梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

タクシーに乗って

2011年07月30日 07時11分06秒 | Weblog
私は普段タクシーを利用することは多くはありませんが、必要に迫られ乗ることは少なからずあります。深夜酒に酔ってタクシーに乗って、行き先を告げて安心して寝入ってしまわない限り、心掛けていることがあります。

それはタクシーの運転手さんに、私から話し掛けることです。特に東京の運転手さんは10人のうち7~8人までは、こちらが話し掛けるまでは黙っています。要するに殆どの運転手さんは、向こうから話し掛けてくることはありません。

私が何で話をするのかと言いますと、タクシーに気持ちよく乗りたいからです。黙って乗っている方が気を使わないで楽だという人もいるでしょうが、私は密室で黙って乗っていることの方が苦痛です。

話し掛けても、運転手さんによっては乗ってこない人もいます。話したくない運転手さんだと認識出来て、それはそれでいいのです。しかし大半は、こちらから話をすると、色々な話題に展開して結構会話が続きます。

最初の話題はやはり天気のこと。次に、最近のお客さんの乗り具合や稼ぎ高、その営業所の保有台数や運行管理などを聞いてみます。そこら辺から大概の運転手さんは積極的に話をしてくれます。自宅の前に着き料金を払い終えてから、その運転手さんと暫らく話し込んでしまったこともあります。

もう一つ何で話をするかの理由は、初対面の人と、こちらが仕掛けてどんな話しが出来るかを試していることもあります。言わば人間観察をしているようなものです。

この間、逆に運転手さんから積極的に話をしてくる人がいました。どうして運転手さんから話をしてくるのか、訳を聞きました。お客さんがどんな人なのか、犯罪などの危険を事前に察知するため、会話をして観察している。そんなことを探っているのだと話してくれました。私と似たような運転手さんがいました。

タクシーの運転手さんとは一期一会です。一回きりで二度と会わない人が殆どです。でも乗っている時は楽しい時間を共有したいと思います。それが達成されれば、降りる際には気持ちよく別れられます。
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専務と常務は

2011年07月23日 06時53分44秒 | Weblog
先日社内で、専務と常務の役目や役割の話となりました。とは言っても現在わが社には専務と常務はおりません。これまでの人事構成で、つまり今いる社員の入社年度や年齢や経験でそうなっているのであり、未だわが社には該当役員は不在です。

しかしその役職を担ってもらいたい幹部は既におり、実際仕事としてはそんなことを今から目指そうではないかと、外部の方を交えてその話題となりました。

専務取締役は社長を補佐し会社の全般的な管理及び業務を担当し、常務取締役は社長を補佐し会社の日常の業務を担当する。その定義を調べてみると、そのようなものが一般的であり、商法上は代表取締役とただの取締役という区別しかなく、専務や常務というのは法律上の概念でもありません。

何となく会社全体に関わって仕事をするのが専務、会社の中で或る部門などの統括をするのが常務。専務と常務の仕事内容は会社によって様々で曖昧さもあり、この役職の存在は、会社における発言力や責任や権威の上下の格付けをする為にあるのが世間の通念のようです。

本来、専務の“専”は専属業務の専、常務の“常”は日常業務の常だそうです。結果として常務が社長を補佐することに異論はありませんが、その字が示しているのは、つまり社長の補佐をする専任は専務だと私は思いました。

専務は社長との間で、会社をどうもっていくかあるいはその戦略をどうするかを話し合う。徹底して社長の意図することを聞き出し、社長との隙間を埋めて、それ以下の社員にそれを伝えて会社で具現化する。その専属業務が専務の仕事と解釈しました。

常務は専務との間で、その戦略を戦術に落とし込む為に話し合う。それ以下の部下にその実際の具体的指示を与え、社員が力を合わせて会社が日々円滑に廻るようにする。その日常業務が常務の仕事と解釈しました。

勿論各会社によってその他に仕事を規定して、その会社なりのやり方で良いと思いますが、今回このように捉えてみて改めてその仕事が違う認識をしました。
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話し合うことは人を

2011年07月16日 06時22分23秒 | Weblog
フランシス・ベーコンが残した言葉の“話し合うことは人を機敏にする”について、最後に述べてみたいと思います。ここでベーコンが言っている「話し合うこと」とは、会議とか多数での談話ではなく、一対一の、直接面と向かっての対話としてみます。

書くこととは頭の中の自分の考えを整理してアウトプットして確かにすることであり、読むこととは他人の意見に接し相違点や多様性を発見して豊かになることであとしたら、話し合うこととはそれを交互にやることに他なりません。

つまり自分の意見を伝え、他人の意見も受け止めて、互いに影響しあってそれぞれの考えを変えることもあり、変えないことはあっても互いに理解は深まる。そんな繰り返しです。

つまり互いに一方的ではなく、常に軌道修正をする可能性があるのが話し合いだとすれば、書くことと読むこととは全く異なる機能となります。それを瞬時に切り替えながらするのですから、機敏にならざるを得ないと言えます。

そして話し合うこととは、相手の言葉上だけではない、身体のしぐさや顔の表情から相手を読み取るような、読心術までも必要とするならば、すばやさや鋭さや巧みさは、無いよりは有るに越したことはありません。

また書くことや読むことは自分のテンポをキープ出来ますが、話し合うことは、相手とのテンポに合わせることも大切です。自分の言いたいことも、相手の理解度によっては或る範囲で止めるか、言い方を変えて続けるか、そんな心配りもしなくてはなりません。

わが社では以前、スカイプ(インターネット通話)を利用して千葉工場と報告会議をしたことがあります。カメラが無かったこともありましたが、相手を見ずに話し合いをすることに限界を感じました。

例えカメラがあったとしても、相手の微妙な表情が分からなければ、本来の意図や心の機微が伝わらないものだと感じました。私達は話し合うことにおいて、そんな機敏な反応を、無意識に互いにやっているのかもしれません。
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読むことは人を

2011年07月09日 10時09分17秒 | Weblog
フランシス・ベーコンが残した言葉として、書くことは人を確かにすることについて、前回私の捉え方を述べました。今回は“読むことは人を豊かにする”について少し書いてみたいと思います。

新聞のコラムを、毎朝家で息子が音読していることを以前お伝えしました。その記事を切り抜きノートに貼り付け、読めなかった漢字や意味が分からなかった語彙を調べ、そこに書き込む為のスクラップブックを作りました。そんなことも興味本位でやっています。

朝時間が無い時はパスをしても構わないとして、この継続を息子には無理強いすることはありません。むしろこの継続は親も勉強になりますので、親の知識の衰え防止の為に子供を引っ張り込んでいるようなものです。

その息子の音読に変化が出て来ました。初めは口ごもって聞き取れない箇所もあったのですが、それが徐々に解消されています。今の若者は大体が早口なのでしょうか、息子も同様ですが、読む時だけはテンポも程よくなって来たように思います。

最近は息子の後に私か家内が、もう一度繰り返し音読をしています。これは人が読むのを聞くことによって更に内容を理解し、他人が読んでいることで自分の読み方の改善に気付くこともあり、こんなことも試しながらやっています。

人の文章を読むことは、他人の考えに触れることです。そして母国語で書かれている文章を読むことは、つまり日本語の表現力を学ぶことでもあります。

長年英語を教えているベテランの先生は、「帰国子女は、日常の英話を確かに流暢に話せる語学力は身に付いてはいるけれど、本来の母国語での思考の構築がなされていず、日本に帰って来て苦労をされている人も多くいます」と、仰っていました。多くの文章を読むことが、一つの解決策かもしれません。

読むことは人を豊かにするの、このよむは、詠むとも書きます。同じよみ方でも書く漢字が違う、そんな難しい日本語です。しかしその意味が解り、使い分けが出来れば、心の豊かさは増すことでしょう。
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書くことは人を

2011年07月02日 10時46分30秒 | Weblog
16世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、“読むことは人を豊かにし、話し合うことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする”という言葉を残している。そんなことを勉強会で、私が師事している先生から聞きました。

ボキャブラリーの貧困な私の頭の範疇では、読むことは、話し合うことは、書くことは、人を○○にする、のところにはどう考えても他に置き換える言葉が見つかりません。つまりそれ程、その言葉は私には適切に感じます。

読むことや話し合うことはちょっと置いておいて、“書くことは人を確かにする”については、特に共感しています。何故なら、このブログに関しては週一回、ある会の会報には最近月二回は必ず投稿をしなくてはならず、書く度にこれを痛感しています。

どちらもそのテーマについては特に制約がある訳ではないのですが、ある程度従来からの流れもあり、それに添った話題となります。そして毎回その話題探しからスタートすることとなります。

より鮮明にイメージが湧いて来てテーマが決る場合と、書きたい思いが強くなく時によっては複数のテーマを同時にイメージして、書く直前に一つに絞り込んでいく場合もあり、そこで初めて書く内容がほぼ明らかになります。

次は文章の構成を考え、それが決ったら表現や言葉を選び、実際に書き記していくのですが、私はこれには結構時間を費やしてしまいます。自分の気持ちや考えをアウトプットすることは、頭の中をきちっと整理しないとなかなか出来ないものです。

とは言え最初は粗っぽくとも書き上げてしまわないと、幾ら時間があっても足りませんので、取りあえず書いてしまうことも大切です。それから時間が許す限り、見直し書き直しています。書き直すことで、まるで表現が違ってくることも発見しています。

書き上げた文章はある意味己に対する宣言でもあり、そこで書きたかったことの再確認をします。こんな様々な過程が“書くことは人を確かにする”の所以なのかもしれません。
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