梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

私の今の役割

2014年07月25日 19時01分11秒 | Weblog
東鉄連は来年の5月を以て、創立60周年を迎えます。昭和30年5月に、既に存在していた、京橋、神田、本所の三地区団体の協議機関として「東京都鉄鋼取引改善委員会」が発足しました。そして昭和43年、現在の東京鉄鋼販売業連合会(東鉄連)と改称します。

発足当時はその名称の通り、取引先の悪質業者排除や、商業道徳高揚の情報交換の場としての組織作りでした。初期の目的は時代と共に変わりましたが、約300社の加盟を誇り、全国でも鉄鋼流通業者最大の任意団体として、今日まで存続して来ました。

その東鉄連が来年60周年を迎えるにあたって、理事会では今から記念事業の準備を進めています。来年度の一年の間に冠事業として、式典及び祝賀会開催、記念誌発行、海外研修旅行、会員の社員が参加するギネス記録への挑戦、等様々な企画を考えています。

話しは変わりますが、わが社は6月が決算期であり、7月から新年度を迎えています。昭和43年4月に株式会社として法人登記をして、第48期目に入ります。例年の事ですが、6月初旬から7月の中旬まで、会社の幹部は一年で最も忙しい時期となります。

その年度の人事考課に始まって、次年度の昇格や給料査定、当期の決算数字のまとめ、次年度の利益目標の設定、それに基づく全社員の個人目標の認定まで。瞬く間に一ヶ月半が過ぎてしまいます。しかしこの作業を経ないと、新年度がスタートしません。

私は4~5年前は、それらの仕事にかなり関わっていて、悩みの渦中にありました。現在は、ナンバー2以下の幹部に極力任せられることは委譲して、私の仕事は最終決断や承認の範囲に留まっています。その分余裕が出て来て、他が見えるようになりました。

東鉄連には事務局があり、二人の職員がいます。先日も、一週間に理事会で承認された冠事業に対して、事務局独自で出来る仕事のキックオフを宣言して、二人の後押しをしました。副会長としては口を出すのではなく、先ずは信頼して任せることだと思います。
 

何十年にも及ぶ事業の継続は、日々の弛まざる人間の営みです。私のすることは、自ら仕事をするのではなく、実際に仕事を遂行する人に、前向きに嬉々として仕事をしてもらえる環境を作ること。私の今の役割を、そう捉えています。
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武将と経営者(その3)

2014年07月19日 10時33分06秒 | Weblog
NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』の7月13日放映を見るまでは、このテーマ「武将と経営者」は前回の(その2)で、終わらせようと思っていました。本能寺の変をむかえて佳境に入ってきたドラマは、黒幕としての軍師官兵衛がクローズアップされています。

信長が光秀に討たれたことを知った官兵衛は、秀吉に「好機が訪れましたぞ!」、とささやきます。主君の信長が殺されてパニック状態に陥っている秀吉に、官兵衛は、これからの生きる道を諭し心の支えになます。それ程冷静沈着で、したたかな軍師としての官兵衛の役どころを、見事に演出していました。

その後紆余曲折があり秀吉と官兵衛の間には亀裂が入り、関ヶ原の戦いでは官兵衛の息子黒田長政は、秀吉の遺志を継いだ石田光成の西軍ではなく、家康の東軍の配下となりました。そしてこの合戦の最中、官兵衛自身は九州に在り、独自に天下を獲るチャンスを狙ったと言われているのも、歴史上の事実です。

半藤一利氏と磯田道史氏が対談して、それをまとめた書『勝ち上がりの条件~軍師・参謀の作法』を最近読みました。鎌倉から戦国時代の初期位まで、軍師の仕事は何であったのか。暦や易のみならず地上の自然現象や天体の動きさえも勉強し、合戦の日取りや陣を張る方向などを決め、出陣式の祭祀の作法手順なども熟知していた。

原初の軍師の役割を、本にはそう書かれていました。しかしその後、占いやおまじないだけではなく、学問として古代中国の兵法を真剣に学んだのが竹中半兵衛や黒田官兵衛であり、中世的な軍師から近世的な軍師の転換期であったと、対談では話されています。

主君の願望が果たして現実となるのか。地位や名誉にこだわってしまう、つまり願望が先行してしまうトップは、過ちも犯します。願望と現実を冷静に見極められる智力が軍師には求められ、このような軍師を如何に受け入れ、活用するのが主君に必要な度量となるのでしょう。

殺されてしまった信長が、秀吉や家康と決定的な違いがあるとすればどこか。信長が、軍師の存在のような他人の意見を聞かなかったことだ、と私は考えます。自分は天上人であると信じた信長は、自らその存在を求めなかったのでしょう。

平たく言えば、武将と経営者、家臣と社員とは、自ずと役割が違うのではないでしょうか。例えば、社員が技能を磨けば社長は人徳を積む。その役割分担をしっかり認識したいと思います。
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武将と経営者(その2)

2014年07月12日 11時24分56秒 | Weblog
イギリスの歴史家E.H.カーは、著書『歴史とは何か』の中で、「歴史とは、未来と現代と過去との尽きない対話である」と言っています。歴史は、過去の事実のみを語るものだけでもないし、現代の視点だけで過去を評価するものでもないし、人類の未来にとって何が良いかを常に意識したものでなければならない。そのように、私は解釈しています。

歴史に「もしも」は無い、という見解の歴史家がいます。確かに歴史上で一度起きてしまったことは変えようがありません。しかし、歴史を深く考え、そこから教訓を学んでいくのであれば、「もしも」を想定してみることは、むしろ大事であると思います。

もしも光秀の信長への謀反が失敗していたら、もしも秀吉が毛利と講和出来なかったら、もしも中国大返しがあれ程の速さで実現されなかたら。本能寺の変を境に、もしもを想定することで、状況が千変万化して、新たな歴史を塗り替えて行ったことでしょう。

しかし史実としては、秀吉はその後天下人となりますが、秀吉没後の関ヶ原の合戦では、家康が対抗勢力に勝利し覇権を握り、家康は江戸に幕府を開き260年以上続いた、日本の歴史上で最後の最長の最強である武家政権を確立します。

最後に天下を取った家康は、尾張三英傑の武将の中でも、生まれたのも遅く寿命も一番長かった優位性はありますが、経営者と照らし合わせてみると、卓越した資質を持っていたことは誰もが認めるところです。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。信長の強引さ、秀吉の積極性、それに対しての家康の忍耐強さを表現した、あまりにも有名な句です。現代の経営者像としても、十分に比較検証されるべきものです。

家康は幼少の頃、松平家として従属していた守護大名の今川家へ誠意を示す為人質として差し出されますが、その途中奪われて今川氏と対立する戦国大名の織田家へ送られ人質となってしまいます。それらの人質の忍従生活が、家康の人格を形成したことは事実です。忍耐力でじっと時代を見つつチャンスを窺う姿勢が、その一つの資質が、大きく花開いたのでしょう。

もしもを想定しながら、歴史の過去と対話する中で、これからの経営者の在り方も見えてくるような気がします。
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武将と経営者

2014年07月05日 09時51分44秒 | Weblog
本能寺の変の直前に、四国土佐の長宗我部元親が明智光秀の重臣斎藤利三あてた書状が新たに見つかった、との報道が最近なされました。戦国時代に土佐の武将だった長宗我部が、四国の領土を巡り織田信長の命令に従う意向を示した手紙です。

光秀が本能寺の変を起こした理由については、本人の怨恨や野望やノイローゼ説、朝廷黒幕説など多くありますが、中でも有力なのが四国説です。信長は、四国は当初は長宗我部の自由にさせるとの方針でしたが、一転して一部しか領有を認めないと変更したのです。

光秀、利三、元親は一種の親戚関係にあったので、光秀が、信長と元親とのやり取りの仲介役を行なっていました。信長の身勝手な方針転換に翻弄され、結局は長宗我部征伐軍が組織され出陣のその直前に本能寺の変が起こっている事実を見れば、光秀にしてみれば正にキレてしまったことは想像に難くありません。

現在放映されているNHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』は、今まさに、信長の天皇や神をも畏れない色々な所業によって、光秀がストレスの極致に達していたことが手に取るように窺い知ることが出来ます。

“天下布武”を唱え、戦国乱世から日本を統一に向かわせようとした、その凄まじいエネルギーを持った信長の功績は、確かにあったのかもしれません。しかし武功が全てで、部下を信用せずとことん疑い、最後はモノ扱いにしてしまう信長の本性は、謀反を起こし官兵衛を幽閉してしまう荒木村重のような人物まで生み出す怖さも内蔵しています。

もし信長が現代の会社の社長であったら、社員はどうするのであろう。私の頭の中で、ふとそのような考えが浮かびます。現代のような、命を賭ける戦争ではない会社経営では、ついて行く社員はいないでしょう。謀反を起こす前に、社員はいなくなるでしょう。

その信長に心底ついて行った家臣が、秀吉なのです。理不尽な主君にでも、度量を持って仕えて、逆に本能寺の変でチャンスを与えられて、耐え忍んで天下を取った、秀吉の凄さを私は感じます。しかし豊臣家の安泰、存続は、成されないままに終わります。

一方、高圧的で人間性も認めない主君信長を倒した、ある意味英雄でもある光秀には、畿内の家臣たちは離反して味方をせず、信長の死後数日後に、山崎付近で秀吉に討たれます。大義と人望の欠如とも言われています。

歴史を辿ると、経営者の在り方が見えてくるような気がします。  ~次回に続く~
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