです。もっと販価を客先に転嫁できないのかの、取引先を無視した一方的な発言にはちょっと違和感を覚えました。

話しは変りますが、長女がこの4月社会人になり一ヶ月社内研修をしていることをこのブログで紹介しましたが、配属先が神戸に決まりました。二週間ほど前に住まいのアパートも決まり、家内と一度娘のところに行かなければと話しをしていたところです。

タイムリーに今回名古屋に行くチャンスが出来ましたので、私はこの総会の後名古屋から、午後東京から来ている家内の新幹線に同乗して新神戸に向かうことができました。娘は相変わらず、元気でやってました。
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私の怪我3

2008年06月21日 10時08分42秒 | Weblog
案ずるより産むが易し。その串刺しは局部麻酔で、ドリルで骨に穴を開けながら鋼線を通す簡単なもので、牽引最中痛みはありませんでした。

本番の手術は大掛かりな手術であったことは確かですが、年月と共にもう忘れ掛けています。一年間付かなかった大腿骨側の骨を削り、骨頭と大腿骨を暫くジョイントする金具を埋め込み、4時間位で無事終わりました。

痛みについては術後全身麻酔が切れてからのものは記憶に残っていますが、股関節や骨髄の造影検査時の痛みの方が、瞬間ですが耐えがたいものでした。

その後リハビリも始まり、長くギブス固定して曲げることが出来なかった膝はほぼ回復しました。しかし骨は付いたものの、股関節の機能は完全には回復しませんでした。今もって胡坐(あぐら)をかいたり、蹲踞(そんきょ)の姿勢は出来ません。

その年は季節も移ろい、伊豆天城山の麓の木々が紅に色着く頃ようやく退院となりました。怪我をして、仕事や家庭から離脱を余儀なくされた一年半でしたが、別世界に住んでいた体験も貴重でした。

徐々に仕事に復帰はしますが、鉄の仕事はやはり現場主体です。父が構想を抱いていた運送会社が翌年設立されました。運送とはいえ、地方の帰り便を利用した首都圏発の荷物の斡旋であり、電話で出来る情報産業です。総合トラックの前身であり、私はそこの代表に就任しました。

入院中多くの人が見舞いに訪れてくれました。特に学生の頃、山登りをしていた仲間は伊豆の山奥まで会いに来てくれました。その中に後の私の伴侶となる、家内もいました。私が父の会社に入る直前までで、音信も途絶えていました。

この怪我は不運といえばそうかもしれません。しかしそのあとに、この不運は前述の二つの大きな幸運を運んでくれました。

術後二年経ち埋め込んだ金具を取る手術入院をするのですが、この私の世話は当然のことながら、結婚した家内の役割でした。
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私の怪我2

2008年06月15日 07時29分03秒 | Weblog
父が学生相撲をとっていたこともあり、相撲取りやスポーツ選手が加療することで有名な、上野池之端の整形外科医院に入院することに決まりました。

処置としてはなるべくなら切開しない方針で、胸から腰、腰から骨折した左足のかかとまでほぼ半身ギブス固定することとなりました。これが結果的には敗因となりました。

4~5ヶ月経ったところでレントゲンを撮るのですが、骨は付いてなく、また再びギブスを巻き直しました。10ヶ月近くこの状態が続きましたが、体でも一番付きづらい箇所であったせいか、最終的には骨は付きませんでした。

簡単に言えば、仰向けに寝たまま横になることも出来ずベッドに釘づけになったのです。あるいはかまぼこ状態で、ベッドを10ヶ月近く背負ってしまったのです。

家族には介護の負担を掛けたことは言うまでもありませんが、この時の両親の落胆は大きかったと思います。特に父としての、息子を自分の会社に入れこんな怪我をさせてしまった後悔は、無言でも伝わりました。

しかし全てこれは自分の不注意に起因することで、私としては骨が付いている付いていないより、会社に多大な迷惑をかけてしまったすまなさが募るばかりでした。

翌年そこの医院長の紹介で、大学付属病院の伊豆にリハビリがある病院で手術をすることが決まりました。アクシデントから一年が経過していました。

手術前の処置として、鋼線牽引というものを一週間しなければならないとのこと。これは今回手術する足の股関節が骨頭壊死状態で潰れており、骨盤側に食い込んでいるので、その足を牽引するということなのです。

問題はその方法です。左足の膝の上部に3ミリほどの鋼線をダイレクトに串刺しにして、下のほうに重しを垂らし、引っ張るという野性的な方法なのです。
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私の怪我1

2008年06月07日 12時52分09秒 | Weblog
私は父の会社、この梶哲商店に入社して3年目に、現場で怪我をしました。昭和53年の春、私24歳の時のことです。

当時葛西の本社のすぐ近くには鋼板倉庫があり、倉庫に隣接して野積みの置き場がありました。私は先代の意向で暫くは現場の仕事をしていましたので、そこが職場でした。

その日は小雨が降っていました。野積みの置き場には門型のクレーンがあり、それで鋼板の積み降ろしをしていました。お客様のトラックに荷物を積み終わり、私はそのクレーンの脚部からトラックに飛び移ろうとしました。

その時でした。タイヤに掛けた足がゴム長を履いていたせいですべり、トラックのあおりに足の根元を打ちつけてしまいました。しかし、たったそれだけのことでした。普通に歩けたし痛みもさほど残りませんでした。

異常を感じたのは2~3週間経った頃からで、歩行が少し困難になり出しました。街の接骨医院には行きましたが、せいぜい温湿布とマッサージ位の治療です。本社と倉庫の近さのところでも、自転車にまたがらないと、辛いほどになってしまいました。

3週間後、銀座で宴席がありました。会も終わり階段を降りかけたところ、階段を踏み外し、強くその足を突いてしまいました。さすがに、その夜は一睡も出来ませんでした。

翌日都心の大学病院に行きましたが、レントゲン診断の結果は、左大腿骨頚部骨折。要するに、骨盤を支えている大腿骨の骨頭の根元が折れてしまったのです。あんな程度の事故で? 信じられませんでした。

しかしそこからが運がついていなかったのか、その病院はベッドに当分空きが無く、心配した両親もあせり、直ぐに入院出来る医院を探すことになったのです。
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浦安に移って2

2008年06月01日 08時07分56秒 | Weblog
不動産の売買の経験は、人の一生でもそんなに頻繁にあるものではありません。土地や建物を必要とする場合賃借の方法もあり、所有か使用かの選択は状況により違います。

前述しましたように不動産の売買は、金額の尺度で測れば大きな不安要因ですが、必要性の問題として捉えるとまた別の見方があります。先代も含めわが社の不動産取得は、商売業態の変遷の中にあったと思います。

昭和62年に先代は葛西に、今までの事務所や仮置き場を解体してそこに鋼板倉庫を新築しました。しかし平成10年頃より私は、市川市の岸壁の傍に倉庫を借りて、在庫は全てそこに移し販売を開始しました。内部コスト削減からでしたが、もっとよい立地を優先したのです。

その空いた葛西倉庫は、弟の会社総合トラックに物流倉庫として利用してもらいました。浦安移転までの6年間、彼の会社に借りてもらったことは大変に助かりました。

その総合トラックは9年程前、メタル便と言う別会社を作り、浦安鉄鋼団地発の鋼材の小口混載配送の会社を立ち上げました。鋼材輸送のニッチのビジネスとして、そのユニークさは業界からは評価を得ているようです。

わが社は6年前販売先で行き詰った会社の商権を引き継ぎ、溶断加工業に進出しましたが、その工場の一つが墨田区八広にありました。3年前の移転で、その八広工場、市川の鋼板倉庫、メタル便(浦安鉄鋼団地内の営業所)が全部この浦安の地に集約しました。

それまでの営業部隊と現場・現物の分離、素材事業と加工事業の分離、鉄の会社と関連の物流会社の分離が、これで一挙に解決しました。鉄の町、浦安鉄鋼団地の隣に移転した効果は、これからもっと活かさなくてはなりません。

移転計画、その影には多くのアドバイザーや協力者がいたことは忘れてはならないことです。売却しましたが先代の残してくれた葛西の土地資産も、また大いに役立ちました。
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