梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

お墓とお墓参り

2019年03月30日 06時37分58秒 | Weblog
お墓の墓があるのだそうです。住居近くへの改葬や都会での納骨堂の利用が一般化するのに伴い、墓石解体業がビジネスとして広がり、その業者に引き取られ、縁もない場所に集められる墓石がどんどん増えているそうです。

「子供に引き継げないから墓じまいをしたい」「墓石の処理に悩んでいる」、依頼者から業者はそんな要請に応えて、墓石を広大な安置所に集め定期的に清掃して僧侶が供養する。良心的な業者がいる一方、悪質業者による不法投棄も目だってきたようです。

遺骨を木の根元に埋める樹木葬や同じく自然に還す海洋散骨など、埋葬の多様化もあり、墓自体を建てない人もいます。日本において更に少子化が進めば、維持管理の面からも、お墓は増えることはないかもしれません。

わが家のお墓は浅草にあります。私の父方の祖父・祖母は石川県の出身で、大正時代に東京に移り住みつきました。北陸地方は昔から浄土真宗の信徒が多いと言われ、わが家も浄土真宗であり、祖父は東京で墓を立てますが、浅草の東本願寺を菩提寺としました。

その寺へ、先代の命日の日近くに会社の幹部と墓参することが恒例となりました。もう5~6年前からです。今年は3月21日の祭日を利用して、幹部2人と、今回から息子も参加し行ってきました。墓参りを終え浅草で、皆で食事をすることも定着しました。

私の小さい頃は娯楽が少なかった時代です。その浅草へ父に連れられて、家族で映画を観て食事をするのが、一番の楽しみでした。行きつけの寿司屋さんに入ると、父はカツレツやビフテキを頼みます。寿司屋のご主人が、近くの洋食屋さんから出前を取ってくれました。

そんな無理も聞いてくれたのは、父が大学の相撲部の先輩にお供して、学生の頃から通っていた寿司屋さんだからこそです。家内と結婚する前に、家内の両親と内の両親が初めて顔を合わせたのも、この寿司屋さんの二階でした。

そのような父との想い出もあり、息子が小さい時墓参りに行った後、同じように浅草では二人でよく食事をしました。父が贔屓にしていたお店は他にもありましたが、閉じてしまったお店や、経営者が変わって雰囲気が違ってしまったお店もあります。昔とはだいぶ変わりましたが、私にとっての浅草は先祖の墓が在る浅草であり、まだ人情味が残る浅草です。

父が亡くなって29年が経ちます。命日の墓参りに同行する幹部にしても息子も先代の顔を知りません。しかし墓参りをすることで、先代を偲ぶことや、会社の原点を振り返る気持ちは大切にしたいと思います。身体の不調を訴え、病院に急遽検査入院して、臥せってほぼ一ヵ月で櫻のようにパッと散った。この時期の櫻は先代に重なります。
 
「大きな立派な墓ほど、お供え物を見ているとお参りに来ていない」と、或る人が言っていました。お墓は在ればそれで良いものでもありません。お参りをして、故人を身近に感じてこそお墓の意味があると思います。

墓じまいをして墓が存在しなければ、先祖に寄り添う場所すら無くなります。目に見えないから仏も神も存在しないし信じないという人も多いと思います。見えないけれど、そこに行けば何かを感じる歳となりました。

両親に連れられてお墓参りをした時は、単に祖先が眠っている所との感覚でした。最近お墓参りに行くと、いずれ自分がここに入るのだとの認識に変ってきました。
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小才、中才、大才

2019年03月23日 06時11分12秒 | Weblog
『柳生一族の陰謀』という映画をWOWOWで観ました。1978年(昭和53年)の東映の作品です。東映が当時のオールスターを揃え、久しぶりの時代劇を復活させた大作のようです。昭和53年といえば私は26歳、当時の公開自体記憶にありませんが、今観ると凄く古い時代のものに感じました。

「徳川二代将軍秀忠が病気のため急死。三代将軍は秀忠の長男である家光が継ぐべきだったが、秀忠を始め家族達はみな次男の忠長を次期将軍に推していた。家光派の松平伊豆守は柳生但馬守宗矩に相談。こうして血で血を洗う権力闘争の火ぶたが切って落とされる」。大筋はこうですが、史実とフィクションで織り交ぜた壮大なドラマです。

ここで出てくる柳生但馬守宗矩とは柳生宗矩のことであり、父とともに徳川家康に仕えた剣術家です。新陰流の達人であり秀忠や家光にも剣術を指南し、後に大目付となり幕府の政治にも関与した人物です。この映画を観た数日後、偶然にも新聞のコラムで柳生家の家訓を知りました。

“小才、縁に出会って縁に気付かず。中才、縁に気付いて縁を活かさず。大才、袖触れ合う縁をも活かす”がそれです。この才とは勿論才能あるいは感受性とも解釈出来るが、この才とは「強い意志である」と、そのコラムを書いている人が言っていました。

少し話題がそれますが、先日ミュージカル劇を観に行きました。ミュージカルは、私にとっては、当時の市川染五郎がドン・キホーテ役をやっていた『ラ・マンチャの男』以来です。観に行ったのは、それこそ『柳生一族の陰謀』が公開されていた時期だったかもしれません。

題名は『何処へ行く』、ミュージカル座が主催しているものです。そのミュージカル座は、舞台芸術学院という専門学校の演技講師を務めていた脚本・演出家が、同学院の卒業生からメンバーを集めて、新しい国産ミュージカルの創造と普及を目的に、1995年に創立したミュージカル劇団です。

『何処へ行く』の内容は、西暦60年代のローマ帝国を舞台に、主人公の男女の恋愛、暴君ネロによる原始キリスト教徒への迫害、ローマの大火や格闘場での戦いなど、波乱万丈のストーリーを現代的な音楽とスピーディな演出で描いた作品でした。

そのミュージカルを何故観に行ったのかです。出演者の一人の役者さんを知っていて、案内をもらったからです。取引先のお客さんに連れて行ってもらった銀座のスタンドバーで夜働いていて、昼間はミュージカルの仕事に専念している女性です。音大の演奏声楽科を卒業して明るく元気な子です。
  
前回のブログにも書きましが、その俳優さんと居酒屋で知り合っていなければ民藝の演劇を観に行くこともなかったでしょう。今回ミュージカルに行くことを家内に告げると、その歳で軽々しく恥ずかしいと言われましたが、誘われなければミュージカルなどは絶対に行かなかったでしょう。行ったなりに、その音楽や演出に興味が湧きました。
 
柳生家の家訓は、柳生宗矩の言葉のようです。父の宗厳から徳川家康に仕えました。宗矩は関が原の合戦に参戦し、功を立てたことにより父の時代太閤検地の際没収された旧領大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功し、更に後二代将軍秀忠の剣術指南役となったことで1000石増加されて3000石の大身旗本となります。袖触れ合う縁をも活かす、宗矩がこの言葉を大切にしたことが理解出来ます。

私の場合は、縁に出合って、興味本位なのかもしれません。才、「強い意志」で動いている訳ではありません。軽々しいかもしれませんが、自分では知らない分野を発見することは確かです。
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正造の石(その2)

2019年03月16日 09時48分30秒 | Weblog
古河市兵衛が興した銅山事業は、古河鉱業の経営となり、古河財閥を形成して今日に至っています。その古河鉱業は平成元年に、社名を古河機械金属に変更します。鉱山の撤退を経て、長年の鉱山開発技術の蓄積に支えられ、事業の多角化に成功し、現在では削岩機などの土木鉱山用機械のトップメーカーとして広く知られています。

足尾が銅生産量日本一となる明治の中頃に、鉱毒については当時の政論新聞で既に報道されています。その後田中正造が中心となり国に問題提起をするものの、加害者は決定されませんでした。古河側は戦前・戦後、土壌や用水の改良工事などに資金提供をしたり住民に永久示談を提示したりしてきましたが、提訴されていた古河鉱業が昭和49年に、ようやく加害者と判定されます。足尾銅山が100年公害と言われる所以です。

話を演劇“正造の石”に戻します。引用したパンフレットの中に、「サチは福田家の内情を密偵するように官憲に命じられていたのだった」とありました。福田家を紹介した正造から、主人公のサチは渡良瀬川の石を手渡され、そして上京します。その電車の中で近寄って来たのが官憲です。

サチの兄は当初鉱山反対運動に加わっていましたが、徐々に出世を目論見、国側に寝返って行くのです。その兄が差し向けたのが官憲でした。官憲からサチは、婦人解放運動家・福田英子を探るように強要されたのです。

実はその官憲の役をしていた俳優さんですが、私の知っている方です。一年半ほど前に、西葛西の居酒屋でお客さんと飲んでいる時に、初対面でそこに居合わせた方にパンフレットを頂きました。近くその方が出演する劇団民藝公演のパンフレットでした。熊本出身で61歳、以来6回その俳優さんの出る公演を観させてもらっています。

「またかと思いかもしれませんが、お芝居のご案内です。昨年は旅公演も含め五つの面白役をやれた幸せな年でした。今回、僕は主人公を影で操るクールな警視の役をやります。悪役は大好き!ご覧頂ければ幸いです」。この度はこのような手紙が入り、“正造の石”の公演の案内をもらいました。

過去観たものは、それぞれに印象深い劇でした。敗戦の翌年から二年半にわたって行なわれた「東京裁判」(極東国際軍事法廷)をテーマにしたものや、粘菌の研究で有名な民俗・植物学者の「南方熊楠」を題材にしたものなど、観終った後も心に残りました。6回観たものは、大よそ史実に基づいています。

今回の公演も演劇が終わった後、観客が舞台に上がって装置や大道具や小道具を見学できるバックステージツアーや、観客と登場した俳優と質疑応答などができる交流会もありました。その交流会で、正造役をやっていた俳優が、正造を徹底して調べてみて、時代背景や多くの史実を知ったと語っていました。

舞台は、撮り直しができる映画と違って、毎回役者さんは真剣勝負です。公演期間中は体調管理も重要です。そこがプロたる所以なのでしょう。私が知っているその俳優さんは、「悪役は大好き」と言いますが、大好きな役でなくても与えられた役に、毎回成り切っていて迫力が伝わってきます。

その俳優さんと知り合いっていなければ、私は舞台の世界を体験していなかったと思います。舞台は一見非日常のように感じますが、どこか現実の世界と繋がっていて、今の自分の生き方も考えさせられます。

福田英子役を演じた樫山文江さん 
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正造の石(その1)

2019年03月09日 05時46分53秒 | Weblog
“正造の石”という題名の演劇を観ました。明治末の東京を舞台に、一人の若い女性の成長と苦悩そして自立を目指していく姿を描いた作品でした。新宿の紀伊国屋サザンシアターで行なわれていた、劇団民藝が主催する2月の公演でした。

日露戦争の勝利に国中が湧き立っていた頃、北関東にある谷中村では足尾銅山から流出する鉱毒によって水や田畑が汚染され、農民達は病と貧困に苦しんでいた。新田サチの家の被害も甚大だった。事態が深刻化するなか、サチは婦人解放運動家・福田英子のもとで住み込みのお手伝いになるために東京に向った。自由と平等の権利を求める活動家達に囲まれ目まぐるしい日々を送る英子にサチを紹介したのは、足尾銅山閉鎖を国に訴え続ける田中正造だった。「何の値打ちもねえが、世界でただ一つの石だ」。渡良瀬川で拾った石を正造はサチの手に握らせて送り出す。しかし、サチは福田家の内情を密偵するように官憲に命じられていたのだった。サチはひとつの詩に出会う、サチの心に輝きがともった・・・・ 【パンフレットの引用】


田中正造については多少の知識はありましたが、この芝居を観終って、足尾銅山などについても興味を持ち調べてみました。田中正造は、生涯をかけて足尾銅山鉱毒事件を追及した政治家です。衆議院議員として国会でのその活動や明治天皇への直訴(未遂)後、谷中村に戻って農民たちの先頭に立ち、法で強行する立ち退き命令に対して徹底抗戦を行なった人物です。

福田英子は実在の人物です。19歳にして自由民権運動に身を投じ入獄、婦人解放運動のさきがけとなり「東洋のジャンヌ・ダルク」と称されたようです。サチは脚色による架空の人物で、劇中では石川啄木が登場し、字は読めないサチでしたが、その詩に魅せられ啄木に憧れます。芝居の魅力は実在と架空を入り混ぜるところかもしれません。

そもそも足尾銅山や鉱毒問題とは。銅山は昭和48年に閉山となりますが、現日光市足尾地区で室町時代末期に鉱床が発見され、江戸時代に入り幕府直轄で本格的に採掘が開始されます。幕府は足尾に鋳銭座を設け、造ったのは当時の代表的通貨である寛永通宝であり、町も大いに栄えます。江戸時代前期をピークとして産出量は低下し、幕末にはほとんど廃山の状態となっていました。

明治維新後、鉱山の将来性に悲観的な意見が多い中、明治10年に民間に払い下げられます。その経営に着手したのが古河市兵衛です。当初全く成果が出なかったものの、数年後待望の有望鉱脈を発見し、更に西欧の近代鉱山技術を導入して次々と大鉱脈を発見し、足尾は日本最大の鉱山となり、その後も生産量を増やし東アジア最大規模の銅の産地となります。市兵衛の死後、明治38年会社としての古河鉱業の経営となり、政府の富国強兵政策を背景に、会社は急速に大発展を遂げます。

その古河市兵衛は京都出身。生家は代々庄屋を務めましたが父の代には没落寸前、幼少の頃から苦労をします。大人になり豪商の番頭として生糸取引に従事するも、同社が破綻。市兵衛は自身と豪商の資産を、取引があった第一銀行に進んで提供することで同行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢栄一の信頼を得ます。市兵衛は独立しますが、渋沢栄一などの資金援助で、有利な条件で鉱山事業に進出していきます。市兵衛はあの古河財閥の創業者です。古河財閥は足尾銅山急発展の中で形成されていきますが、その陰に、日本の公害問題の原点ともなる鉱毒事件が発生することになります。

その公害問題を、身を賭して国に訴えたのが、今回の芝居にも出てきた田中正造でした。71歳で没した時は、財産を全て反対運動に使い果たし無一文。財産といえば長年持っていた信玄袋で、書きかけの原稿、聖書、そして小石三つなどが入っていたようです。劇中サチに手渡したのはこの石なのです。
  ~次回に続く~
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サービスを受ける(その2)

2019年03月02日 10時11分15秒 | Weblog
“サービス”の語源を調べてみると、ラテン語のservus(奴隷)とあります。これから、英語のslave(奴隷)、servant(召使い)、service(奉仕)という言葉が派生したようです。元々のサービスとは、受ける人が上位にいて提供する人が下位にいるようなタテ関係において、物を伴わない労役や用役だったことが分かります。

現代でそのサービスを使ったサービス業と言えば、第一次産業や第二次産業のような物財の生産を主とする業種に対し、第三次産業のような無形財の提供が主となります。例えば、運輸、通信、金融、保険など業種は多種多様です。飲食業は商品(食べ物)を提供する業種でも、人が介在するサービスの善し悪しで消費した後の充足感も違ってくるならば、サービス業の分類となるのでしょう。

前回事例に出しました、注文を間違えるレストランや、注文したものを忘れる居酒屋や、無愛想な個人タクシーは、後に物は何も残りませんが、受けた側の心に引っ掛かりは残るので、サービスの本質を忘れないで欲しいと思います。

しかし今やネットショップ(電子商取引)やAIを駆使したビジネスは、表向き人を介在させず、そのサービス業の概念を変えようとしています。またネットには検索やSNSなど無料サービスがあふれています。そこから吸収される膨大なデータや加速するデジタル技術の進歩は、世界経済を作り変えてしまうとも言われます。
 
新聞で興味深い記事を読みました。「いくらもらえたらLINEを1年間止めますか?」。或る学生が卒業論文をまとめるため、約1,200人に質問をぶつけたそうです。日本だけで7,900万人に上る利用者に、LINEは無料でメッセージのやり取りや通話を提供しています。質問のその結果は、「1人当たり大よそ300万円」。無料サービスに利用者が感じる価値の大きさが、浮き彫りになったとのことです。

そんな高価なサービスが無償で提供されています。しかし巨大デジタル企業は、利用者からその対価として個人情報を吸い上げていますが。それよりも注目したいのは、人々は無償でサービスを受けている時は、価値を見出さないけれど、「それが無くなったら!?」、そこで始めて利便性や有用性の価格に置き換えた価値を認識するのです。

ですから対価をきちんともらっている現行のサービス業は、サービス価値を認識してより木目細かなものにしなくてはなりません。人が介在するそのようなサービスを求めている人がいる限り、現行のサービス業の全てが、ネットショップやAIに切り替わる訳でもありません。

サービスに対して、ホスピタリティという言葉があります。ラテン語のhospes(客人の保護者)が語源のようです。昔の巡礼の旅人に、無償で飲食のもてなしをしたり看護を施したり、宿泊施設の提供などをしたことに始まるそうです。

この提供者ホストがその利用者ゲストに喜びや感動を与え、ゲストの喜ぶ姿を見て、ホストも喜ぶというのがホスピタリティの精神です。従ってお互いはヨコ関係となり、パートナー同士の喜びの共有が大事であり、提供したものの対価が目的ではありません。

外でサービスを受け、「金を払っているのだから当たり前だ!」ではなく、サービスを受ける側もホスピタリティを大切にして、感謝しながら、私は接したいと思っています。雪の日のガソリンスタンドの青年から私はエネルギーをもらいました。互いに気持ちが通じ合えば、満足は倍化します。サービスの提供者の「ミスに怒らない」「行為にありがとう」、受ける側も努力したいと思います。
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