梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

道なき道(その5)

2020年07月25日 05時02分53秒 | Weblog
Kさんは現れました! 既に集まっていた仲間は歓喜の声を上げます。相変わらずスリムでしたが、顎と上唇には白い髭をたくわえ、皺が深く刻まれ、仙人のようないで立ちでした。容姿からは、やはり45年のギャップを感じました。

彼は錦糸町に早く着いたので、持ってきた野菜をお店に置いて、昔学生の頃一年間この界隈で下宿をしていたそうで、懐かしく街をぶらぶらしていたとのことです。長く務めた会社は定年退職して、現在は農業の技術指導をしているとのことで、持ってきたのはその収穫物でした。お店側で、その素材をアレンジした調理を出してくれました。

45年のギャップは話している内に解消して、昔の彼が目の前に居ます。私はやっと再会出来たことの安堵感で、しばらく我を忘れます。彼は何回か手術をして現在胃を全摘しているそうで、酒も飲めず食事も量は食べれませんでした。それでも酒を飲んでいる私たちに合わせてくれて、意気投合します。約二時間半の宴は終わり、お店の前で集合写真を撮って解散となりました。

去年仲間の一人が亡くなっています。恒例の同期忘年会の直前です。その彼は5年前から肺癌を患っていましたが、去年初めて参加を表明しました。「初日の宴席だけは参加できる」と。ところが開催二週間前、彼からかすれた声で「肺炎になってしまい緊急入院するので、ごめん参加出来ない」との電話です。それから一週間後、奥さんから訃報の知らせでした。「皆にまた会いたい」との、彼からの最後のメッセージだったと思っています。

Kさんと同じく、彼とも忘れられない想い出があります。大学二年の時、彼と私は夏合宿で同じパーティー。十日間程の夏合宿で、その学年は四年間で一番過酷な山行となります。二年生の荷物は一番重く、その上ルートを見極める役割があり、隊の先頭を日替わりで歩きました。バテたとしても、二人以外に交代要員はいません。それでも行程を踏破でき、それこそ同じ釜の飯を食い苦楽を共にした戦友でした。

親しかった仲間が亡くなることは寂しいですが、私も後二年で古希になり、そろそろ私たちの年代も死は日常茶飯事になりつつあります。何年も疎遠なっている同期がまだ二人います。出来れば年内声を掛けてみたいと思います。4年経つと私たちは大学卒業50周年を迎えます。一人でも多くの同期と、50周年を祝いたいと思っています。

出口治明さんの著書“還暦からの底力/歴史・人・旅に学ぶ”を読みました。「人生の楽しみは喜怒哀楽の総量で決まるので、年齢の縛りから自由になれ」「高齢者は次世代のために生きているので、定年制も敬老の日もいらない」。本の表紙や帯から拾うと、このような言葉が出てきます。

『人はみな顔が違うように、考えや嗜好、能力、あるいは置かれた状況や環境も異なります。だから「これが普通だ」ということはあり得ません。個人が平均や普通という意味のない言葉に縛られて人生を送る必要などどこもないのです。いくつになっても自分の好きなことを、自分の好きなようにやればいいのです』

『好きなことをやる、あるいはやれること。人間の幸せはそれに尽きます。いろいろな人に会い、いろいろな本を読み、いろいろなところに出かけて行って刺激を受けたらたくさんの学びが得られ、その分人生は楽しくなります。人の感性はさまざまなので、好きなことにチャレンジしていけばいい。還暦だろうが古希だろうが、年齢など関係ありません』

このように、出口治明さんが言われています。年齢の縛りから解き放たれることが大切だと感じました。古希にしても、型にはまった年齢として括らず、自由な通過点としたいと思います。誰と会い、何を読み、どこへ行くかは、私の行動次第ということになります。

健康であってはじめて、好きなことに好きなように取り組めます。ワンダーフォーゲルの昔の仲間が楽しく集えるのも、山登りがあるからです。仲間に誘われれば、それなりの脚力の備えは怠れません。健康寿命を延ばしながら、平均や普通という意味のない言葉に縛られず、道なき道を歩んでいこうと思います。
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道なき道(その4)

2020年07月18日 05時00分00秒 | Weblog
ワンダーフォーゲルとは、ドイツ語で「放浪する鳥」のことです(日本では「渡り鳥」と訳すことも)。19世紀後半のドイツで台頭した、固定化された社会規範から自由でありたいと、野山を歩き自然を謳歌しながら心身を鍛錬する、青少年運動がワンダーフォーゲルの由来です。正に道なき道を、求めようとする精神です。

日本では、第二次世界大戦前のドイツとの国家的友好関係の元、1933年に国(文部省)によって宣伝され普及が開始されました。戦後は高度経済成長と登山大衆化が背景となり、各大学に広くワンダーフォーゲル部が設立されます。私達の大学のワンダーフォーゲル部は1935年の創部となりますので、85年の歴史があります。

OB会の組織もありますが、体育会のような現役の競技を支援するものでなく、私達OB・OGの活動が主体です。その活動とは、やはり山登りです。春と秋には日帰り山行、本格的な登山の夏合宿もあります。日帰りは、同じ山域内で難易度によって10パーティー程に分け登山して、その後一か所に全員が集まる方式で、80歳を超える先輩の参加もあり毎年150名近くにもなります。

当然のこと私達同期でも、頻繁ではないにしても旧交を温めてきました。前回も書きましたが、同期は15名程いました。四年になる前に退部してしまったり、卒業後に遠のいてしまったりした人がいます。しかし60歳前後から、彼らに再会してみたい気持ちが増してきました。年齢ととも出てくる自然な想いかもしれません。

そのような想いが行動に変わり、彼ら一人ひとりに直接働きかけたことで、新たに同期会に参加する仲間が現れました。そのような中で、日帰り登山をして一泊をする忘年会が恒例となり、去年で四年目となり参加者は10名となりました。

前回このブログ上で登場した、Kさんです。彼自身の特殊な事情もあり、卒業以来疎遠なって45年が経過しています。誰が彼に声を掛けるかの話しとなりました。その役を引き受けてくれようとした人がいましたが、「今回声を掛けて断られたら、二度目のチャンスは無いと思う。梶に、お願いできないか」との、依頼です。

私にとってみても大役です。しかし唯一の頼みの綱は、Kさんとは48年前南アルプスで死と直面した体験の共有があります。引き受けることにしました。自宅の電話番号は年賀状のやり取りで知っていましたので、意を決し電話をしました。奥さんが最初出てこられ、直ぐに彼に替わりました。

主旨を伝えます。事前に用意していた再会候補日は大丈夫だが、コロナ禍で現在外出を殆どしていないとのことです。声を聞いていると昔が蘇ります。気使いをしてくれて、彼から近況を積極的に話してくれました。皆で集まって食事をする場所等を、後日手紙で送ることを伝えました。

その役を一旦引き受けようとしてくれた人に朗報を知らせると、「梶さんの人柄でKさんの引っ張り出しに成功しました!」と、他の同期にメールで発信してくれました。褒めてくれるのは嬉しい限りですが、私は彼に想いが通じたことが何よりの喜びです。

皆と集まって食事をする場所は、同期の一人、その息子さんが父親に代わって実質経営しているお店です。私がKさんに出した手紙には、参加するメンバーを知らせ、お店に直接行くか最寄りの駅(錦糸町)改札で待ち合わせするか事前に連絡をもらいたい、と明記しました。手紙を出した意図は、今度は彼から連絡をもらうことで再会する意思の確認でした。

そしてKさんから、開催日(7月8日)の二日前連絡が入ります。安心しました。お店に直に行くとのことです。それを伝えると、それでも同期の中ではドタキャンを心配している人がいます。手紙でのやり取りがありましたので、私は彼を信用していました。

当日を迎え、夕刻5時が集合です。私は4時30分一番乗りで着いて、Kさんを待ちます。お店の人に尋ねると、4時頃それらしき人が来て、持ってきた野菜を置いて、また出て行ったとのこと。一体どういうこと!? そして時間は5時となり、彼以外全員が集合しました。3分が経ち、そして5分が過ぎ去ろうとしています。  ~次回に続く~

OB会の日帰り山行
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道なき道(その3)

2020年07月11日 05時06分49秒 | Weblog
道なき道を求め、私たちは大井川の支流を遡行し南アルプスにある荒川三山を目指しました。アクシデントはありましたが、無事下山することが出来ました。半世紀前の話しです。今、登山者にとってみるとその聖地が大きく変えられようとしています。

一週間程前のこと、リニア中央新幹線を巡るJR東海と静岡県のトップ会談が、平行線に終わりました。JR東海側が静岡工区の準備工事再開への理解を訴えたのに対し、静岡県側は環境への影響を理由にはねつけたのです。6月中に再開出来なかったことで、2027年の開業は困難となります。リニアは最高時速500キロで、品川-名古屋間を40分で結ぶ、総工費9兆円に及ぶ巨大事業です。

JR側が求める準備工事は、作業基地のトンネル入り口周辺の整備や森林伐採などを対象としています。県側が工事再開を認めない理由は、再開を求める準備工事は本体工事にあたるトンネル掘削工事の一部であり、掘削による大井川の流量減少問題が解決されていないとの主張です。(その後、国土交通省が両者に仲介案を提示しています)

その作業基地のトンネル入り口とは、椹島(さわらじま)付近のことです。私たちがかつて奥西河内に取りつく際に、チャーターしたバン車から降りた、山深く人の気配を感じさせないその場所です。そこは今でも南アルプス最深部の登山基地です。ネットで調べてみると、椹島地域は既に人が入り開発が進んでいる様子で、本格的に工事が再開されれば昔の風景は一変するでしょう。

そして計画されているリニアトンネル本体のほぼ直上にあたるのが、荒川三山とのことです。私たちがかつて苦戦した悪沢岳の下に、現代の技術の粋を集めたリニア新幹線が通るのです。しかし南アルプスは地質構造が複雑のようで、多くの人々が利用する大井川水系の源流でもあります。トンネル工事は水資源や自然環境へ深刻な影響を与える恐れがあります。

『道なき道』のテーマで書き出したのは、実は切っ掛けがありました。(その1~2)で書いてきたように私が大学二年20歳の時こと、そのプランに一緒に参加していた同期のKさんの存在です。そのKさんとは大学を卒業して以来、一度も再会することがなかったのですが、一ヵ月前にその彼と45年ぶりの再会をしてみようと決心したからです。

私たちの同期は15名程いました。程とは、四年になる前に退部してしまったり、卒業後に音信不通になったりした人がいるからです。しかし私は、四年間一緒に活動していなくても、山の想いを共有出来るかけがいのない仲間だと思ってきました。社会人になっても東京界隈在住の同期とは、折にふれ集まってきました。

Kさんは、卒業後直ぐに関西勤務となりました。彼は元来大勢でわいわいがやがやするタイプではなく、一時期体調を崩したこともあり、同期とは疎遠になってしまいました。現役時代は彼も沢登り志向で、私とは相性が合いました。年賀状を欠かさず交わしてこれたのも、同じ体験を分かち合っているからだと思います。

先週(その2)を書いている最中、48年前Kさんと行った山々が、世間でも話題になりました。前述のリニア問題です。リニア開業について私は反対ではありませんが、山々の生態系を変え、大自然が破壊される心配が残ります。

Kさんに限らず同期の仲間は、私の人生の底辺になっていることは確かです。その仲間といまだに逢えることも、この上ない楽しみです。一ヵ月前にKさんと45年ぶりの再会をしてみたいと思った経緯を、そして再会が出来たかどうか、(その4)の紙面に譲ることにします。   ~次回の続く~

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道なき道(その2)

2020年07月04日 04時33分04秒 | Weblog
足元を水流にすくわれ、滝つぼに落ちた私です。深く沈んで、浮上できないかと諦めていたところ、体は不思議とフワッと浮かびました。その後流されて、そして足が何かに引っ掛かって、止まりました。澱みの中にある、沢底の岩でした。助かったのです。

キスリングは綿帆布で作られていて、アタック・ザックはナイロン製です。防水は後者がより優れています。キスリングには両サイドにタッシュがあり、蓋はありますが水が入ること必定です。アタック・ザックが浮袋の役割をしたのかもしれません。

その後駆けつけて来てくれた、先輩に沢から引っ張り上げられました。沢の水の冷たさや、突然の死への恐怖で、体の震えはしばらく止まりませんでした。ことの顛末を腑に落とすのに時間がかかりました。ザックの中の物は濡れずに無事でした。リーダーは私の気持ちを落ち着かせるため、パーティーは大休止を取らざるを得ませんでした。そして二日目のテントサイトへ。

その時のプランは奥西河内(本流)を単純に突き上げるのではなく、二日目のテントサイト(デポ地)に主な荷物を置いて、支流の沢を詰めて荒川三山の一角悪沢岳(東岳)のピークを踏んで、尾根伝いをデポ地まで降りて来て、翌日また本流を遡行するというものでした。身軽になって登ってまた同じ場所に降りてくることを、ピストンと言っていました。

私の引き起こしたアクシデントで、悪沢岳を目指す時間が遅くなりました。標高差約1000mのピストンですが、万一の場合に備え非常食とツェルト(簡易テント)は持参します。その支流は本流とは違い、3~400m登ったところで沢の水が全く無くなりました。その山の名が示す通り、ガレ場で難所の連続。そして雨が降ってきました。

増々雨足は強くなり、岩場で足元も滑り、登りのペースは落ち、あたりは暗くなります。普通の登山道であれば、暗くなっても懐中電灯で照らして行けば目的地には着きます。しかし道が無いガレ場で暗くなっては、なす術はありません。約8割は登った感触でした。しかしそれ以上は断念し、リーダーはビバーク(緊急野営)をする判断を下します。

悪沢岳の標高は3,141m、日本で6番目に高い山です。山は100mの高度を増すごとに気温は0.6度Cずつさがり、これに風が吹くと風速1mごとに体感温度が1度下がるといわれています。幸い風はありませんでしたが、3千m近い場所でしたので、真夏とは思えぬ寒さです。

5人が岩場で座れる場所をやっと見つけました。上から岩が幾らかせせり出していましたので、ツェルトを張ることは出来ました。夜が更けるにつれ寒さは増すばかりです。フォエブス(山用ガソリンスコンロ)で断続的に暖を取りますが、燃料は使い切るわけにはいきません。

暖を取った後少しは体がほぐれますが、時間が経つにつれ、また耐えがたい寒さとなります。5人で身を寄せ合い窮屈に座ったままの状態ですので、十分な睡眠は取れません。夜中から明け方まで、寒さとこの姿勢での苦痛から、一瞬たりとも開放されることはありませんでした。

空がしらけてきて、長い一夜が終わりました。ツェルトを開けてみると、雨は止んでいました。そして目の前に、なんと、壮大な富士山が見えました。地獄のような一夜が終わった!その嬉しさが倍加します。輝く朝日を全身に浴びて、その暖かさに、これほど感激したことはありません。

それから悪沢岳頂上まで、そんなに時間は掛かりませんでした。直下でビバークしていたことになります。ピークを踏んで、快調に尾根筋を下り、難なくデポ地に戻りました。本流をまた登り返します。この沢の終盤に現れるのは60mの大滝、圧巻です。直登は不可能ですので、遠巻きして通過します。更に登り詰めると、沢の水も消え、風景も一変し、砂礫とハイマツの穏やかな稜線に出ます。奥西河内を踏破することが出来ました。

静岡県側から登って長野県側に下山したのは確かですが、それからの行程は余り私の記憶にありません。奥西河内での死と背中合わせの二つの出来事は、インパクトが強く、凝縮してしまったからだと思います。  ~次回に続く~ 

 滝に落ち助かった直後
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