梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

わが社の60周年(その4)

2013年11月30日 09時27分12秒 | Weblog

第二部の中盤より、演歌で始まった出し物は、とりを取るわが社の三部作まで、本来連続で一気に流す予定でした。我々の出し物を始める前の勉強仲間のパフォーマンスがほぼ終わる、数分前に気が付いたことがありました。

私も出番なので舞台袖のつい立から会場を見渡すと、各テーブルに料理が残っているのです。このままでエンディングを迎えると、お客様が食事を終えない前に宴はお開きになってしまいます。我々は既にスタンバイしていましたが、舞台監督に、我々の出し物の前に間を取るように掛け合います。

今回の舞台監督は勉強仲間の女性に依頼しました。第一部の梅谷忠洋学長のコンサートなどでは、何回も舞台監督をした経験があり、プロではありませんがとても慣れている方でした。しかし彼女も舞台の進行を一手に司っているので、他の指示で目いっぱいでした。

素人の私が口を出すのもはばかられましたが、お客様も大事です、社員も一世一代の大舞台です。彼女にしてみれば、私が口を挟むことは、抵抗があったと思います。彼女の判断に任せるような形にしましたが、その提案を呑んでくれました。

そして、「皆様~、ここで我々は次の準備の為にお色直しをしますので、約10分後にスタートします。本日のスペシャルメニューのお食事もまだ残っておりますので、どうぞお楽しみ下さい」と、司会のわが社の女性社員から、会場にアナウンスが流れました。

その間お客様はお食事をしながらも、トイレに立ったり、他のテーブルへ知っている方に挨拶に行かれたり、会場はざわめき立っていました。そして10分後、「皆様~、これからザ・カジテツオンステージが始まります。お客様がお座りになりませんと始まりませんので、どうかご着席下さい~」と、アドリブを利かした司会が効果を発揮しました。

開場は水を打ったように静まり返りました。それから、カジテツ三部作が積を切ったように流れ出し、最終のエンディングロールまで一気に進みました。急遽設定した、10分間の“間”はお客様には気付かれず、むしろ絶妙のタイミングでした。

この10分間がなければ全体が締まりませんでした。この10分間に救われた気持ちです。何か天から降りてきたような感じでした。全て終わった後の、社員の心からの笑顔に、全社員の達成感と満足感と充実感を、私は全身で感じました。  ~次回に続きます~
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わが社の60周年(その3)

2013年11月23日 13時22分28秒 | Weblog

式典や祝賀会での、お一人お一人の顔が鮮明に浮かび、交わした会話などがはっきりと蘇っています。多くの皆様にご臨席を賜った、わが社の60周年記念行事が、昨日終わりました。

事前に綿密に準備したつもりでも、ぎりぎりまでアクシデントやトラブルが発生しました。これは全て起こるべくして起こったことであり、事前に充分にチェック出来なかった原因も明らかですが、敢えて言えば物事完璧はあり得ないということです。

当日祝賀会で皆様にご披露する出し物も、一か月前から練習を開始しました。男性社員によるスコップ三味線、女性社員によるハンドベル、男性社員によるダンス、この三つの出し物でした。チームごとに個別に練習をしてきました。三つを繋げて、ようやく全体の形が整ってきたのが二日前です。

式の前の日このリハーサルも含め、前日にしか出来ない準備もあり、21日は通常の仕事をしながらなので、パニック状態となりました。果たして当日は上手く行くのか。そのような不安も社内では浮上してきて、深夜まで作業はかかりました。

式当日は当然のことながら、外部の業者に依頼した音響機器のホテルへの搬入などでもあり、また本番さながらのリハーサルも午前中にあり、社員は早朝からの集合となりました。お昼前後の段階で、既に疲労困憊に達していました。

12時半から工場見学がスタートしました。お客様には、新浦安のホテルに一旦集合してもらい、バスでわが社の工場を案内する式典の序幕企画です。約100名のお客様が参加されました。その後も分刻みの準備に追われます。

そして2時から受け付け開始、3時から記念式典開会となりました。もう後には戻れません。式典は、わが社の60年の歩みを紹介するスライドに始まり、私の謝辞、来賓のご祝辞、寿ぎの書、記念クラシカルコンサートなど、ほぼ予定通りに終わりました。

祝賀会である第二部がスタートして、乾杯に始まりそしてお食事歓談。約30が過ぎてから、女性歌手によるミニ演歌ショーが繰り広げられ、引き続き仕入れ先商社と勉強仲間のパフォーマンスが催されました。その後、予期せぬことが・・・。    ~次回に続きます~
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わが社の60周年(その2)

2013年11月16日 05時41分47秒 | Weblog

60周年行事を行うことを今年の4月に決定して、中でも一番の難問は、社史作成でした。式典当日に皆様にお配りするつもりでしたが、対外的な式典行おうと決定した段階では、構成が全くまとまっていませんでした。

難問だった理由は、社史にするような昔の記録や資料が、わが社にはほとんど無いからです。当然過去の写真なども必要です。しかし、梶家の家族写真はある豊富なのですが、会社絡みの写真が創業から20~30年間は無いのです。

もっとも創業時から、何十年も先の社史を考えて準備する経営者は少なく、しばらくは会社の存続が最優先であり、先代も同じ様な境遇であったことは想像に難くありません。わが社の会社案内にしても、初めてカラー写真入りを外部に制作依頼したのも、昭和50年代に入ってからのことです。

長男で生まれた私は物心ついた頃から、先代の家業を身近に見てきました。また幼い頃から、私への父親の厳しい教育は、将来私を会社に入れる想定のもとで行われました。そして私は大学を卒業して直ぐ、父親の会社に入社します。

そのようなことを、私はこのブログ上や勉強会の会報等に、折に触れ投稿してきました。それをベースに今回書き直したり新たに書き足したりして、社史ではなく文章中心の“記念誌”としてまとめることにしました。

この際、過去の少し曖昧な記憶を正す為に、時間を掛けて調べてみると、結構思い違いがあることに気が付きました。人間の記憶はあてにならないものです。また私だけの文章だけではなく、身内の関係者にも寄稿を依頼しました。

会社の過去を再認識して冊子として残すことは、機会がなければなかなか出来ないことです。冊子にまとめようがまとめまいが、会社は現存しています。しかし、記念誌をまとめてみて、会社の60年間の新たな面が見えてきた感じです。

部分を繋ぎ合せて一貫して見てみると、必然的な連続性にも気付いて、全体像が見えてきます。不思議と、自分の会社であって違う存在に感じ、今は新鮮に映っています。記念誌作成、このチャンスに感謝しています。

その最終稿を印刷会社に、先週やっと引き渡しました。  ~次回に続きます~
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わが社の60周年

2013年11月09日 09時12分50秒 | Weblog
昭和27年11月に私の父である梶哲が事業を興して、既に60年と11か月が経ちました。この60周年は終わりかけていますが、創立60周年記念式典を対外的に執り行うこととしました。その開催日は11月22日となります。

四か月前に社内で実行委員を選任して準備を進めてきました。当日はホテルの宴会場を借りて式典と祝賀会を行います。余すところ二週間となり、加速度的にやらなければならない仕事が増えています。

去年の段階で周年行事を行うことは考えていましたが、最終的に決定したのは今年の4月です。社外の皆様をお招きして、社員を総動員して、行事を行うことについてはやはり迷いはあり、決断するまで時間が掛かりました。

鉄鋼流通の業界でも、最近の傾向としては、対外的な周年行事を行わない会社が多くなっています。社会的な現象や景気の動向や、他にも色々と行わない要因はあるようです。社員を大切にしたいので身内だけで祝う、とその会社のポリシーにもよります。

先代は創業から37年後に亡くなりました。創業30年では、お客様に記念品を配布しただけで終わり、社内的にも周年行事を行うことはしませんでした。私の代になって、40周年で伊豆へ一泊の社員旅行、55周年で台湾へ二泊の社員旅行をすることで、内輪だけで祝いました。

私は昭和27年10月に生まれたので、会社と私の歳が同じであるとをこのブログ上でも書いてきました。つまり去年の10月に会社も私も還暦を迎えた訳です。人間にとってみると還暦は大きな人生の節目であり、また人生60年で一周して赤ちゃんに戻り、リセットの歳回りとも言われます。

振り返ってみて梶哲商店は、私と父と二代に亘っていますが、幾多の困難を経て紆余曲折を繰り返しながら、今日に至っています。それは多くの方々に支えられて、存続をしてきたからに他なりません。取引先様にしても、社員にしても、関わって下さった全ての方々の恩恵です。

その60年に、皆様へ感謝の意をお伝えして、形に表そうとするならば、周年行事を対外的に行うこと以外にないとの決断に至りました。  ~次回に続きます~
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父と戦争(その3)

2013年11月02日 09時37分19秒 | Weblog

先月勉強会の旅行で、鹿児島の知覧特攻平和館を訪れる機会を得ました。この同じ敷地には、昭和16年に開校した、飛行初年兵や学徒出陣の特別操縦見習士官らが訓練する陸軍飛行学校の分教所がありました。

ここは戦況が悪化して緊迫した昭和20年には、本土最南端の陸軍特攻基地となります。20歳前後の隊員達が日本全国から集結しては、国を思い、また父母を思い、そして日本の永遠の平和を願って、二度と帰らぬ出撃をしました。

沖縄戦の特攻作戦で戦死された千名の隊員は、主にここから飛び立ちました。その慰霊に努め、当時の遺品や遺言など数多くを平和館は残しています。若き特攻隊員達の“英霊コーナー”には、その多くの遺影が飾られています。

一人ひとりの写真を見ていると、胸を打たれ強く伝わってくるものがありました。英霊の写真を見ていて気付いたことです。まさに父と同じ世代の顔がありました。父は特攻隊ではありませんが、どのような顔付きだったのでしょうか。

戦争を実体験した父、無事に復員した父、戦後も戦友と親交を温めていた父、子供達に戦争体験を話していた父、軍隊方式を商売に生かそうとした父、そしていつしか戦争については全く話さなくたった父。

その心情の変遷は私には分かりませんが、知覧平和館のような写真の顔に表れていたものが、使命に燃えていた父の原点だったのでしょう。それを認識出来ただけでも、私は知覧に行った甲斐がありました。

現在の世の中では、私達は命を賭けること等ありません。しかしそれを必要としたのが戦争です。ではその命は何に賭けたのか。それは「国に」です。知覧の遺影のあの清廉さは何処から来るかと考えると、自分を越えた大義の為だからではないでしょうか。

多くの戦死者が、命を賭けて守ろうとした国が、今日の日本の姿です。あの学徒出陣で、明治神宮外苑競技場を強い雨の中、学徒壮行会が行われたのが昭和18年10月21日とのことなので、あれから70年経ったことになります。私達はもう一度、自分達の日本の将来を考え直す時がきていると感じます。

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