梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

梶哲“心の記念日”(その2)

2014年11月29日 10時36分19秒 | Weblog

わが社には創立記念日のような、毎年巡ってくる特別な日はありませんでした。昭和27年の11月に、先代が創業したことは確かです。しかし一人だけの個人商店でしたので、創業日が「いつか」は特定出来なかったのかもしれません。

前回書きました経緯を以て、今年から11月22日を梶哲の記念日としました。今年この日は土曜でしたので、26日の日に昼休み社員全員でお弁当を食べて記念日を祝い、生憎26日が雨でしたので、翌日屋外にあるモニュメントを皆で綺麗に磨きました。

このモニュメントを見ていると、60周年行事の半年間の準備のことが蘇ります。実行委員が行なっていく企画や運営についてどうするか、社員全員参加の余興についてはどうするか、私の立場や心構えを決めなくてはいけなかったことです。

社員にしてみれば対外的に行なうことは、大変な負担が掛かることです。私は、初めから全員が賛同してくれるとは考えていませんでした。決定してから皆が行動に移すまでは時間は必要だと思っていまたし、中途半端に口を挟めば本来持っているやる気を喪失させます。実行委員に極力任せること。むしろ私が、それをじっと見守れるかでした。

やらされ感を無くすのは、社員が楽しんで能動的に動くことです。特に余興についてはそれが表れると捉え、普段偉そうなことを言ってくる社長をぎゃふんと言わせる位の雰囲気が必要だと思っていました。余興は私も参加しましたが、役回りや演技は一切社員に従い言われたことに逆らわない。結局は社長の私が、恥や外聞を捨て切れるかでした。

実際、何も言わず黙ることは“言うは易く行うは難し” でしたが、それに応えるように社員がアイデアを豊富に出してくれました。私としての一番大事な仕事は、社員に任せた以上は、最後は責任を取ること。そのようなことを、私自身が勉強しました。

去年60周年行事を行なって、それから一年が経ちました。結果はどうであれ、事を起こして皆で成し遂げたことの確証は残りました。“為せば成る なさねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり”、それが心に刻まれた、その意味ではやはり心の記念日です。
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梶哲“心の記念日”

2014年11月22日 10時08分23秒 | Weblog

本日は11月22日です。世間ではこの日を、語呂合わせで「いい夫婦の日」と言うようになりました。わが社においては、この11月22日は特別な日となりました。ちょうど一年前のこの日に、創立60周年の記念式典及び祝賀会を行ったからです。  

去年の4月に、創立60周年行事を対外的に行うことを決断しました。少なくとも半年前に決定しておかなくては、準備は間に合わないと思ったからです。出来る限り自分達の手作りで行うことを基本として、多くの時間を費やして準備を進めてきました。

先ず実行委員会を立ち上げそれからの半年間は、記念誌を編集し、鉄のモニュメントを造り、皆様への記念品のネームプレートを作成し、自社工場を披露する為整備を進め、会場となるホテルと度々の打合せをし、社員全員参加の余興の練習をしながら、11月22日へ向かって行くこととなりました。

社員の最大の課題は、その三部作の余興が果たして上手く行えるか、でした。我々はプロではありませんが、仕事を終わってから度重なる練習を積んで本番に臨んだつもりです。直前の10月は仕事も急に忙しくなって、余興の練習も深夜に及ぶほどでした。

さて当日です。リハーサルを終わってダメ出しをされて、それから式典に突入。多くの皆様にご臨席を賜りました。第二部の祝賀会、外部の応援余興も終わって、我々の番です。本番のステージは練習の場とは全く違って、魔物がいる世界でした。大勢の観客を前にして極度の緊張をしたのです。

しかし、不思議な体験をしました。本番の僅か10分前に、皆の心の波がおさまるのを感じました。多くの皆さんの熱狂的な応援に救われたのか、我々が開き直ったのか。正に神が落ちて来るような瞬間で、今までの不安が吹っ切れたのです。

一年が経過して、今だに60周年の話を持ち出して下さるお客様があります。外部の皆様にどう映ったかは我々には全て理解出来ませんが、少なくとも社員の間では去年のこの日、達成感と充実感と満足感が残ったことは事実です。

当初対外的に行なうことを、社員全員が必ずしも賛同していた訳ではありません。しかし60周年行事を通して、事を起こすことの大切さを知りました。そして会社が一体化になることを実感したこの日を、梶哲の“心の記念日”といたします。
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隣の芝生は・・・

2014年11月14日 22時32分09秒 | Weblog
「社長、階段の注文がとれました!」そのような報告が、常務からありました。過去わが社では、階段の部材は受注したことはありましたが、階段まるごとの受注は初めてです。建物の中にある階段ではなくて、建物の外に附ける、外階段と言われるものです。

わが社は鋼板の素材販売や一次加工が専業でしたので、二次加工や三次加工、そして完成品を受注することは、数年前まではあり得なかったことです。専門外の注文を、勢い受けてしまって、失敗して苦い経験をしたこともありました。その苦い経験は、次へのステップとして活かされました。

現在わが社の目指すことは、お客様からの無理難題に如何に対応するかです。自社で内製化出来る加工については短納期や特別な要望に対応することと、自社で出来ない加工については外注先ネットワークを駆使して、わが社の許容範囲を拡大することです。

完成品の階段は、当然外注先に依頼することとなります。依頼先は階段を製作するメーカーですが、過去その先には鋼板素材を販売して来ましたし、一方その先からは階段の一部部材を受注する等、売り買いの互恵関係があったところでもあります。

自社加工する仕事については、営業と業務と現場が三位一体となって社内で協力し合わなければ、外部からの無理難題に応えること等到不可能です。社内の一致団結は、まだまだ途上段階ではありますが、わが社が目指す重点課題として取り組んでいます。

最近同じ販売先の会社で、もう一つの事業所を紹介されました。もう一つの事業所は従来の仕入先はあったものの、試しに梶哲に引き合いを出してみたらどうかと、そこの担当者を紹介してもらいました。わが社の有用性を、従来の取引があった事業所の方が少なからず認識をして下さったと、嬉しく思う出来事でした。

“隣の芝生は青い”という言葉があります。はっきり確証も得ていないのに他人の物は何でもなんでも良く見えることの例えで、自分を認識せず努力をしない戒めでもあります。無理だとか出来ないだとかは超越して、自社の中を極めて、創意工夫を続けていこうと思います。
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夢の超特急

2014年11月07日 23時48分26秒 | Weblog

特別でしたが、私はこの一か月の間に新幹線で東京と関西とを4往復しました。ビジネスでも旅行でも、我々にとって新幹線は欠かすことが出来ない交通手段となりました。調べてみると、東海道新幹線は一日40万人、年間で1億5千万人もの利用客があるようです。

昭和33年に建設が承認され、計画が実現に向かうにつれ、新幹線のことをいつしか「夢の超特急」と表現すようになりました。構想時、東京~大阪の所要時間が特急列車で6時間以上掛かったのが、3時間にまで短縮化することからこの呼び名が付いたようです。今では使われませんが、我々の世代には懐かしい言葉です。

実は私と弟はこの開業直前に、試運転車に僅かな一般人の中に混ざって乗せてもらったことがあります。父親が国鉄の偉い方を間接的に知っていたのか、横浜と小田原の区間だったと思いますが、それこそ夢見心地の試乗でした。その東海道新幹線は、昭和39年10月1日に開業して、今年で早50年となりました。

利用客の利便性を追求して、車両を改造し運行システムを改良しながら、この50年間新幹線は進化し続けています。新幹線がもたらす日本における経済効果は莫大なものがあります。しかし一方で新幹線は、首都圏、特に東京の経済一極集中をむしろ加速させているとも評されます。

前から知ってはいましたが、東京駅東海道新幹線18・19番ホームの先端に開通記念碑があるのを、今回初めて見て来ました。十河信二(そごうしんじ)、第4代国鉄総裁の顔のレリーフが掲げられています。戦後どん底まで落ちた国鉄の名誉を回復すべく、また海外の多くの専門家がこれから鉄道は斜陽だと言われる中で、新幹線構想を打出した立役者です。

その十河国鉄総裁と二人三脚で建設を遂行した、卓越した鉄道技術者、島秀雄の名前も忘れてはなりません。そのホームの中ほどにある階段を降りたところ、「この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」との、開通3年後に設置された記念プレートがあります。

日本人ならではの新幹線。日本人の技術と、正に日本人の叡智と努力によって、夢が実現するルーツがここに記されています。改めてパイオニア精神を学ぶ、強い思いが湧き上がります。
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