梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

車中での思い出

2012年05月26日 07時23分13秒 | Weblog
立川市で告別式がありました。八王子市にあるわが社の得意先の会長が90歳で亡くなられ、午前11時の式に間に合うように、9時には営業担当の次長と一緒に車で浦安を出ました。

本来ならば、助手席に私は座って次長と話しながら行くのですが、その日は後に座りました。「今日は仕事をしながら電話連絡もしなくてはならない用件が結構あるので、後ろに座らせてもらうから」。次長「ハイ、分かりました」。

前の晩の通夜に参列させていただくことが出来ませんでした。以前から予定を組んでいた外せない勉強会があり、次長も一緒にその勉強会に参加しましたので、その日の告別式に参列させていただくこととしました。

前の晩その勉強会が終わってから次長はそこで帰りましたが、その先生と他の参加者と反省会があり、私が自宅に帰ったのは、夜中の12時をかなり回っていました。

八王子のその会社とは、亡くなられた会長が社長時代から、長い取引をさせていただいてきました。二代目の現社長とは年代もほぼ同じで、鉄鋼流通の業界の団体でも懇意にさせていただいています。大切な告別式でした。

告別式のその日は、中央高速道路が集中工事の日にあたり、高速を全面は使えず、一般道を走ったこともあり往復車で4時間は掛かりました。やらなくてはいならないことを、パソコンを持ち込んで、携帯電話で連絡をして、車内で何とか帳尻を合わすことが出来ました。

帰り甲州街道では少し道路渋滞もあり、気が付けば眠っていました。いや、気が付かないままに眠り込んでしまいました。睡眠不足には勝つことが出来ませんでした。

私が入社した頃の話です。先代が得意先回りする時に、私が運転をして同行することが多々ありました。先代は必ず後ろの席に座りましたが、新聞や雑誌などを読んでいるかと思うと寝ていることもありました。そんな昔を思い出しました。
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道場だから

2012年05月19日 15時42分28秒 | Weblog
雨が降りしきる松戸のうなぎ屋さんに三人が集まりました。その店の主人が、店を5月いっぱいで閉めて博多の中洲に進出することとなり、餞別を持参して、そこでの最後の食事をいただきました。

私以外の二人とは、岩手県から15歳の時集団就職で上京して一代で100台以上の車両を有する運送会社を築いた会長と、長年化粧品や健康食品の訪問販売をして実績を上げ10年前に新たに農業に進出した社長であり、どちらもこのブログでは紹介させていただいた方です。

“うなぎ道場”と看板を揚げていますが、そのお店は単なるうなぎ屋さんではなく、店主は京都御所で約1200年の歴史を受け継がれた食の流儀、生間(いかま)流の門人です。まだ40代後半ですが、日本料理のプロです。

日中は特別の仕出し弁当や、ふぐやうなぎ料理の宅配まで手掛けていて、自宅兼用のお店の席も、カウンターには4人しか座れず、夜は予約制です。近所の人よりも遠くからの人の予約が多く、神奈川県の常連客もいるそうです。

そんな繁盛しているお店なのに、何故博多に店を構えるのか。当然、私達もそんな質問をしました。一・二年前から高校時代の野球部の後輩に誘われていたそうです。大会社の営業マンで博多を飲み歩くのがその後輩の仕事で、「先輩の料理は博多でも立派に通用する」と言われていたそうです。

二階で寝たきりのお父さんの看病をしている時には、まだそんな決心などつかなかったそうです。そのお父さんが去年の暮れ亡くなった後、その後輩にまた誘われたと言います。その時何か踏ん切れたそうです。

そこが“うなぎ道場”と看板を揚げている所以です。知らない土地で自分の腕が通用するのか、その道を究めたかったのでしょう。まして博多っ子は食に貪欲といわれますので、その地で挑戦してみたいと思ったのも無理ありません。

関東の常連客もその主人の味を追いかけて、いずれ博多まで行くのでしょうか。私にはそんな光景が見えるような気がします。鉄の商売ではあり得ないことですが。
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言葉として表す

2012年05月12日 13時19分20秒 | Weblog
『誤解は当然、理解は偶然』と、以前誰かが語っていました。人の話は、聞く側からしたら意味を間違えて捉えてしまったり真意が伝わっていなかったり、そのようなことが往々にしてあるという趣旨です。けだし明言です。

従って一回で相手が理解する為には、よっぽど言葉を選び、適切な状況設定を織り込まないと難しいとのことであり、それは常に訓練しておかないと出来ないことです。

また同じ話内容を伝えるにしても、その話し方や表現力によって、自分が思っているものとは全く違った印象で、相手は受け止めていることを知らなくてはなりません。

例えば私が朝礼で社員の前で話したことを録音して後で聞いてみると、話している時に感じたのと、全然違っていて驚くことがあります。社員がよくこんな私の話を聞いてくれていると、自身で呆れることもあります。

先日或る人から、「梶さんの電話の話し方は、固さと冷たさを感じます」と言われました。はっきり言ってショックでした。でも自分では分からないことを教えてくれたのですから、その方に感謝しています。しかし私にとってみると無意識の世界なのです。

最近、自分で話す言葉は難しいとつくづく感じています。人類の発達と共に、言葉も進化して、自然に身に付いている便利なものですが、その言葉の大切さを今感じています。

家庭で身内と一緒に居ると、ついつい「あれ・これ・それ」で話が済んでしまいますし、それが通じるのも身内の良さかも知れません。しかし痴呆症で無い限り、私はこれを避けたいと思っています。明確に言える訓練でもありますから。

更に心掛けていることです。発する言葉に嘘がないようにすることです。いくら話し方や表現力を駆使しても、本心を隠したり自分の身を保護したりする言葉は、相手は直ぐに感じ取ってしまうのではないでしょか。
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江戸川鉄栄会は今(その2)

2012年05月05日 09時58分11秒 | Weblog

創立45年目でもあり今回の総会は、趣を変えちょっと贅沢に、東京ベイ・クルージングレストラン“シンフォニー”の船上にて行ました。午後7時に日の出埠頭より出航し、本年2月開通したばかりのゲートブリッジをくぐり抜け、東京湾ナイトクルーズを大いに楽しみました。

豪華な船の個室を貸し切りって、生のジャズを聴きながら、イタリアンと和の創作ブッフェを、参加者21名でゆっくりと味わうことが出来ました。女性役員の飛び入りによるドビュッシー“月の光”のピアノ演奏があり、宴は一気に盛り上がりました。

当会の過去の周年行事は、20周年と30周年はホテルにて、来賓を招き会員の社員なども多く集い記念式典を挙げました。40周年は、韓国の高炉メーカーポスコを見学する海外修旅行を企画しました。

「誰のため何のため、この会は存在するのか」、今回総会の挨拶の中で、私は皆さんにそう問い掛けました。創立した時は、27社の結束の固さもこの会を創った目的も普遍であったと思います。

その後の会員の変遷と鉄鋼業界を取り巻く環境の変化によって、その目的は必ずしも明確であったとは言い切れません。50周年を前に、もう一度我々が会の目的を考え直す良いチャンスです。

奇しくも若手会が本格的に活動を開始しました。定期的に会合を開き、会員の経営者に限定しないで、中堅の社員であっても今回の若手会は受け入れるとのことです。そして他の東鉄連傘下の若手会及び二世会とも交流を図りたいとの意向です。

現在傘下の地区9団体のうち、5つの団体にそんな次世代の会が組織されています。次世代が育っている会社は将来も安泰です。でも世代交代は必ずしもタイムリーにスムーズ行く訳でもありません。若手が育つ時間も必要です。

江戸川鉄栄会の第二の創立を目指す気構えで、彼等があらたなこの会の目的の答えを出してくれれば幸いです。
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