梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

矢沢さんを悼んで(その3)

2012年03月31日 10時57分53秒 | Weblog

その矢沢さんを尋ね、私と弟と二人で中米グアテマラの首都グアテマラシティーに、5泊程滞在しました。その間氏は私達のアテンドに多くの時間を割いてくれて、時間が経つにつれ、すっかり打ち解け、色々な話をしてくました。

最初にニューヨークに渡って現地採用で三菱商事に勤めたこと。アメリカ娘と恋をするも失恋したこと。商事での仕事でグアテマラとの関係が出来たこと。そのグアテマラの魅力に取り付かれて住みつき、そしてスペイン人の奥さんと結婚し三人の息子が出来たこと。

現在の中米がスペインの植民地時代に、その総督府が200年間あった、古都アンティグアに小旅行をしました。日本でいえば京都です。その時代に建てられた多数の教会の遺構で知られていて、世界遺産に登録されている美しい街でした。

自宅に招かれ奥様の手料理をご馳走になりました。とても美人で気さくな奥様でした。自宅の敷地はとても広く、別棟で立派な迎賓館風の建物があり、ビジネスで使うことも多いとのこと、氏のお持て成しの心が伝わりました。

グアテマラは、まだまだ貧富の差があり、治安もけっして良くありませんでした。街中のガードマンは全て銃を携帯しています。氏もピストルのライセンスを取得して、外出時は常に持ち歩いていました。

氏の本質はやはり武道家です。顔付きは穏やかですが、いつも冷静にものを捉えている目でした。日本で昔化粧品のCMで有名になった、野性的な俳優チャールズ・ブロンソンに似ていると、いつも弟は言っていました。

今回の事件は本当に悲しい出来事です。複数の強盗に襲われ、車の中で逃げ場も無かったのでしょう。ピストルを持ってたであろう氏は、当然抵抗をしたのでしょう。

しかし同乗者が助かっているのですから、お金を捨てれば命は助かったかもしれません。故人には酷な話しとなりますが、その強さが逆に弱さになったのかもしれません。グアテマラの矢沢文夫さんに、心よりご冥福を祈ります。
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矢沢さんを悼んで(その2)

2012年03月24日 06時13分46秒 | Weblog
氏との最後は三年前と書きました。実は氏は去年来日していて、時間が取れれば会うことになっていました。しかし忙しかったのか、連絡も無いまま帰国しました。事前に連絡をもらっていてこのようなことは初めてです。

頻繁にメールの交換をしている訳でも無く、私は他意も無いまま、連絡をしてみなくてはと思っていた矢先、今回の事件です。去年会えなかった時に、氏らしくないなあ、おかしいなあと思ったのは、やはり虫の知らせでした。

そんな氏と出逢ったのは今から15年前、六本木のパブです。氏のグループは三人、私は弟と二人でした。氏は、日本の総合商社と大手コーヒーメーカーから接待を受けていたのです。

人間好きで何事にも興味旺盛の氏は、接待している二人をよそに、私達に話し掛けてきました。意気投合して名刺を交換して別れました。当時は未だEメールもそれ程盛んでない頃、帰国した氏とはFAXで何回かやり取りを続けました。

そして次に来日した際、再会をしました。首都グアテマラシティーで、主に日本を対象にコーヒー豆の輸出や機械類の輸入業務をしたり、地元ではショッピングセンターのテナントを供給したり、手広く商売をされている実業家でした。

宵越しの金は持たないそんなラテン系の気質が自分は大好きで、グアテマラの経済は日本の高度成長時代の初期に似ていて、これからだ。中国人や韓国人に比べると日本人は少なく、現地では日本人に対する評価は高いものがある。

このところ日本の先行きに嫌気をさし、蓄えたお金を持って移り住む邦人も多い。生まれ育った日本も母国だが、ビジネスチャンスを沢山与えくれたこの国も第二の母国だ。氏はそんな熱い想いを数々語ってくれました。

私は何時しか、地球の裏側にある、そんなグアテマラという国に憧れていました。そして一度行ってみたい、そんなことも氏にメールで伝えていました。

ところがそれをなかなか実行しない私に、「ミスター梶は、嘘つきだ!」と詰め寄ってきたのです。そして弟と二人でグアテマラ行きを決意しました。今から10年も前のことです。 (次回に続きます)
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矢沢さんを悼んで

2012年03月17日 10時23分50秒 | Weblog

中米のグアテマラに永住している邦人と、日本で知り合い、そしてその方に誘われ私と弟とがグアテマラまで行ったことを、このブログ上で過去に紹介したことがあります。

先週の土曜日10日、日経新聞朝刊の社会面を何気なく眺めていたところ、『グアテマラで邦人撃たれ死亡』との記事が目に入ってきました。私の心の中では「ああ、あの矢沢さんがいる国で邦人が殺されたのだ・・・」程度の受け止めでしたが、名前が出てきて、その瞬間目を疑いました。

何回も読み直し、またインターネットも見てみて、あの矢沢さんが強盗に襲われ亡くなったとの認識に至りました。ショックと言うよりは、矢沢さんとの思い出が溢れてきて、暫らくは呆然自失の状態でした。

インターネットで詮索してみると、矢沢さんは直前に銀行の現金自動預払機に立ち寄ってお金を引き出しておりこの時点から狙われていた可能性や、1994年当時16歳だった矢沢さんの息子も銀行を出たところを強盗に襲われ死亡している、などの記事も見つかりました。

矢沢さんと最後にお会いしたのは、三年前の2月です。日本に出張に来ていて、やっと時間が取れたと連絡が入り、上野の定宿にしているホテルに迎えに上がりました。今回初めて会うことになる、家内と二人で。

そしてタクシーで浅草に向かい、私の知っている寿司屋に行きました。翌日は帰国するハードスケジュールの中で、矢沢さんは饒舌に話をしてくれました。今回は、両親共に亡くなっている実家に立ち寄って、遺品などを整理したとのことでした。

矢沢さんの御父さんは機械を扱っている会社を経営していていましたが、氏は後を継がず、空手で身を立てたいと、米国に渡ったのが三十歳前半です。それからグアテマラに移り住みついて、ゼロから今の基盤を築いたのです。

その会食の際矢沢さんは、「今度は是非夫婦で遊びに来て下さい。家族で歓待します」と、本当に気さくに声を掛けてくれました。その笑顔が最後でした。  (次回に続きます)
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あれから一年

2012年03月10日 07時43分43秒 | Weblog

3月7日付日経新聞夕刊に、“首都直下 震度7も/23区東部など被害想定見直しへ”と題し、『文科省のプロジェクトチームは、首都直下を震源とする「東京湾北部地震」で、従来の想定を上回る震度7の揺れが首都圏の一部を襲う可能性があるとの分析結果を公表した』そんな記事が載っていました。

『最新の観測網により、震源となるプレート(岩板)の境界面が従来予想より約10㎞浅く、東京湾北部では海底の20~30㎞下にあると判明。地震の規模が同じでも揺れが大きくなることが分かった』と、記事は続いていました。

「東京湾北部地震」とは政府の中央防災会議が想定する18種類の首都直下地震の一つです。23区東部とは正にわが社の在る浦安市でもあります。浦安は液状化問題の上に、震度の上ぶれに伴う被害が更に大きくなると言うことなのでしょうか。

この記事は冷静には受け止めたいとは思います。がしかし、そのような規模の地震が実際起こったとしたら、ここに居る限り建物や設備の被害は避けられるものではありません。

あれから一年が経とうとしています。わが社の敷地にも、その爪痕が残っています。倉庫の出入り口前のアスファルトは、一部はつったままで補修をしていません。地震の再来を想定しているからです。

特にわが社が在る浦安市千鳥は、電信柱も未だ傾いたままです。新しく真っ直ぐな電信柱はその脇に立ったものの、何故か傾いた電信柱はそのままの状態で、放置されています。時は過ぎて、他の浦安地区では去年の地震は忘れかけたかのようですが、この地域はそんな風景が残っています。

近い内にわが社では全社員が参加して、大津波を想定した避難訓練をする予定です。懇意にさせてもらっている得意先で、同じ千鳥に高い建物がある会社が在り、そこへ非難する訓練です。

その後会社に戻り、ストックしている非常食や飲料水も実際食べて飲んでみて、防災グッズも再点検してみるつもりです。備えあれば憂いなし、忘れかけた災害時の心構えの点検もしなくてはならないと思っています。
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自分の音を見つける

2012年03月03日 09時39分43秒 | Weblog
わが社は長年に亘り葛西が所在でしたが、7年前新たに浦安の土地を取得しメインの営業所を移転し、そして去年他の営業所も全て浦安に集約しました。

東日本大震災からほぼ一年が経とうとしています。地震は、最後の営業所の成田工場を移転集約している時に発生しました。浦安地区の液状化により、わが社も被害を受けました。お隣の江戸川区葛西に会社があったなら、このような被害は避けられたのかもしれません。

映画『カルテット』を観ました。浦安市は平成23年に市制30周年を迎え、その記念として、企画して準備を進めていたのがこの映画です。その最中に東日本大震災が発生し、市域の8割が液状化の被害を受け、その続行制作も一時危ぶまれました。

しかしその一ヶ月後にクランクインとなり、被災した市民を含め700名がエキストラ参加して市民が一丸となって、今年完成させました。ロケ地も殆どが浦安で、通りや町並みやホテルや鉄道や海岸など、いずれもが見覚えのある風景。映画に協賛をした、浦安鐵鋼団地協同組合の会館も登場していました。

浦安に住む家族四人は、元々クラッシックを演奏する音楽ファミリーでした。両親は音大出身で父がピアノ、母がチェロ、今は高校生の姉がフルート、そして中学生の弟がバイオリンと。

将来を有望視されているその弟は、音楽教室の先生から「自分の音を早く見つけなさい!」と言われているけれど、もっと上手くなりたい自分の音ってなんだろうと頭は音楽で一杯なのに、何故か集中出来ずにいた。理由は家族でした。

学生結婚して生活の為に音楽家の道を諦めた両親。その父が会社を最近リストラされ母がパートに出る。弟へのコンプレックスで音楽を投げ出し思春期も重なり学校でもドロップアウトの姉。音楽一家とは昔の話、家族は崩壊寸前。再び家族カルテットを結成して、クラッシック音楽で家族の絆を取り戻そうするのですが・・・。

映画はそんな筋書きでした。映画を観ている間、「私にとってこの浦安で自分の音を見つける」とは何かを、思い巡らしていました。
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