梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

活かされる失敗・活かされない成功(その2)

2018年04月28日 08時09分36秒 | Weblog
日本海海戦といえば、今から113年前大日本帝国とロシア帝国との、日露戦争での戦いです。三笠を旗艦とした日本の連合艦隊は、当時世界最強といわれたバルチック艦隊を撃滅し、戦力のほとんど失わせ、日本側の損失は極めて軽微という成果を上げました。

ロシアの敗因(失敗)と日本の勝因(成功)については、日本側の先見の明や周到準備や偶然の味方など、ロシア側の侮りや準備不足や予期せぬ不運など、いまだに語り尽くされていませんが、戦いが始まりほぼ30分で勝敗が決まる、海戦史上稀な圧倒的勝利となったのです。

両国の損害を比較すると、ロシア側/21隻沈没:拿捕6隻:中立国抑留6隻:戦死者4,830名に対し、日本側/3隻沈没:戦死者117名です。日本の沈没3隻はいずれも小型の水雷艇で、内2隻は互いの衝突によるものです。実質的に攻撃されて沈没したのは、たった1隻となります。

日本が大国帝政ロシアにこのように圧勝し、当時の日本人がその勝利に酔いしれたのも十分に理解は出来ます。しかしその後、燦然たる戦歴を持ち帰還した戦艦三笠で起こった事故については、現在の日本には知らない人が多くいるかもしれません。

戦争終結直後の明治38年9月11日に、三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故で沈没し、この惨事で399名の死者を出します。弾薬庫前で、当時水兵間で流行っていた「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む」、その隠れての飲酒の最中に、誤って火のついた洗面器をひっくり返したのが原因とされています。日本海海戦の戦死者の、約3倍の死者を出す大失態をしてしまいます。

“連合艦隊解散の辞/訓示”なるものがあります。戦時編成の連合艦隊を解散し、平時編成に戻すこととなり、同じ明治38年12月21日に行われた解散式において、連合艦隊司令長官の東郷平八郎が読み上げたのが、それにあたります。

訓示の骨子は、日露戦争と歴史を紐解きつつ、国家における海軍の大事さを説き、平時における海軍や軍人の在り方について示唆し、有事に備える心構えの重要さを示しています。文面の起草は、日本海海戦で大活躍した参謀秋山真之です。

解散の辞最期の一節は、“神明は、ただ平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に、勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より、ただちに之を奪う”とあり、最後の言葉は“古人曰く、勝って兜の緒を締めよ・・・と”です。

大成功に有頂天になっていた兵隊(国民)により:「一勝に満足して治平に安ずる者より」、大惨事を引き起こし:「ただちに之を奪う」、古来日本に伝わっていた戒めを:「勝って兜の緒を締めよ」、実践出来なかった。活かされなかった成功として、秋山真之の無念さがここに滲み出ていると感じました。

三笠は第二次世界大戦後の占領期には、ロシアからの圧力で解体処分にされそうになりましたが、横須賀市の三笠公園に記念艦として残っています。先日、経営者の勉強会でじっくりと見学しました。「失敗をしない」勉強をするのではなく、「失敗から学ぶ」勉強を心掛け、成功に慢心しない謙虚さを持つことを痛感しました。

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活かされる失敗・活かされない成功(その1)

2018年04月21日 06時19分02秒 | Weblog
今月の日経新聞“私の履歴書”は、ジャパネットたかた創業者の高田明氏です。実父が経営するカメラ販売店から独立し、徐々にラジオやテレビによる通信販売事業に乗り出して18年が経過し、会社も急成長し年商も700億円を超えていた時期です。そこに突如として顧客情報流出問題が発生します。

流出した顧客情報は51万人分、6年前からだと判明。そして3ヶ月後警察の捜査で、2人の元社員が逮捕されます。高田氏は、責任は全て社長の私であり、甘い認識と想像力の欠如と猛省して、自主的に2ヵ月近く営業を自粛します。その結果、販売の機会損失は150億円に上りました。

これを契機として社内の情報管理体制の構築に乗り出します。また高田氏は、信頼していた社員が何故との思いから、『何のための会社か』『お客様や取引先に何をすべきか』といった経営理念を社員と共有することの必要性を痛感します。「事件での対応を危機管理のお手本と評価する専門家もいるが、これは美談ではなく、私にとって人生最大の汚点であり、それは100年経っても消えることはない」と、氏は断言しています。

同じようなことで今世間を騒がせているのは、米フェイスブック(以下FB)の個人情報の大量流出です。利用者数は20億人に達し、今回の流出件数は8700万人とのことです。FBにとっては2004年の創業以降初めて直面する苦境ですが、歪んだ急成長もここにきて明らかにされています。

「ユーザーを増やすこと。ページ滞留時間を増やすこと。毎月の目標はただそれだけだった」「トップのザッカーバーグと一握りの側近、その彼らが示す成長目標は絶対。未達などあり得ない。20億人という利用者はやみくもに成長を追った末の数字だ」。新聞の記事に書いてあった、FBのOBの言葉です。

20億人までユーザーが増えれば、広告媒体への価値も増大します。つまりFBは大量の個人データを基に広告で稼ぎ、無料でサービスを提供しているのです。売上高に占める広告収入は98%に達し、17年12月期の営業利益は約2兆2千億円と言われています。

20億人への影響力から半ば「公の空間」となったのに、プライバシーを守るルールは後回し、金儲け主義に走ってきた。このようなFBの実態が浮かび上がります。

ジャパネットたかたを一代で育て上げた、高田氏は3年前66歳の時に、長男に経営を譲りました。退職後は、社内で何の役職にもつかずに会議にも一切出たことがないそうです。「会長か顧問にもならずに正解だった。そうなったら社員がみな私の処にくるようになり、二重構造は弊害を生む。トップは一人でいい」と、氏は言い切ります。前述の「顧客流出問題は、私にとって人生最大の汚点であり、それは100年経っても消えることはない」。この教訓は後継者にもしっかりと受け継がれることでしょう。

FBのザッカーバーグについて言えば、今回の個人情報の流出は、本来けん制が効くはずの取締役もイエスマンしかいず、悪い情報が入らない「裸の王様」なっていた恐れを指摘されています。しかしこの不祥事が、若きトップの再起への変身のチャンスになればとの、期待の声もあります。

活かされる失敗があれば、活かされない成功もあります。日本の歴史において、大国との戦いに大成功を収めたにもかかわらす、その驕りや気の緩みから大きな失敗を招いた例を、最近私は身近に感じました。 
 ~次回に続く~
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他人の視点とは

2018年04月14日 10時09分56秒 | Weblog
このブログを書き始めたのは2006年の4月頃からでしたので、既に12年が経ちます。12年前は、私が53歳(若い!?今からすれば) の時です。当初は文章の量も少なく、毎週一回はアップしようと決めたものの、投稿する曜日もまちまちでした。

現在のように週末の土曜日午前中にアップするようになったのは、それから3年後です。その時々に感じたことや考えたこと、また出逢った出来事を、自分なりにまとめることで、一週間の区切りをつけ整理された気持になってくるようになりました。

今日までこのブログを継続できたのは、皆様が読み続けて下さったからこそです。改めて御礼申し上げます。ブログはほぼ一方通行なので、見て下さる方全てを把握できませんが、一週間の閲覧回数を見ていますと、おおよその方々はリピーターとして読んで下さっていると感じています。

投稿する前に文章の誤字脱字があるかどうか、チェックしてもらうのは家内です。以前は「こんなことまで書くの」「身内のことをさらけだすようで恥ずかしい」など、内容についてもクレームを言われました。また取引先のあるお客様から、わが社の機械が壊れ混乱している記事を読まれて、「内部の欠陥を口外するなど、誰が(ライバルも)見ているか分からない、危機管理が甘い」とお叱りを受けたこともありました。

確かにそこは考慮する必要があり、修正すべきところは直してきました。しかし、ありきたりの日常をただ書いても、読んで下さる側からしたら面白くないはずです。私は極力、出来るだけ事実や内実を書くことに努めてきました。

話は変わりますが、この度、鉄鋼業界紙のコラムに投稿することを依頼されました。毎週一回それは掲載されますが、十人の執筆者がいて、一人としては3ヶ月に一回の割合で、一年間書いてもらいたいとのことです。つまり年間4回、書くことになります。

どうして私に依頼があったかというと、親しくしているその業界紙記者の方から話がありました。本来話し下手で書くことも得意ではない私ですが、私で本当にいいのかと確認した上で、書くことの訓練だと思いお引き受けしました。

正直申しますと、今までそのコラムには興味がなく、読んでいませんでした。改めてそのコラムを読んでみました。どのような人が書かれているかと言いますと、経産省の方、短期大学の学長、業界団体の会長、メーカーの役員、大手企業の社長等々、ブログと違って見ている人数も圧倒的に多いでしょうし、引き受けてしまった後ですが、たじろいでいます。

「話すときも書くときも、自分が言いたいこと書きたいことではなく、他人が聞きたいことや読みたいことにしなさい」。これは私が普段から師事している先生の言葉です。この視点が無いと、相手は興味を示さないとの意味です。

新聞社の記者の方は、テーマも書く内容も何でも構いませんとは仰ってくれます。他人が聞きたいことや読みたいことを、いざ書くとなると中々難しいことです。少なくともこのような視点を意識しようと思っています。

今回のコラムも事前にチェックしてもらうのは、当然家内となります。以前ブログでも、「今回は内容が難しい」とか「今回は話が面白くない」とか、あからさまに酷評を浴びせられました。他人が読みたいこと聞きたいことの視点のヒントは、案外身近に居る、家内かもしれません。
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元役員との邂逅(その2)

2018年04月07日 05時37分40秒 | Weblog
取引先で破綻した会社を、一週間弱で精査してもらっての常務の結論は、わが社がその事業を引き継いで勝算はあるとのことでした。その事業の採算や将来性を常務は洗い直し、私は最終判断を下すだけです。この時に常務が行ったのは、実態を調べ尽くし上申する、商社で培われた任務であると私は感じました。

そしてわが社は、長年の鋼板販売事業の他に、新たな加工事業に進出する決断をします。その後は決して順風満帆ではなく、それからがむしろ苦難の本番でした。金融債務を切り離し、一般債権者であるわが社がその経営者と結託して会社の再生を計ったと、そこのメインの銀行からは詐害行為だと訴えられました。係争は半年以上にも及びます。

また、その会社の従業員をほぼ全員わが社で再雇用したので、賃金体系や社風まで異なる有り様でしたので、調整には数年を費やすこととなります。しかし現在この事業はわが社の大黒柱となり、厚板流通で生きていく為に必要不可欠な機能となり、加工事業が無ければ、今日の梶哲商店の存続はなかったと言っても過言ではありません。

わが社はオーナー会社であり社員も多くありません。最低限の会社の規約や規定はありましたが、未整備のものも多く、常務はわが社に見合った規約規程を完備してくれました。嫌われ役を買って出て、幹部社員の指導や教育についても力を尽くしてくれました。
  
メーカーから商社を窓口とし材料を仕入れるにしても、買う側の立場からだけの交渉で、売る側がわが社をどうみているかは中々理解できません。その視点において、商社に在籍していた常務の見解は、大いに助けられました。会社経営にしても何か新たに事を行う上でも、常務は私の参謀として更に補佐役として支えてくれました。

溶断加工事業も何とか順調に回るようになり、前の会社から引き継いだ八街工場も浦安に集約した段階で、体力や気力の限界を感じたと常務は10年前わが社を退職されます。第一線を退いて、それ以上に本来ご自身でやりたいこともあったようです。

もとより常務は無類の読書家です。歴史、哲学、思想、宗教、経営等々、ジャンルを問わず読書を通して学んでこられました。時間があったら、喫茶店やファミレスで2時間でも3時間でも本を読むことを楽しみにされていました。

わが社を退職された後、江戸川区が主催する地域貢献を志す人々を応援するための、総合人生大学に通われました。またその後は一般の大学の通信教育部に入学され、単位も取って、見事に卒業されました。それから暫くして、筋肉が萎縮する難病に罹ってしまい、通院や退院を繰り返されます。

退職後の常務とは定期的に逢っていましたが、いつまでもわが社のことを気に掛けて下さいました。病気は回復せず、お一人で外出も出来なくなり、奥様も仕事をされていますので、一時期は介護施設に入所していました。最後に電話でお話をしたのは亡くなられる一ヵ月前のことでした。結局その筋肉萎縮は肺癌が原因だったようです。

邂逅(かいこう)とは予期しない必然的な出逢い・巡り会いと言いますが、「人生で逢うべき人には必ず逢わされる。それも一瞬たりとも早過ぎもせず、遅過ぎもせず」「人の運命は邂逅によって変わる」と、今は亡き教育者森信三氏は言っています。

振り返ってみると、常務とは「なぜこの時に、この人と」と思うような不思議な出逢いでした。私の人生を大きく変え、わが社をも変革させたのは、常務との出逢いによります。
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