最近気になることですが、本来交わされてもよいちょっとした言葉が聞こえてこないのです。特に若者から、常識的な挨拶程度の言葉などが交わされないのです。
例えば、マンションの玄関でエレベーターに乗るときのことです。入れ違いざまにエレベーターから降りて来た人に、“おはようございます”と挨拶を投げかけるのですが、返しの言葉が無いのです。見知らない人でも、ここはパーソナルエリアですので、こらからアプローチをするのですが。
例えば、満員の電車を降りるときです。後ろから遅れざまに身体で押し分け出て行こうとする人がいるのですが、“すみません”の一言も無いのです。身体で行動を示そうとしているのでしょうが、当たられた人にとってみると、とても不快です。
例えば、コンビニのレジで会計を譲り合うときです。レジで他の人とかち合い、こちらが手を差し出してお先にどうぞというジェスチャーをするのですが、相手の人は “ありがとうございます”の言葉もなく無造作に会計を済ませて行ってしまうのです。
似たケースは沢山ありますが、言葉に出すのが恥ずかしい、言葉を出すのがおっくうだ、言葉を発するのが惜しい、あるいは振る舞いで分かるはずだ、と色々と理由はあると思います。
太古の昔、人類は言葉を介さないで意思疎通が出来た時代があったとも言われています。しかし100万年前、人類は猿人から原人になる時代に言葉が出来たとされています。
以来言葉は今日に至るまで脈々と使われてきましたし、その言葉が与える影響力は想像を超えるほど大きいかも知れません。言葉を介し互いに理解し合う現在では、人間は発する言葉で相手の人格をも分別しています。
言葉を交わさなくともある程度ことは足りるのでしょうが、人間性の退化にならなければと願うばかりです。
例えば、マンションの玄関でエレベーターに乗るときのことです。入れ違いざまにエレベーターから降りて来た人に、“おはようございます”と挨拶を投げかけるのですが、返しの言葉が無いのです。見知らない人でも、ここはパーソナルエリアですので、こらからアプローチをするのですが。
例えば、満員の電車を降りるときです。後ろから遅れざまに身体で押し分け出て行こうとする人がいるのですが、“すみません”の一言も無いのです。身体で行動を示そうとしているのでしょうが、当たられた人にとってみると、とても不快です。
例えば、コンビニのレジで会計を譲り合うときです。レジで他の人とかち合い、こちらが手を差し出してお先にどうぞというジェスチャーをするのですが、相手の人は “ありがとうございます”の言葉もなく無造作に会計を済ませて行ってしまうのです。
似たケースは沢山ありますが、言葉に出すのが恥ずかしい、言葉を出すのがおっくうだ、言葉を発するのが惜しい、あるいは振る舞いで分かるはずだ、と色々と理由はあると思います。
太古の昔、人類は言葉を介さないで意思疎通が出来た時代があったとも言われています。しかし100万年前、人類は猿人から原人になる時代に言葉が出来たとされています。
以来言葉は今日に至るまで脈々と使われてきましたし、その言葉が与える影響力は想像を超えるほど大きいかも知れません。言葉を介し互いに理解し合う現在では、人間は発する言葉で相手の人格をも分別しています。
言葉を交わさなくともある程度ことは足りるのでしょうが、人間性の退化にならなければと願うばかりです。