梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

コーチング

2006年09月26日 07時42分54秒 | Weblog
一昨日の日曜日(9/24)、日本コーチ協会神奈川チャプタービジネス部会なる集りに参加して来ました。

実は私は昨年七ヶ月間ですが、そこの所属会員で女性の方にコーチングを受けました。クライアントの一人としてその成果やどんな効果があったかなど、他のコーチに披露する為の事例発表と言うことで、内輪の勉強会に今回招かれました。

最近はコーチングが何たるか、ようやく世間で認識されて来たようですが、正確に内容が分かる人はまだ少ないと思います。かく言う私も受けるまでは、カウンセラー的なものなのかな~程度でした。

週一回一時間ほど主に電話でコーチングを受けたのですが、コーチの仕事は、要は私の話しを徹底して傾聴してくれてポイントを承認してくれると言う行為でした。問題の答えはむしろ私自身が持っているそれを導いてくれる、あるいは目標管理のサポートを細かくしてくれるなどが、実際私がコーチングから習得したものです。

中でも大きな具体的成果は、わが社の現状ビジネスのビジュアル化を手伝ってもらったことです。会社内外に明確にわが社のやっていることが説明できる、所謂「ビジネスモデル」がこの時期に出来上がりました。

これは言うまでもなくその後、加工事業を四年前にあらたに取り込んだわが社にとっては、鉄鋼流通業界での機能の再認識と言う観点では多いに役立ちました。

それにしてもその部会参加者は全員コーチの資格をもっているのは当たり前ですが、別の肩書きとして、社会保険労務士、中小企業診断士、大企業幹部、コンサルタント、カウンセラー、中小企業の役員等など、様々な分野のエキスパートがいたことが驚きでした。
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決算書の思い

2006年09月18日 09時46分27秒 | Weblog
わが社の決算期は6月です。法人税務申告は二ヶ月以内まで済ませなければならず、毎期の決算書は当然8月末までには出来上がります。

それに伴い、取引金融機関や主な仕入先(商社)にはその決算書を持って、説明に廻ることが毎年の恒例となっています。先週一週間を掛け7社ほど廻って来ました。

私としては先方に出掛けて行き、数字の裏付けの説明や、数字として載せていない事柄や、また新年度の方針や戦略等も話しをして来ます。少なくとも先方から決算書は出来ましたか、提出してくれませんかと言われる前に行くように心掛けています。

20年ほど前、メインの商社に決算書を届けた時のことです。先代がまだ現役の時のこと、その前年まで私は関連の運送会社にいて、それまで梶哲商店は弟が先代のもと№2でやっていた頃のことです。

私は決算書を手渡して直ぐ帰るばかりと思っていました。ところがその商社の担当者は、その決算書の数字の内容を事細かに、約3~40分にも亘り質問をして来ました。当時私は決算処理にも立ち会わず、今ほどの決算書の知識も無かったので、その返答たるや惨憺たるものでした。

梶さんもう少し決算書を勉強しなさい、自分の会社の大切な数字ですよ、と彼は遠回しに言ってくれました。恥ずかしい限りでした。これが私の自社の決算書との出会い、決算書と向き合った原点です。

今は先方の質問を想定して準備もします。通り一遍の説明ではなく、色々興味を持ってもらえるように工夫もします。近年は、さすがに質問をされ詰まる事は無くなりましたが、その時のトラウマはいまだにフラッシュバックします。
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ある朝の事

2006年09月11日 07時07分16秒 | Weblog
ある朝会社の前を掃除していた時のことです。60歳中程の人が、通りすがりに「梶哲さんは古い会社なんだよな~」と独り言でも言っているかのように、葛西の駅の方に歩いて行ってしまいました。

その人は私が社員の一人で、あなた知ってるか梶哲商店は古くからこの土地で商売をしてるんだからシッカリやれよ、と諭しているかのようにも聞き取れました。

続けて翌日もその人と会いました。その人は乗って来た自転車を、わが社の直前で乗り捨てて、地下鉄東西線で通勤している人でした。ネクタイはしていませんので、現場関係の仕事にでも従事している人なのでしょうか。

その日は会話が出来ました。「あなたは何代目か?」と聞かれました。その人は私を社長だと認識しているようでした。「祖父が戦前からやってましたが戦後は暫らく途切れそれから先代が・・・、ですから正確には三代目です」と私。

それに対しその人は「あんたまで続けば大丈夫かもしれないな~」、「でも会社をあんまり大きくしてはいけないよ」、「二代目三代目で潰れている会社が多いんだから」、と言いながら又駅の方へ足早に行ってしまいました。

会社には当然栄枯盛衰はあります。破綻することもあるでしょう。ある人曰く、二代目三代目が会社を潰す原因は何か、傲慢やおごりたかぶりであると断言しています。

私としてはその他の要因に、時代の変化に対応できるかどうかとか、資質があるかどうか等もあると考えますが、二代目三代目が会社を潰すと言われると私としては非常に身に詰まされる思いがします。

それにしても、その人は一体何者なのでしょうか。
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葛西の地その5

2006年09月02日 15時04分40秒 | Weblog
今回でこのテーマの最終章にしたいと思います。

スクラップ加工工場は近隣による騒音問題が発生し、昭和52年に江東区東雲に新たに土地を求め移転しました。移転後そこは、端板のストックヤードとしました。一方長年、主にスケールの野積み置き場として使用してきた本社の土地には、昭和62年鋼板専用の、在庫も3,000t保管できる新倉庫を造りました。

継ぎ足し継ぎ足して取得してきた、葛西の2ヶ所の土地は当初買い求めた面積の倍になりました。しかし平成15年、この地での今後の現業の操業を考えた時、また将来の資産の有効活用を考えた時、都会化してしまった葛西は売却し浦安の何処かに移転する結論に達しました。

先代が夢を託したこの土地は私の代で売却することになりましたが、浦安は鉄鋼団地の直ぐそばに、葛西の倍の面積の土地を取得することが叶いました。

葛西では業容の拡大に伴い、少しずつ隣接地を取得できたり必要な土地だけ賃借できたりしたものラッキーでした。また事業を展開する上で、前の事業のあと地を、新しい事業に直ぐに転用できたのもラッキーでした。

その不動産の取得や売却及び賃借においても、地元葛西の人との出会いや係わりは貴重でした。その関係以外でも、先代からの、葛西の地元の人との縁はとても感謝しています。私の私的見解としては、古くからの長島や葛西の人々の気質は、新参者に対しても寛大で、非常に人懐こさがあると受け止めています。私が葛西小学校に転入した時、正に感じたところのものであります。 

もう一つ葛西からの大きな恩恵は、人材確保の面でした。古くはそのスケール作業をしてくれる社員の募集については本来3K職ですから、色々苦労がありました。しかしこの葛西の地も何時のころからか新興住宅地となり、ローンを組んで一戸建てを取得する住人も増え、当時わが社としては仕事はきついが高賃金を出すのがポリシーでしたので、需給がマッチしました。

また近年江戸川区は他の地区から新世代の移入が多く、ご主人が都心等に勤務する家庭の奥さん達が地元で職を求めるようになり、優秀な主婦層を確保できました。

振り返って、わが社が地元に還元できたことは納税や最低限の雇用位ですが、むしろこの地からの恩恵が、今まで述べて来たように如何に大きかったか計り知れないものがあります。

現在この地には賃借している本社事務所と実母の自宅しかありませんが、先代の葛西の選択は、間違っていなかったのかもしれません。他の地だったら、わが社の今の姿は無かったでしょう。
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