梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

歴史の見方・捉え方(その3)

2018年01月27日 06時13分18秒 | Weblog
前回偶然にも名前を挙げました西部邁氏が、そのブログを私が投稿した翌日、多摩川に飛び込んで自殺しました。西部氏は50歳代から独特の死生観を持っていて、自分の生の最期を他人に命令されいじくり回される病院死は嫌だと、周りの方にその思いを遺されていたと言われます。

長年持病の激痛と背中合わせに、自分の生き方の結末を常に考えていた、西部氏らしい亡くなられ方だと感じました。そのような出来事もあり、前回の二回まででこのテーマは終わらせようとしたのですが、付け足したいこともあり続けることにします。

日本の歴史で、私は戦国時代末期と明治維新に興味があると書きました。しかし戦国時代から江戸時代に入りそして明治を迎え、更に大正や昭和に至ったのであり、一つひとつの時代が断片的ではなく、大きな流れの中にあることは言うまでもありません。

しかし断片的ではないにしても、前の時代の反動のようなものが次の時代に現れます。違う言い方をすれば、前の時代と連続性を持ちながら、揺り返しのような現象が起こり、それが次の時代に繋がっていくのが、歴史の必定のようにも思われます。

その連続性が切断した唯一希な時期があったと、あの歴史小説家の司馬遼太郎氏は指摘しています。「昭和ヒトケタから同二十年敗戦までの、十数年は、長い日本史のなかでも特に非連続の時代だった。魔法にかけられた時代、別の国だったかもしれないと思わせる」と。

「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る40年間は、日本史の連続性から切断された『異胎』の時代であり、明治憲法下の法体制が、不覚にもはらんでしまった鬼胎(鬼っ子) のような感じがする」とも、表現しています。

歴史学者の磯田道史氏の著“「司馬遼太郎」で学ぶ日本史”を読みました。その第二章は「幕末という大転換期」、第三章は「明治の思想はいかに実ったか」、第四章は「鬼胎の時代の謎に迫る」。特に第四章に興味を持ち、上記はその本の中から拾ったものです。

明治維新は国民の国家を成立させ、日本を植民地化の危機から救い出す為に、一挙に封建社会を否定し、そして強くなり日清日露戦争にも勝利し、アジアで唯一列強へと駆け上がることになる。明治政府は三権分立を確立したものの、更なる軍備の近代化により、本来文民で統御される統帥権が、後々軍部独裁にまで変異した。鬼胎の正体はこれである、との司馬史観です。

「鳥羽伏見の戦いが、太平洋戦争を敗戦に向かわせる第一歩だった」と、やはり前回名前を出しました、鈴木荘一氏は喝破しています。明治の維新の戦いに、昭和期前半の大きな失敗が芽生えていた。司馬史観とほぼ一致します。

何故失敗を犯したか。正しく過去を見つめて検証をしないと、同じ過ちを繰り返す恐ろしさがあります。歴史を正しく見ることは、その教訓を学ぶことに他なりません。歴史は正に現在にまで生きています。

勿論私がこれまで書いてきたのも、また一つの見方でもあり、絶対ではありません。歴史も両面性で、真逆の見地からも見て、立体化していくことを心掛けたいと思います。
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歴史の見方・捉え方(その2)

2018年01月20日 09時33分49秒 | Weblog
前回このテーマで書いてからこの一週間、明治維新について教科書などで書かれている歴史とは異なる説を、インターネットで検索して調べてみました。やはり、多くの新説や異説は出てきます。

鈴木荘一という方が“明治維新の正体”を著し、その出版記念講演の動画を観ました。「歴史の教科書には、無為・無策で統率力が無い幕府に対し、薩長の若い志士が立ち上がって維新を成し遂げ、西南の役でそれが確立する。などと書かれているが、これは大久保利通寄りの人たちが下書きした、大久保利通一代記だ」と、厳しい指摘をされています。

西悦夫という方が、“新説・明治維新”をテーマにした、講演録の要約を見つけました。やはり学校で習った歴史を否定した上で、「維新については日本では神格化しているが、明治の御用学者の造った神話であり、実態はそれほど綺麗ごとではない。維新はイギリスが日本を手なずけるアジア戦略の一環であり、その裏の金が動いている」、との主張です。

鈴木荘一氏は長年銀行に勤め、退職されて作家となり、現在「幕末史を見直す会」の代表です。鈴木氏は、“明治維新は何だったのか”との西部邁氏や加瀬英明氏などが登場する、テレビの討論番組にも登場していました。西悦夫氏は、スタンフォード大学フーヴァー研究所の教授です。去年私は、西氏の講演をたまたま聴く機会がありました。

鈴木氏は水戸学(以前私が学ぶ機会があったと、前回書きましたが)を研究されているようです。鈴木氏の考えや活動などを今回接してみて、西氏とは去年実際にお会いしていますので、従いましてこのお二人は私にとってもかけ離れた存在ではなくなり、その明治維新の説については私なりに納得しています。

今までの定説の史実自体が、勝利者側の記録書であるとか、御用学者のような時の政府におもねる偽説だとは、従来からかなり言われてきたことです。だからといって、教科書を書き換えようとしないのも、学校教育で歴史を伝えていく実態です。

歴史の教員らで作る研究会が、高校の日本史や世界史で学ぶ用語を今の半分の1600語ほどに減らそう、との提案を去年まとめまたした。用語は1950年代の三倍弱にも増え、先生は教えきれず、生徒の方も暗記を嫌って敬遠する。これらが理由のようですが、削除案には、曽我馬子、新撰組、坂本龍馬も含まれるそうです。

私自身も歴史に興味を持つようになったのは学校時代ではなく、40代後半からでしたが、歴史のヒーローや悪役に導かれ歴史に関心を持つ生徒もいるはずです。興味や学びの好機を逸することになりはしないかと、不安は残ります。

よく考えてみれば、後世に残そうとする歴史は、描く人のそれぞれの私見がはいることは免れません。立場、強弱、贔屓、意図、裏付け、などの視点が違えば自ずと描き方が違ってきます。歴史の見方・捉え方についての私の結論は、「自分で調べ学ぶ」です。掘り下げていけば、見えていない視点も発見し、史実に近づくことは可能です。

大河ドラマの“西郷どん”が、いよいよ楽しみです。これは本来の歴史を忠実に再現しているのではなくて、歴史小説の分野だと思います。それを踏まえた上で、西郷隆盛像を捉えていきます。
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歴史の見方・捉え方

2018年01月13日 10時34分42秒 | Weblog
1月からNHKの大河ドラマで“西郷どん”がスタートしました。2018年が、明治維新150年めであることから企画され、その維新の立役者である西郷隆盛を描いた作品です。NHKのドラマ上で、西郷隆盛がどのように描かれるのか楽しみです。

日本の歴史で、私は戦国時代の末期と明治維新に興味があります。政権が遷移する変革期で、登場人物も多才で、戦いも余儀なくされた時代です。歴史書は勿論のこと、歴史小説や、映画やテレビなどでも多く採り上げられ、様々に描かれています。

この二つの大変革期は、日本の近代に大きな影響を与え、現代の日本の国や日本人を形作っていることは確かです。江戸時代末期や明治維新については、一般的に知られていない出来事についても、興味を持って調べようとすれば私などでも可能です。

しかし私達の目が留まる範囲の書籍やテレビの歴史番組でも、つい150年前の史実が、何故か解釈が分かれます。更に言えば、今もなお明治維新の評価や、歴史上の人物の見方も定まっていないようにも感じます。

何年か前、江戸時代の水戸学の真髄についての講義を受ける機会を得ました。私の徳川慶喜の人物像がそれにより変わりました。徳川幕府の御三家の一つ、水戸九代藩主徳川斉昭の七男として生まれた慶喜は、徳川御三卿の一つ一橋家の養子となり、後に江戸幕府260年の最後の将軍となります。

戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、家臣や家来を残したまま、慶喜は大阪城を脱出して江戸城に帰着します。その史実もあり、慶喜は自ら言ったことを覆したり、幕末の動乱に翻弄されたり、ドラマなどでは優柔不断な人物として度々描かれます。

「慶喜には百の欠点があったとしても、長い日本の歴史においても特筆大書せられるべき一人で、大政奉還の決断は何人も出来なかった」。これは明治以降に活躍したジャーナリストで思想家の徳富蘇峰が、慶喜を評価した言葉です。

「もし朝廷と幕府と弓矢に及ぶとも、我等は幕府にそむくとも絶対に朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これ義公(水戸二代藩主光圀)以来の家訓なり」。父斉昭より、二十歳の慶喜が受けた教訓です。官軍の後ろ盾になった天皇には、絶対戦いを挑まないとの慶喜の自戒です。

慶喜ついては、以上のような事を学びました。どんな汚名を着せられようが、また何事も自分の手柄と自慢せず、皇国日本の存続を願った水戸藩の家訓に忠実に従った慶喜像が浮かびます。

佐幕派として巧みに和戦両様の構えで、江戸無血開城を導いた第一人者の勝海舟についても、見方は分かれます。例えば、実際の下交渉は山岡鉄舟が事前にやっていて、勝がその手柄を持っていったと悪口をいわれることもあります。

“西郷どん”の西郷隆盛も同様で、特に西郷は評価が分かれます。維新の功労者には間違いないが、西郷は幕府を倒したものの新国家の青写真を持っていなかった。つまり薩摩は王政復古などのクーデターや軍事力の発動でもって、幕府を力で消滅させることについては長けていたが、新しい政府のプランはなかった。との見方です。

~次回に続く~
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95年~150年

2018年01月06日 08時50分36秒 | Weblog
戊戌(つちのえいぬ)の年、明けましておめでとうございます。
今年の干支は、戊に草冠を付けると茂る、戌にさんずい(水)を付けそして中に火を入れると滅となり、茂る人と滅びる人とに分かれる年と言われています。

さて今年の三が日は快晴が続き、とても穏やかな正月でした。そのような三が日、家族と正月らしい時間を共にする以外、自分の時間が多く持てました。元日の新聞の特集をじっくり読んだり、買い求めていた本を読んだり、溜まっていたテレビの録画を観たり、そのようなことに時間を費やすことにしました。

「2018年の幕開きとともに私達は歴史の節目を迎えた。明治元年から150年。世界への扉が大きく開かれ、常識が根底から覆った当時の日本は国も国民も新しい時代へとひた走った」「その後、幾多の苦難も経験し、今の私達はまた自信を失いかけている。次の150年は今年から始まる。維新再び―」。

文明開化や廃藩置県や殖産興業など、明治維新に行われた改革を振り返って、現代の日本を再考し、新しい日本の道しるべを考えてみる。新聞にはそのような特集が組まれていました。ITやAIやIOTなどの新しいテクノロジーが加速すれば、働き方や会社の形態や社会の秩序までが一変するかもしれない変革期を迎えている日本を、認識しました。

五木寛之著“百歳人生を生きるヒント”を読みました。「いま、日本という国は未曾有の長寿時代を迎えている。経済の不安、衰えていく体の問題、介護は誰がしてくれるのか。そこにあるのは、これまでの哲学や思想で語ることのできない、100歳までの長い道をいかに歩むかという重い課題がある」。裏表紙には、このような文が載っています。

85歳を迎えた著者は、自身も100歳人生を歩むかもしれない前提で、全く新しい生き方を提案しています。人生を登山に例えるなら、50歳まではひたすら頂上を目指し登る道、50歳からは麓をめざして下りる道のり。人生も登りだけでは完結しない。登山よりもむしろ下山が大事との著者の考えは、山登りをやっていた私には納得できるものでした。

映画“海賊とよばれた男”を観ました。戦後、石油事業で日本の復興に尽力した実業家、国岡鐵造の半生を描いた作品ですが、鐵造のモデルは出光興産創業者の出光左三です。映画のハイライトでも描いていますが、戦後の出光事業の真骨頂は日章丸事件です。

長年英国の支配下あったイランは、虐げられていた石油産業を国有化しました。その英国と抗争中のイランへ、昭和28年、出光は自社のタンカー日章丸を極秘裏に差し向けます。そして油を満載した日章丸は、巧みに英国海軍の監視をかわし無事帰還します。

英国は日本に持ち帰った油の所有権を主張して、出光を提訴して、法廷で争います。結果は出光の勝利。その後メジャーの結束により、イランとの取引は一過性に終わりましたが、この事件は産油国との直接取引の先駆けを成し、敗戦で自信を喪失していた当時の日本が、国際社会に一矢を報いた快挙として受け止められた。との歴史的事実も改めて学びました。

出光佐三は、明治18年に生まれ昭和56年に没し、既存の秩序や世界に挑み95歳の人生を閉じました。稀代の経営者の95年、人生100年時代、明治維新150年。これらの年月の長さとともに、年初に、日本の国、日本人、日本の経営者について考えさせられました。
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