梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

福島の友人を訪ね(その2)

2011年08月27日 10時01分36秒 | Weblog

前出の写真は南相馬の海岸で撮ったものです。海岸にある松は、津波が引いて行く際に瓦礫でもぎ取られ、ある一定の高さ以下の枝が全くありません。そんな松と無残な瓦礫が、静寂の中で、津波の恐ろしさを物語っています。今回の写真は原町火力発電所のものです。やはり津波により甚大な被害を受けて、現在も復旧の目処が立っていません。

原町の街は、海岸線から3キロほど内陸にあり津波の被害も無く、地盤も強く殆ど地震による家屋の被害はありません。彼の実家も店舗も大丈夫でした。幸いにも近い身内では、怪我をしたとか亡くなった方もいませんでした。

三年ぶりに再会した彼は元気に振舞ってくれました。家族も無事で自宅やお店も残り何とか生活はしていける、ただし原発の不安が払拭せず家族もバラバラで将来の不安は絶えることは無い、と心情を吐露してくれました。「この歳で何が起こるか分からない。人生って何だろう」とは、彼の本音です。

ポケット線量計を彼は常に持ち歩いていました。二時間半の原町滞在中、それを私達に貸してくれました。街の中心地から車で南下して原発に近付くと、すぐそこは立入り禁止区域となりますが、その計測器は正確に高い放射線量の値を示しました。

帰り東北自動車道に出るのであればと、最短の道があると、分かりやすい分岐点まで、彼は車で先導してくれました。これから先の私の車の燃料まで気にしてくれて、何回もその先の道を説明してくれました。いつか必ず東京に出て来てもらい、仲間と再会することを約束して彼と別れました。

友人を通してこの大災害の凄さを刻みました。正直言って、被災地の惨状を野次馬的な気持ちで見てみたかった下心もありました。しかし友人と会ってそんなものは吹っ飛びました。実際に現地に行って、そこで自分の目で見ないと感じないものがありました。

帰り道のこの県道12号線は、報道でよく出てくる飯舘村を東西に横切る道路です。通行止めではないのですが、この地域は計画的非難区域で、基本的には住民は住めない所です。こんな場所もしっかり見て行ってもらいたいと、友人の意向が伝わってくるようでした。
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福島の友人を訪ね

2011年08月20日 06時18分17秒 | Weblog

お盆の休み中、私の家内の実家山形県酒田に、義理の両親の墓参りに行って来ました。毎年この時節には、酒田には家内と一緒に行くのですが、今回はその帰り道にもう一つ立ち寄る目的地がありました。

それは福島県の南相馬に居る私の友人を訪ねることでした。その友人とは大学時代のクラブ、ワンダーフォーゲル部で同期だった人です。この度の東日本大震災では、勿論南相馬市も大きな被害を受けました。

その彼とは震災直後は連絡も取れませんでしたが、ようやく一週間後に携帯電話が通じ、身内も全員無事で、同じ福島県の会津若松に住んでいる一年先輩の処に、家族共々非難していることが判明しました。

その後早い時期に、彼は一人で南相馬に戻り、家業の酒屋を復興させようと奔走することを始めました。この5月には同期皆で、その彼に義捐金を送ったりもしました。気にはなっていたものの、月日はあっという間に流れてしまいました。そこで先週、酒田の帰りに行ってみようと決め、彼に連絡を入れました。

彼が住んでいる南相馬市原町地区は、東電福島原発の事故で緊急時非難準備区域となっており、万一避難命令が出た時は退去しなくてはならないとのことです。その関係で殆どの就学の子供や老人は、他地区に非難したままです。

実際彼の家族も現在は、この原町地区に本人とお母さん、隣の相馬市に高三の長女、会津若松市に奥さんと高一の長男、と三重の生活を強いられています。

震災直後は、南相馬市で七万居た人口が一万まで減ったそうです。昨今やっと三万後半まで戻ったものの、大手の企業が放射線の問題で県外に流出してしまい、元の人口にはとても戻らない状況のようです。従って市の経済も極度に停滞したままです。

そんな中での、彼の商売です。本業の酒屋さんと、奥さん名義のコンビニを現在営んでいます。酒屋さんの方は苦戦しているそうですが、コンビニは地元でやっているところも少なく街の中心地でもあり、繁盛しているとのことでした。その言葉通りで、そのお店で彼と日中再会したのですが、頻繁にお客さんが出入りしていました。       ~次回に続きます~
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社員との面談で

2011年08月12日 11時18分35秒 | Weblog
前々回『タクシーに乗って』と題して、タクシーの運転手さんにこちらから積極的に話し掛けることについて書きました。この様なことを宣言しておきながら、この間話し掛けることをしませんでした。

その言い訳です。見た目その運転手さんがいかつく見えました。最寄りの駅から自宅までと距離が短かった。そして私は疲れていました。そんなことで、行き先を告げてからタクシーを降りるまで互いに無言でした。

降りる時に勘定のやりとりをした際、その運転手さんは実に愛想良く対応してくれました。人は見掛けで判断してはいけません。自分で都合を付けてやろうとしたことをしないのもいけません。何となく自責の念にかられました。

今私は全社員と一対一の面談を行なっています。6月に前期の人事考課が一通り終わり、その評価をもって社員と面談をしています。その成績評価だけに終始せず、それ以外の話しも極力なされるように心掛けています。

従来、私も二次評価者として中間管理職の人事考課をしていました。しかし現在幹部以外は評価をしていませんので、殆どの社員は私に直接評価されることは無くなりました。こんなことを契機に、社長と社員とのフラットな会話がなされればと考えています。

とは言ってもいきなり理想的な会話が出来るとは思っていません。最初は私の方から呼び水をして、後は社員から話したいことや思っていることを一方的に吐き出してもらうだけでもよく、そんな時は聞き手になります。

先々は社員の夢なども語ってもらい、生き甲斐や働く意味なども話し合えて、その実現の為に会社に於いて各人の目標を達成するような、そんな手伝いが私に出来ればいいなあと思っています。いずれにしても減点方式の人事評価では無くして、やった仕事について社員から進んで評価を受けたい、そんな考課制度にしたいと願っています。

タクシーの運転手さんとの話しも、目線をいつにせずして盛り上がることはありません。自分の都合だけで話し掛けたりしなかったり、それは伝わるものです。社長と社員との話し合いも、通じるものがあると思いました。
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携帯電話を換えて

2011年08月06日 07時27分42秒 | Weblog
会社で使っている携帯電話を換えました。使っていない電話を整理したり料金設定で有利だったりとのことで、この度総務経理部の判断で契約先を変更しましたので、従って機種が変わり新しい携帯電話を支給されました。

私は個人では携帯電話を持っていませんので、これを代用させてもらっています。新しい機種もようやく慣れてきた頃、会社より古い携帯を回収したいとのことで、先日手放しました。

その時不思議な感じを覚えました。古い携帯を、それ以前まで便利よく使っていて愛着すら覚えていたのですが、それは魂が抜けたような、ただの物体と化していたのです。

携帯電話を使い始めて何回機種を換えたことでしょう。水の中に落としてダメにした、新しい機能やツールが増えたので、今回の様に契約先を換えるからと、その度に新品に交換して来ましたが、昔の機種の形や画面表示はもう記憶にありません。

新しい携帯はより機能アップにはなりますが、頻繁に取り替えることは、物を大切にする心が奪われてしまう様に私は感じます。そんな中、かなり古い携帯を持っている人を発見すると、何故か私はホッとします。

昔の道具はシンプルで長く使い込むことが基本で、そこから物に対しての愛着心や、物を大切にする精神が育まれたのではないかと思われます。今の携帯電話は、人々があまりにも商業ビジネスに踊らされていて、使い捨てが当たり前の風潮を生み出している。そんな気がしてなりません。

だからと言って固定電話しかなかった時代まで無理に戻す必要はありませんが、考えてみればそれなりに当時でも経済は立派に成り立っていたはずです。瞬時に連絡が取れない不便さを、その時間と空間の隙間を、人間の知恵や努力や感性で埋めていたのではないでしょうか。

一年前から私は時計を持ち歩きません。それは革ベルトが壊れたのがきっかけですが、正確な時間は携帯電話を開けば分かります。しかし今何時か、最近は大きな誤差も無く見当が付く様になりました。感性が鍛えられて来たと言うことでしょうか。
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