梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

社長とは(その2) 

2020年01月25日 05時16分10秒 | Weblog
丹羽宇一郎著“社長って何だ!”の第一章から第六章のタイトルです。「孤独と覚悟」、「資質と能力」、「報酬と使命」、「自戒と犠牲」、「信頼と統治」、「後継と責任」。各章の内容を私なりに要約してみると、次のようになると思います。

第一章は社長の素質や才能、第二章は社長としての心の在り方、第三章は社長の報酬やお金の考え方、第四章は社長の義理と人情の側面、第五章は社長と社員との関係性、第六章は後進の育成。例えば社員については、色々と各章に跨っていますが。

伊藤忠商事に入社して社長になるまで、ご自身が信条としてきたこと実際行なってきたことなど、実例を挙げて丹羽氏は分かり易く書かれています。この本のテーマは、あるべき社長の姿、言わば社長の人間性と人間関係に集約されるかもしれません。

氏は社長就任直後、巨額の不良資産を処理します。各部署で抱え込んでいる不良資産を隅から隅まで洗い出すと、その額は4000億円近くに達し、一括処理して株価が大幅下落したら会社が倒産するかもしれないと、さすがに血の気が引いたと述懐しています。しかし、「見たくないものから目を背けない」「清く正しく美しく」を標榜する丹羽氏は、会社を立ち直す為に信頼してくれる全社員の為にも、巨額の一括処理を断行します。

私の話となりますが社長在職30年間で、「社長とはどのような存在で何をするのか」試行錯誤で行なってきた結果導き出されたものは、先ずは“社員に権限を委譲して任せる”、それから“物事を極力正しく判断し決断する”、そして“最後は会社で行なったことは全責任を負う”、ということでした。

当時の丹羽社長が処理した不良資産は、氏の統治した時代のものではなく、過去の負債です。権限を社員に任せた結果、正しい判断や決断をしないまま、歴代のトップがその処理を先送りされたものだと思われます。しかし命を賭けて、敢えてその全責任を請け負ったのでしょう。自分の関与しないものまでも責任と取ったのです。

そこに私は感動しました。「しかし、よくよく考えてみれば、累積した不良資産を処理するのは、会社を代表する社長としては当たり前のこと」「逆に手を付けないとすれば、それこそ社長の怠慢である」と、氏は言及しています。その決断の後、会社は最高益記録を達成します。

30代の頃アメリカに赴任していていた氏は、穀物相場で500万ドル近い含み損を出します。それは当時の会社の税引き後利益に匹敵する額でしたが、死に物狂いで努力して相場の真髄に迫ろうとした時、状況が一変して含み損が解消されたそうです。氏はその時、人間の力を超えた存在がなければ、この現象は説明出来ないよう感じたそうです。

会社の規模に関係なく、社長とは何かを、どこまでも追及された氏です。現場主義を貫き、飽くまで社員密着し、私心・私欲が無い氏です。不良資産一括処理の際のV字回復も、崇高な何かサムシング・グレイトを感じざるを得ない。ご自身が過去を振り返っています。氏には幼い頃言われた「お天道様が見てござる」が残っていて、それは「誰も見ていないからといって悪いことをしない」に繋がるそうです。

私が特に印象に残った箇所は第五章に出てきます。小タイトルは「真実を語る“諫言の士”を持つ」です。諫言(かんげん)とは会社に於いては、部下が自らの地位や待遇が不利になることを顧みず会社のことを考えて、上司にこれではおかしいですと真実を告げることです。

歴史上最も有名な諫言の士は、中国唐時代の皇帝太宗に仕えた魏徴です。魏徴は太宗の怒りが激しい時も、顔色をひとつも変えることなく直言し続けたと言います。丹羽氏はこの諫言の士を大切にされている方です。  ~次会に続く~


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社長とは(その1) 

2020年01月18日 08時07分01秒 | Weblog
去年の9月に後継の社長にバトンを手渡し、私は会長職となりました。そして四ヵ月半が過ぎました。退いて、新社長を通して「社長とはどのような存在で何をするのか」を、ここで少し考えてみたいと思います。

9月に私は会長職となって、暫くは対外的な活動はしていませんでしたが、去年12月から営業に同行してお客様を廻っています。去年の秋口以降国内の鉄鋼需要が落ち込んで、わが社の業績も影響を受け、出来る範囲で営業支援をさせてもらっています。

会社が苦境や危機に直面したに時には、トップが行なう対処・対策は特に大事です。新社長が業績を回復しなくてはならない喫緊の課題はありますが、その目先の業績の回復だけではなく、一方で社長としての役割は普遍的なものが求められます。

そのような状況も踏まえ、今後の会社の方向性を定める為にも、社長と最近密接に意見交換をしています。「社長とはどのような存在で何をするのか」を互いに摺り合わせています。会社が順風満帆でそのような必要も無いとなるより、私は今回とても良い機会に恵まれたと感じています。

去年9月、新社長は51歳で私が67歳で交代しました。私は社長になって30年経過し、節目と考えていました。社長交代をお伝えした皆様の反応は、会長になるのは早いのでは、まだ交代をしなくてもいいのでは。概してそのようなものでした。しかし現時点でも、時期が早かったのではとの後悔はありません。

そんな折、“社長って何だ!”とのタイトルの本を読みました。著者は、元伊藤忠商事会長、元中華人民共和国特命大使であった、丹羽宇一郎と言う方です。伊藤忠商事の社長に就任した直後約4000億円の不良債権を一括処理して、そして翌年度の決算で史上最高益を達成した方です。

その本の中に、『後継は未熟者に任せよ』との見出しの箇所が出てきます。以下その引用です。「よくこんな言葉を耳にします。うちの幹部は未熟なので、まだ社長を任せられません。社長にしても役員にしても就いた当初は、みーんな未熟です。経験がないのだから、未熟なのは当たり前でしょう。未熟だから社長になるのであり、成熟した人は社長を辞める人です」。とても納得しました。

こうも続きます。「だから私は、社長は未熟者がやるものだ、と唱えてきました。言い換えれば、自分が未熟者であるという自覚のある人間を社長にする必要があるということです。未熟なうちに任せれば、本人が力不足を痛感しているだけ謙虚に努力します。そうした責任感が人を育てるのです」。未熟を自覚し謙虚になることが大事なのです。

私は、社長になる人は経営には未熟であっても、会社を誰よりも熟知していることは必要な条件であると思っています。会社の状況を良く知り、社員こそ大事な資産と認識して、自分は二の次というより自分を捨てられ「無私」に極力なれる人でなければ、社員はついて行きません。

“社長って何だ!”の本の内容と、会長から改めて社長を見た視点を照らし合わせ、社長の存在をもう少し考えてみたいと思います。  ~次回に続く~

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半世紀余の歴史(その2)

2020年01月11日 10時18分06秒 | Weblog
56年前の東京オリンピックは、戦後19年目の開催です。戦争によって焦土と化した日本の復興を願って、その国家事業の象徴ともいえるのが東京五輪でした。当時の日本の国家予算は3兆円で、その三分の一に匹敵する1兆円がオリンピックのインフラ整備に投下されたと言われます。

新幹線や首都高速道路や東京モノレールは、開催に向けて新たに造られたものです。新幹線の開業は10日の開会式のギリギリ、なんと9日前です。余談ですが、開業前の新幹線に、私は小学6年で試乗させてもらったことがあります。その経緯は省略いたしますが、当時の鉄道最高時速210キロ正に夢のスピードでした。

お正月のBS番組で、1964年の五輪直前の世相を放映していました。私が子供の時肌で感じた東京を、映像を通し懐かしく思い出しました。番組の中で新幹線の開発には、車体の空気バネは海軍零戦の改良技術が、車体の流線型は海軍魚雷の設計発想が、線路のATC装置は元陸軍通信技術者が、関っていること等を紹介していました。

一方56年前のオリンピック大会では、日本女子バレーボール・チームがソビエトをストレートで破り優勝しました。チームを率いたのは、「鬼の大松」で有名な大松博文です。陸軍に召集されインパール作戦にも従軍した大松監督です。悲惨な戦場からの数少ない生還者ですが、その地獄の体験が性格を変え、徹底したスパルタ指導となりました。

前回書きましたが開会式当日、航空自衛隊機が国立競技場上空に見事な輪を描きました。この飛行妙技の裏には、かつて海軍大佐だった源田實と部下山田良市の、二人の戦闘機乗りの尽力がありました。空に五輪を描くことをオリンピック組織委員会に提案したのが源田實であり、当日競技場の地上指揮官が山田良市でした。

外国人来訪者を受け入れるホテルとして、1000の客室を擁し1964年9月に開業したのがホテル・ニューオータニです。シンボルともいえる最上階のラウンジ、その回転機構は戦艦大和主砲塔の回転技術が応用されていることで有名です。直径は45m、一時間余りで一回転して東京の風景を一望出来ました。

今回初めて知った事実(歴史)もありました。このようなことを見ても東京五輪は、敗戦国日本が19年を経て名実ともに再び世界の表舞台に立った平和の祭典でしたが、戦争を生き抜いた人々の智恵や思想が大きく影響し貢献していたことが解ります。1964年の五輪は、苦難が続いていた戦後を払拭して高度成長時代の礎になったことは確かです。

そのBSの番組を観ていると、1964年の国民は、オリンピック直前まで醒めていた様子が窺えます。生きて行く為に自分達の生活が精一杯で、平和の営みまで関心が向かなかったのです。しかし蓋を開けてみれば、外国人の選手や観光客を間近にして相違に驚き、日本人選手の大活躍に目を見張り、日本は歓喜に包まれました。

1940年東京開催が決っていた日本は、日中戦争の最中で大会を返上しました。1944年のイギリスでのオリンピック大会は第二次世界大戦で中止となり、戦後1948年イギリスで再開されますが、日本は招待されませんでした。1964年以前の話ですが、オリンピックに於いてもこれだけ日本は戦争に翻弄されます。

1964年から今年で56年、この間日本では戦争はありませんでした。敗戦を乗越えた先人達が多くを残したように、これからの半世紀余の日本の未来に、私達は何を残していけるでしょうか。それを考えるにしても、歴史を辿ることも大切だと感じました。 
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半世紀余の歴史(その1)

2020年01月04日 09時44分51秒 | Weblog
新年、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。読んで下さっている皆様がいますので、それが励みとなりブログを書き続けられていますことに、あらためて感謝しています。

今年2020年は東京五輪・パラリンピックが開催されます。前回1964年の東京オリンピックの時私は小学生の6年でした。会社兼自宅を、江東区亀戸から江戸川葛西に引っ越した時が3年生でしたので、田舎の風景が残っていた葛西の土地に慣れた頃です。今年はあれから56年が経過したことになります。

前回のオリンピックで鮮明に覚えているのが、無い真っ青の空に描かれた大きな五輪です。10月10日開会式の時、航空自衛隊ブルーインパルスの戦闘機五機による妙技で、国立競技場上空に見事な輪を描き出しました。その五輪は葛西自宅のベランダからも、はっきりと見えました。

もう一つの思い出はオリンピック観戦です。通っていたのが東京の公立小学校で6年生だった等に因ったのでしょう、女子陸上競技の予選を学校単位で観るチャンスを得ました。ただ、残念だったのは当日雨、ビニールの薄いレインコートを着ての観戦でした。競技の中身より、国立競技場の圧倒的な広さと寒さが印象に残っています。

去年NHKの大河ドラマで、“いだてん~東京オリンピック噺”が放映されました。前回の東京五輪の一年前、1963年に始まったこのシリーズで、視聴率は大河の歴史上最低とふるわなかったようです。一方で、オリンピックを背景に、歴史に基づき複数の人物を重ね合わせドラマに仕立てた意欲作だった、との評も聞かれます。

私は全ての回を観ました。前半の主人公“金栗四三”という人物を全く知りませんでした。柔道の父“嘉納治五郎”は認識していても、日本の五輪初参加に尽力したり、東京開催を誘致することに精力的に活動したり、これほど五輪と深い関係にあった人物とは知りませんでした。

今回のドラマを観ていて、歴史の必然性や大切さを感じました。1964年以前に、戦争や世界情勢の急変で、東京初開催(1940年)の中止を余儀なくされた苦い過去がありました。日本のスポーツ界も明治・大正時代を経て、世界トップの選手に伍するまでは長い年月が必要でした。

私は小学6年生で体験して、オリンピックに興味を持ちました。それ以前については、番組を観て初めて関心を持ちました。東京五輪の55年前の1909年、第五回オリンピック・ストックホルム大会で、嘉納治五郎は団長として金栗四三は選手として、日本人として始めて参加しています。それが2020年まで連綿と繋がっています。

今新聞紙上で『1964⇒2020』と題して、1964年から2020年の東京五輪開催までの56年を振り返り、何が変り・何が変らなかったのか、私達の社会のうつろいを見つめる特集が組まれています。その中で一つだけ紹介しますと、「個の力で新たな仕事が台頭し職業の枠が薄れてゆく」、と指摘されています。

1960年代「日本標準職業分類」には記載があったがその後消えた職業として、例えばタイピストがあるそうです。現在ですが、学研教育総合研究所の「将来就きたい職業ランキング」に、ユーチューバーが4位で17年に登場し、19年はついに男子の1位に上り詰めたとのことです。

更に正月の新聞には、「逆境の資本主義、経済のデジタル化やグローバル化でさびつく成長の公式」「AIやIoT等のテクノロジーが次々と開花し、5Gと結びつき化学反応が生じ、これまでと違う産業の姿が浮上」、こんな言葉が目に留まります。これまでの半世紀余は想像を超える進化がありましたが、これからの半世紀余は想像が全く出来ない世界が拡大して行くのでしょうか。  ~次回に続く~
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