梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

大企業の傘下(その1)

2019年01月26日 09時31分53秒 | Weblog
一月にあった3連休の中日のことです。その日は日曜日、休みでも会社に行くかもしれない私に、夕方6時は家に居てもらいたいと家内より言われていました。自宅の屋根及び外壁塗装の見積を持って、業者の営業が来るので、私も立ち合って欲しいとの家内の依頼です。

我が家は築30年です。自宅を建ててもらったハウスメーカー会社のグループ企業、リフォームとメンテナンスの業者が一週間前に訪れ、定期的な塗装やメンテを行なうことを提案されました。女性の担当者が、その見積書を持参して自宅に来るとのことでした。

今回は屋根がメインです。シリコン仕様150万円(15年耐久)、フッ素仕様200万円(20年耐久)、ステンレス折板屋根葺き替え250~300万円(今後メンテ必要なし)。事前にこのような概算見積をもらっていて、一番ランクが下でも、金額を聞けば気が滅入ります。

当日の約束時間20分前に、その彼女から電話が入ります。道路渋滞で15分ほど遅れるとのことでした。それは仕方がないと思いつつも、家に迎え入れます。たまたまその日は、高崎から次女の家族が自宅に来ていました。娘婿と孫2人を連れて、翌日ディズニーに行くとのことで。夕食はその商談が終わってからでした。

そして打合せが始まります。事前に下見して点検時撮っていた、何枚もの写真の説明から入ります。これが終わって既に30分が経過しました。実は13年前に、同様のメンテを、他の業者に依頼し実施していました(何故、他の業者にお願いしたかは後述しますが)。

その説明で気になったのは、何回となく、言葉は柔らかいのですが、他社に施工した仕事の不備を指摘することです。屋根の葺き替えをしても(一番高額な見積)、その相性の問題で補償は出来にくいニュアンスまで伝えます。彼女は熱心さ余って無意識でしょうが、他を落とし自分が優位に立つ話法を行なっています。

そして見積金額の話となりました。前もって一番安いランクの見積を提出してもらいたいと家内が話をしていましたが、提出された金額は税込みで150万円を超えています。当方の予算は、支払えても限りなく100万円に近いと返答します。どうしても必要の箇所に絞って、今回は削除してもよい部分の打合せとなりました。

ここで私はウオーキングする為、席を立ちます。ただし、「あなたのお話は、私達が以前他の業者を選択したことを何回も責められてように感じてしまう」と、その彼女に一言いって。長くても商談は一時間以内です。時間通りに来てもらっていれば、それから私はウオーキングしても、皆との食事は早ければ7時からスタートできたと思います。

私が最後まで立ち合わなくても、家内から後で聞けばいいので、7時ちょっと前に外に出たのです。結局彼女が帰ったのは7時15分とのことで、遅れて来たにも拘わらず、一時間たっぷり人の時間を占有してしまったことになります。孫が来ていること、打合せが終わってそれから食事をすることも、彼女は認識しています。

何故他社に以前メンテをお願いしたのか、です。今回のその会社の対応が硬直的であまり感じも良くなく(前回の担当者は彼女ではありませんでしたが)、その上見積もりも高かったので、同じようなハウスメーカーの他社に依頼したのです。

結局食事の開始は7時半を過ぎてしまいました。ようやく、久しぶりの大勢の食事となりました。8時過ぎ、何と、そこに彼女から電話が入ります。家内が電話に出ますが、中々電話を切らせてもらえません。 
 ~次回に続く~
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ムードメーカー

2019年01月19日 06時18分18秒 | Weblog
大学の山登りのクラブのOB新年会が、港区芝のホテルで行なわれました。現在OB(OGも含め)部員は約1000名、年会費を納めているOB部員は800名程です。高齢の方もいらっしゃり、春秋の日帰り登山や夏合宿やスキー合宿等の年間行事に参加できる対象者となると、大よそ5~600名となります。

そのような部員構成の中で、新年会は東京開催ですので遠方の人は来られませんので、それでも毎年100名前後の参加者となります。一次会も勿論盛り上がりますが、その後楽しみなのは近しい年代が集まる二次会です。芝大門にある居酒屋で、我々の代と一年先輩の代を中心に、今回は20名程が集まりました。

今回一年先輩で、久し振りの再会となる方が参加されました。二次会でたまたま前に座って、話が始まりました。家業を継いだ会社が最近事業転換したことなど、話が止まりません。ご本人は全く意識をされていないと思いますが、上から目線で何かを教えてやろうとの気持ちが伝わってしまいました。そうなると黙って聞いているだけで、苦痛になってしまいます。

昔業界の地区団体の、毎年一回行なわれていた役員懇親旅行に参加していた時の事です。温泉旅館へ一泊、バスで移動する男ばかりの旅行でした。参加者の中に、私よりも年上で毎回顔を出される社長がいました。

その社長は、写真等が多く載っている男の雑誌を毎回持参していました。普段親しくしていない社長同士も乗り合わせます。そのような旅行で、その雑誌を回しながら女性の話をし出しますと、固かった雰囲気が一変しました。男性は単純明快です、女性の話題は共通項です。

その方は、所謂ムードメーカーです。自分の視点から他者を見ていません。話すことにしても、話題を提供するにしても、他者の視点からどのようなことに興味があるかを常に意識しているのです。そうすると、最初は関心がなかった人まで引き込んで、ムードを変えてしまいます。

導入としての話題は、下品なものになるかもしれません。下品な話題が好き嫌いかでなく、その方はムードを一変するような関心事を探っているように思われます。その社長はどこかで勉強したのか、今までの経験則なのか定かではありませんでしたが、人を惹きつける術を身に付けていました。

例えば家族以外で、複数で外食をする場合です。無口な人が多いと、美味しい食事に集中はできますが、どうしても全体の雰囲気は暗くなります。そんな中で、積極的に何かの話題を提供して自ら話をしてくれる人がいます。そうかと言ってその人は食事に手を付けていないのではなく、場を取り持っておいて、その話題に追随して他の人が乗ってきて話し出したら、さりげなく食べています。

良いムードを醸しだせる人を、私は見習いたいと思います。久しぶりに逢って、近況を懇切丁寧に説明してくれようとした先輩には頭が下がります。しかしながら、自分の考えや価値観を一方的に話すようになると、聞く側からしたら面白くなく興味も湧かないとことを、私自身も留意しなくてはなりません。

また、男同士の旅行ならまだしも、砕けすぎて話題が一定のレベルまで上がらないと、単なる無駄話となることでしょう。そのバランス感覚は大事だと感じています。
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監督の在り方

2019年01月12日 06時38分18秒 | Weblog
「過去最高のチームに仕上がった。穴がない」「正しい知識と正しい手順を踏んでいけば学生を成長させることができる。青山メソッドを作り上げることができた1年だった。その完成をお披露目できたら」。これは去年末、新聞のスポーツ欄に箱根駅伝特集が組まれ、そこで青学大・原監督が語っていた言葉です。

新聞の前評判でも、「青学大V5へ最強布陣。選手層に厚み、監督も太鼓判」との見出しでした。ところが往路が終わった翌3日の新聞には「最強青学大まさかの6位」の文字が、そして復路が終わって総合優勝杯を手中にしたのは東海大であり、青学大の連覇は達成できませんでした。

同じく番狂わせがあったのが、ラクビー全国大学選手権です。10連覇を目指していた帝京大が、年末に行なわれた準決勝戦で7対29と天理大に大敗します。「帝京大の連覇は意外な形で途切れ、決勝戦にすら進めなかったという結果は、内容の面でも完敗だった」。新聞の記事にはこのような酷評が載りました。

“栄枯盛衰・盛者必衰”は世の常と言われます。良い時と悪い時というのは繰り返すものであり、どんな勢いがある者も必ず衰えてしまう時がくる、という歴史の理でもあります。駅伝もラクビーも団体競技であり、大学であるがゆえ1年毎にメンバーも入れ替わり、個人競技とは違いチームの強さを維持するのは難しい局面はあります。

青学大の原監督は連覇を重ね、2~3年前からテレビ等に出る回数が急に増えました。マスコミに登場すれば、どうしてもその成果を語らざるを得ません。監督自身も努力家で、サラリーマン時代に身につけた自己管理のノウハウがチームに大きな変化をもたらし、奥様は陸上競技部の寮母として連覇を影で支えたことも、紛れもない事実です。

帝京大の岩出監督も優れたリーダーで、連覇の秘訣の記事を、以前読んだことがあります。監督に就任して10年は勝てず、当時はトップダウンで駄目な部分を厳しく指導をしていたそうです。その後色々な気付きや切っ掛けがあり、押さえ込まず個人自らが考えることを優先して、4年生が雑用等して下級生を支えるユニークな組織に変革させました。

“善戦者之勝也、無智名、無勇功”これは孫子の教えです。戦い上手な者は目立つような勝ち方はしないで、知恵者だとか勇者だとか褒められることはしない、との意味です。むしろ、誰にも気づかれずに、何の功績も努力もないような形で勝つ勝ち方が、本来は素晴らしいのだと言っています。

“能ある鷹は爪を隠す”これに通じるものがあります。名前が知られたり、能力があることがライバルに分かったりすると、相手もそれ相応の用意や準備をするので戦いは厳しくなります。「連覇に土台となった科学的な体力強化、下級生が話しやすい組織づくりは他校も追随。大学全体のレベル向上につながった」とは、ラクビー選手権に準決勝で敗れた帝京大への翌日の新聞評です。

一方、箱根駅伝で総合初優勝を飾った東海大の両角監督です。勝利して胴上げをイメージして17キロ減量したと言われていますが、監督は表向きには自分の健康管理の為と言明しています。学生にプレッシャーを掛けない配慮が垣間見られ、学生はそんな監督の為ならと頑張ったのではないかと、私は解釈しています。

それでも青学大は2位を死守しました。天理大に負けた帝京大の岩出監督は、「天理が強かったとうのが全て」と、潔い言葉を残しています。スポーツ界の監督の在り方から、経営者も多くを学ぶことがあります。
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30年の歳月

2019年01月05日 06時33分55秒 | Weblog
新年明けましておめでとうございます。引き続きこのブログを読んで下さいまして、ありがとうございます。本年も変りませずよろしくお願い致します。

昨年末頃から、「平成最後の○○」との言葉が盛んに使われています。本年4月30日に天皇陛下は退位され、翌5月1日に皇太子さまが新天皇に即位されます。天皇の退位は江戸時代の光格天皇以来200年ぶりとのことで、そのような言葉が使われるのも、平成が後四ヵ月で終わることが明らかになっているからに他なりません。

正月2日に行なわれている一般参賀に、私は8年前に参列したことがあります。多くの参賀者は宮殿の広大な東庭に誘導され、そこは長和殿のベランダの前です。そのベランダに天皇陛下は立たれ、国民の一人ひとりが良い年になるようにとの願いと、世界の人々の安寧と幸せへの祈りを表明されました。感動的だったのは、多くの参賀者に最後まで陛下が手を挙げてお応えになっていた姿でした。理屈抜きに、私達日本人の心の中心に天皇があることを体感できました。

今年2日の平成最後の参賀には、最多の15万人が皇居に入場したそうです。戦争があり激動の昭和から時代は遷り変わり、決して平らかではなかった平成も終わりを告げる。時代の節目を天皇と共有し、平成を惜しむ多くの人々が皇居に足を向わせたのではないでしょうか。

わが社と私においてもこの30年間は、幾多の苦難が続きましたが、今となればとても意味があった時代です。平成元年は、日本のバブル経済の絶頂期でもありました。日経平均株価が最高値を付けたかと思うと、翌年から坂をころげるように下がります。株式市場と並んでバブルが膨らんでいた不動産市場も、崩壊が始まりました。鉄鋼業界においても変貌を強いられます。30年前の当時と30年後の現在を、その変化を簡単に書いてみますと以下のようになります。

先代(私の父)が存命でしたが、平成2年に他界して急遽私が引き継ぐことになり、29年が経過しました。商売も当時は鋼板の素材販売とスクラップ加工を営んでいまいしたが、現在は鋼板加工がメインとなり素材販売は当時の数量から三分の一程に激減しました。営業所も江戸川区葛西であったのが、千葉県浦安市に移転集約しました。

個人的なことで言えば、当時幼い娘が2人いましたが、今はそれぞれ嫁ぎ子供を授かっています。平成5年に長男が生まれ、現在25歳になる息子はわが社に入社しています。身近な生活で言えば、当時携帯電話すらなかったのが、今や便利なスマホを手にして暮らしの習慣まで変えようとしています。

ではこれからの30年はどうなるのでしょうか。正月の新聞ではAIの特集が組まれています。平成初期に普及したインターネットは人類にサイバーという空間を作り出し、今のスマホの性能は当時のスーパーコンピューターを大きく上回り、人類歴史上でもこれまでの30年のテクノロジーの変化は急速だったが、これからの30年でさらに加速し、今後AI経営を導入出来るかどうかが企業の明暗を分けると言われています。

わが社の溶断加工の技術や営業のノウハウもいずれAIに置き換わり、独自性を失う可能性もありますが、AIの及ばない人間性の分野を極めなくてはなりません。

天皇陛下は二年前に、身体の衰えを考慮し、全身全霊をもって象徴の務めを果していくことが難しくなったと、退位の意向を示唆されました。私においても今後の30年の内、極力早くに、余力を以って代替わりする時期にさしかかっていることは確かです。
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