梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

営業で大切なこと

2014年02月22日 06時10分52秒 | Weblog
わが社溶断加工の仕事の受注には、リピート性のあるものと、スポット的なものとがあります。リピート性のものとは、特定のお客様から、既に価格も決まっていて、他社には流れずに定期的に受注出来ている仕事です。

一方スポット的なものとは、日々お客様から見積もりや納期の引合いを受けて、中には決まらないものもありますが、注文になる仕事です。お客様は、わが社に発注される前に、競合他社に問い合わせて、諸条件を比較していることになります。

先日、営業部長より報告を受けていた時のことです。従来、素材販売や溶断加工でもスポット的に受注していたお客様から、今回加工品でかなりの量の注文が入ったとの内容でした。浦安鉄鋼団地のお客様で、板は板でもわが社が扱っている厚板ではない品種を専門に扱っている、所謂仲間先です。取引を開始したのは数年前のことです。

私としては、今まで小ロットの取引が今回大量の受注に至ったのか、単純にその理由を知りたい気持ちになりました。営業部長に尋ねたところ、正直にその背景は良く分からないとのこと。そこで、部長が後日そのお客様を訪問することになりました。

「従来取引がある加工業者に打診したところ、忙しいので断られた」「当然梶さんは知っていたけれど、そこで上司に相談したところ、梶さんだったらきっと何とかしれくれると後押しをされた」。大よそ、そのような話を発注担当者はしたそうです。

東鉄連には、例えば形鋼だとか薄板だとか品種別に部会があり、わが社は厚板部会に数年前から参加することとなりました。その会社の、後押しをしてくれた上司とは、わが社の部長は、厚板部会で顔を合わせる機会が生じました。

その会社は浦安の商工会議所の古くからの会員です。或る人を介して、浦安への入会要請があり、わが社は江戸川を退会して、浦安の商工会議所に所属しました。その旅行でも、その会社の上司と、わが社の部長は一緒になったこともあったのです。

“人は情報によって行動が変わる”という話しを、最近耳にしました。その会社の担当者は、当てにしていた一軒目で断られて、わが社以外のところに聞いてみる選択肢もあったのでしょうが、たまたま上司に相談した、その言葉で行動が変わったのでしょう。

一方わが社の部長は、大量に注文を受けた背景の情報を入手するまで、つまり自分が作った人間関係が要因であったことを、知らなかったことになります。 ~次回に続く~
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雪掻き

2014年02月15日 10時14分42秒 | Weblog
先週の週末、関東地方は記録的な大雪となり、これ程の大雪は45年振りとのことです。その時とは昭和44年、私が高校受験の最中で、第一志望校の前日のことでした。父に連れられて江戸川葛西から都心に出て、簡易ホテルに前泊し、事なきを得ました。

その様な想い出はさて置き、大雪で悩ましいのが通勤や雪掻きです。今回も10日の月曜日朝は、前日から雪は止んでいたものの、道路の凍結などの交通障害は残りました。私の住んでいる市川の住宅街は、幹線から一歩入るとかなり雪が路面に残っていて、車通勤を諦めました。

歩きと、電車とバスを乗り継いで出社しました。慣れないもので、乗り継ぎの要領も悪く、JR京葉線は朝の時間帯であっても本数は少なく、早く家を出たつもりが会社に着いたのは8時ちょっと前でした。

そこで見た光景は、社員が雪掻きをしていまいした。男子社員ほぼ全員、営業も業務も製造も、雪掻きをしていたのです。それも全員がスコップを持って。そうです、去年の60周年の出し物で使ったスコップ三味線の、そのスコップを手にしていたのです。

こんなところで役に立つとは、思ってもみませんでした。何が嬉しかったのかと言いますと、スコップが全員揃っていたことではありません。誰から言われた訳でもなく、嬉々として一体となって、自主的にやっていたことです。

以前この様な状況の時は、バラバラでした。早く来ている人もあるし、渋滞に巻き込まれて遅くなってしまう人もあり、雪掻きを自主的にやる人もいるし、言われたからやる人もあり、決して一体感があった訳ではありません。

そんな中で私はと言うと、誰よりも早く出社して、社員に命令はしないものの、率先して雪掻きをしていました。遅れて来た幹部社員には、もっと前日から準備して、工夫して来るべきだと、遂に小言を言ってしまったこともありました。

一般社員にはそこまで言わないまでも、誰が献身的にやっているのか、チェックしている自分もあったのだと、今正直に振り返っています。何とまあ、厭らしい自分です。

社員にとってみると、その社長の姿こそが威圧になって、やる気を削いでいたのです。遅れて行って、皆の雪掻きのその光景を見て、コペルニクス的転回に到達しました。
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業界団体の仕事(その2)

2014年02月08日 09時08分19秒 | Weblog
前々会長の時に、私は会長の補佐役をしたことを前回書きました。本来副会長という役職でしたが、私の父の「外の団体の長になってはいけない」との教訓(副会長でも長が付く)が心に残っていて、“書記”という肩書を無理に作ってもらって就任した経緯があります。

平成8年3月に江戸川鉄栄会の創立30周年記念式典を、浦安のホテルで挙行しました。企画準備から始まって当日の運営まで、多くの時間を費やして貴重な経験を致しました。その翌4月に前々会長は、先述の問題も発生していて、前会長の纐纈氏に代わりました。

そこで私は書記であった役員を辞任して、以来10年は江戸川鉄栄会とは距離を置くこととなります。この10年間は、会員会社の社長の世代交代や廃業による退会も続き、僅かではありましたが新規入会もあった頃で、鉄栄会自体も変化していた時代でした。

そして8年前です。私に会長の声が掛かるとは思ってもみませんでした。前会長と副会長が何回か私のもとへ来られ、懇願されました。ある方にこの会長職を受けてよいものかと悩みを打ち明けたところ、そこまで頼まれ拒むのは義に反するのではと言われ、腑に落ちるものがあり、お引き受け致しました。

東鉄連の傘下には、江戸川鉄栄会の様な地区団体が九つあり、その会長は東鉄連の常任理事長となり会の運営に関わります。地区や規模や扱い品種が違っていても、同じ鉄鋼流通業界の経営者同士であり、広く業界を知る上でも大変得るものがありました。

東鉄連を運営して行く上でも、他の理事からは、物の考え方や感じ方では学ぶものが多くありました。またそこでの出逢いも私の無形の財産となりました。先代の教訓は破ってしまう結果となりましたが、破ってこそ学ぶものがあることも体験しました。

「本来修めることをしっかりやれ。他もやるなら何事も手を抜かずに真剣にやれ」。先代のさとしを、そのように今では解釈をしています。

私自身の江戸川鉄栄会での会長職も、もそろそろ世代交代する時期となって来ました。何年か前から役員にはその意向を伝えていますが、私の持って行き方も悪かったのか、後任者は未だ明確にはなっていません。

前会長の気持ちが良く分かります。立場が変わって、今分かることがあります。

(先週の江戸川鉄栄会新年会にお呼びした、ものまねタレントKUMAさん)
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業界団体の仕事

2014年02月01日 09時53分36秒 | Weblog
江戸川鉄栄会の会長を仰せつかって、気が付けば四期8年が過ぎようとしています。私がお引き受けしたのが53歳の時だったことを考えると、この8年の長さを感じます。また、この間のわが社や業界の変遷も重ね合せると、感慨深いものあります。

前会長は五期10年を務められました。自ら望んで続投をされたのではなく、後継会長が定まらなかったのが、その長い任期となりました。何人かの方には、次期会長の話しを持っていかれましたが、その努力が報われず、受け手が現れなかったのが実情でした。

私は前会長が就任する時に、つまり18年前、何年かやっていた江戸川鉄栄会の役員を降ろさせてもらいました。理由は、暫くは自分の会社の事業に専念したいとの思いと、当会を少し離れたい気持ちがあったからです。

前々会長の時は、私はその会長の補佐役でした。その前々会長はワンマンで、会を私物化しだし、一部の会員に迷惑をかけて、その会社は結局破綻しました。会長職を降りる直前の話しです。私はそれを早い段階で見抜けなかったのです。

私も前会長から、三期目と四期目が終わる前に、後継を要請された一人です。私がお引き受けしなかったのは、もう一つ理由がありました。私の父、先代の教訓じみた言葉でした。「自分の会社運営が大事で、それを全う出来ないのなら、社外の団体の長等なってはいけない」。それが心に残っていました。

創業者である先代は、外で気を使って頭を下げるようなことは、実際嫌いだったと思います。しかしこの江戸川地区で、スケールやスクラップから端板販売に進出して、わが社の販売先等が入会していた当会からのお誘いには屈しきれず、昭和50年代に入会を致しました。

一時期は、私の弟が当会の役員となって、会計の仕事等のお手伝いを致しました。当時は会のメンバー会社も、創業社長が多く、会としての意見の調整なども苦労した時期です。会長職も役員の互選で決まらず、仕方なく選挙で決めていた時代です。

そしてわが社は先代が他界して、私が別運送会社から戻り梶哲商店の代表となり、当会から役員の要請がありました。私としては、長年当会に所属している以上、何かする義務も感じていましたので、役員をお引き受けすることとしました。そして前々会長の補佐役となったのです。   ~次回に続く~
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