梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

電車にまつわる話(その2)

2017年10月28日 09時30分47秒 | Weblog
駅のホームに立っている、私の目の前の男性のズボンの上から、トイレットペーパーが垂れ下がっていました。しかし、その男性は自分では全く気付いていません。私は、取ってあげることにしました。それにためらう気持はありませんでした。

むしろ、周りの皆は何故見てみない振りをしているのだろう、との憤りが込み上げて来ました。舞浜の駅のトイレに入って、その不始末に気付かず、ホームに上って来て、電車を待っていたのでしょう。その間、誰も声を掛けていなかったことになります。

ホームには女性ばかりでした。そのような男性に、女性だから恥ずかしくて声を掛けられない。男女の問題は別にしても、事実を伝えて、本人に恥ずかしさを与えてしまう。その場に居た人は、このような感じ方をしたのかと想像はします。しかしこれは、他人(サポートを求めている他人)を無視して、無関心を装っているだけのことです。

では私はどう取ってあげるか、二つの選択肢がありました。一つは黙って取ってしまう。トイレットペーパーですので、恐らくそうしても、男性は気が付かないかもしれません。もう一つは、声を掛けて男性にも分かるように、取ってあげる。

私は後者を選びました。先ずトイレットペーパーを取ってしまい、それを丸めて、後ろから肩に手を軽く掛けて、「このようなものがズボンから出ていましたよ!」と声を掛けました。男性は事態を把握し、驚き、恥ずかしかったのでしょが、気を取り戻したように、口ごもりながらも、お礼の言葉を発しました。

他人に対して、要求されていないお節介は、当然のことながら無用です。今回のケースで立場が逆であるなら、私だったら、教えて欲しいと思いました。不始末を教えてもらった瞬間は、動揺するかもしれませんが、言いづらいことを伝えてもらった人には感謝します。

このような目の前の人が、家族だったらどうでしょうか。必ず注意をするでしょう。では家族と他人との境はなんでしょう。困ったことに遭遇して、サポートを求めているであろう人間が現れれば、家族も他人も区別などないと思います。

話が広がってしまうかもしれませんが、日本人が最近、困っている他人を見てみない振りをして、無関心になっている傾向を懸念しています。前回のブログで書きましたが、同胞意識が薄らぎ、他人と関わりたくない人が昔より増えたように感じてなりません。

今回の男性に対しためらう気持ちが払拭出来て、私を突き動かしたのは、実はコルベ神父の存在です。アウシュヴィッツ収容所で、自分には家族があるからと訴えている囚人の、身代わりになって死の刑を受け入れたコルベ神父です。

アウシュヴィッツの視察研修から、既に一ヵ月半が過ぎようとしています。体験や記憶が薄らいで行くのでなく、更に形を変えて、深化している感じがします。今回の電車にまつわる出来事は、自分をどれ位捨てられるか、試されている感じもしています。
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電車にまつわる話(その1)

2017年10月21日 06時14分29秒 | Weblog
大阪の電車で環状線に乗っていた時のことです。環状線の電車は一部ボックス(対座式)になっています。天王寺の駅から、中年の女性と女子高校生が乗って来て、ボックスに対座して座りました。二人は他人同士です。

私はもっと手前からその電車に乗っていて、天王寺の次の新今宮駅で降りるので、ドアー入り口の、二人が座っているボックスの直ぐ後ろの背もたれに、寄りかかり立っていました。

しばらくして、二人が何か話しています。「取れないですか?」「はい、取れないのよ!」。中年の女性が何かを取り出そうとして、女子高生が心配して話し掛けています。座席のシートと窓側の壁の隙間に、中年女性が何かを落としたようです。

女子高生も立ち上がって中年女性と共に、二人でシートをずらしながら、ちょっとの隙間に手を入れて、その何かを取ろうと必死です。騒ぎになっているのに、反対側のボックスに座っている人は我関せず、見てみない振りを決め込んでいます。

私は用事があり、次の新今宮で降ります。このまま乗って行く、時間の余裕もある訳ではありません。しかし私の中から『後はいいや!どうにかなる』、そんな言葉が出てきて、後ろに行って「どうしましたか?」と、二人に声を掛けていました。

中年女性は、「イコカをこの間に落としてしまって、取れないの!」との返答です。イコカとは、関西で多く使われているICカード乗車券のことです。そして私もシートを左右に動かしますが、隙間は開きません。何回がトライアルしている瞬間、シートの端が上がり、シートは持ち上がり外すことができたのです。

そこにイコカがありました。「シートは外れるのね!」と中年女性はびっくりしていました。次の瞬間、電車のドアーが開き、新今宮駅です。喜んでいるのか安心したのか、放心状態の二人を後に、すぐさま私はホームへ駆け降りました。電車が新今宮に着いてもシートが動かなければ、降りられずに、そのまま私は悪戦苦闘を続けていたでしょう。

知らない振りをして降りてしまう、私にはそんな選択肢もありました。しかし、同時に『本当それでいいのか』と自問し出した自分がいて、大袈裟に言えば『後は運を天に任せよう』、というような気持に不思議となったのです。

話は全く変わります。地区業界団体の創立50周年記念行事があり、ディズニーランドの近くのホテルで食事会がありました。家内と参加して帰るべく、JR京葉線の舞浜の駅に向かいました。舞浜は、ディズニーに来園したお客さんが帰る駅ですので、ホームは結構な人です。

ホームの中央位で、電車を待っている数名の後ろに並びました。前には少し小太りで30歳前後のメガネを掛けた男性が、一人で立っていました。電車のどの入り口近くで待っている人達も、殆どが若い女性達です。一人でぽつんと立っている、男性の後ろに私達は並んだのです。

見るとその男性のズボンの上から、何と白く細長い紙が垂れ下がっているではありませんか。一瞬にして、その紙がトイレットペーパーであることが判明しました。恐らく駅のトイレにでも入り、トイレットペーパーが付いていることに気付かず、ズボンを履いてしまったものと思われます。さて、私はどうすれば・・・。  ~次回に続く~
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コルベ神父とは(その2)

2017年10月14日 09時49分44秒 | Weblog
一人の処刑者の身代わりとなった神父は、更に何と言ったのか。「私はカトリックの神父であり、もう若くはなく、妻も子もいませんから」と申し出たのです。そして牢の中で、神父は一緒に処刑される餓死死刑者のためにひたすら祈り、賛美歌を歌ったといわれます。

一人また一人息絶えていく中で、他の死刑者が錯乱状態で死ぬのが普通であったのに、なお神父は意識を失わず、毅然として生き続け、二週間後さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、天に召されます。亡くなった時、神父の顔は輝いていたといわれています。

とても皮肉な話となりますが、脱走した囚人は、後になって収容所の便所で溺死しているのが見つかりました。つまり神父達は、この発見がもう少し早ければ、餓死刑に処せられずに済んでいたのです。

神父が天に召されたのは8月14日、翌日その遺体は他の多くの遺体と共に焼却されました。その8月15日は、偶然カトリック教の大祝日でもある聖母マリアの被昇天の日でした。「聖母の祝日に灰になり、後に何も残らないように風で運ばれて世界の隅々まで散りたい」と、神父は語っていたそうです。

一方、神父が身代わりになり救われた囚人は、フランシスコ・ガイオニチェクという、当時39歳のポーランド人軍曹でした。その後彼は他の収容所に移送され、そこで連合軍に解放され、終戦を迎え生き延びました。そして彼は、神父の命日には毎年アウシュヴィッツを訪れるようになります。

また、神父の行為を広く世に知らしめるために、彼はヨーロッパやアメリカを回るようになりました。彼の熱心な活動に後押しされ、コルベ神父は1971年にローマ教皇パウロ6世によって列福、1982年にはヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。いずれの機会にも、ガイオニチェクはヴァチカンに招待されました。

「自分の命欲しさのために神父の死の宣告書にサインした」、神父のことを思うたびに自責の念に駆られた彼。だからこそ自分のしたことを伝え続けたのです。そして94歳の天寿を全うします。神父に命を救われて、実に53年と7ヶ月が経っていました。このような幾重にも連なる壮絶なドラマが、アウシュヴィッツにはありました。

神父は生前、「どんな苦しみにも意味がある。戦争という、決してあってはならない状態の中でも、真剣に生きていかなければならない。苦しみや痛みが大きくなればなるほど、イエスさまとマリアさまにささげ、敵をも愛さなければならない」と、全てを受け入れました。

前にも紹介したフランクルも、やはり収容所の中で、自分の人生には未来がないと、自暴自棄に陥っているユダヤ人の仲間に、生きる力を与え続けました。フランクルに劣らず人間の尊厳を大切にして、誰もそれは絶対潰せないと、その精神を貫いた人物、それがコルベ神父です。

神父を今回色々調べてみると、自我を超越している人間でした。二人の人物から、私は、忘己利他を学びます。精神科医だからカトリック司祭だから、特別だったのではありません。二人には高い志の道があり、実践したのです。自分の考えや行動を見直す機会にします。

  コルベ神父

 精神科医フランクル 
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コルベ神父とは(その1)

2017年10月07日 09時45分27秒 | Weblog
今から120年程前にポーランドに生まれた、マキシミリアン・コルベ(1894~1941年)という人物がいました。父親は織物職人。13歳の時にフランシスコ修道会の神学校に入り、その後ローマにも留学して7年間哲学と神学を学び、25歳で司祭叙階を受け帰国します。

それから3年間はクラクフにある神学校の教会史の教授を勤め、33歳の時にカトリック教会における教義の小冊子を発行して、宣教活動を始めます。36歳で「けがれなき聖母マリアを全世界の人々に示す」という大きな夢を持って、ポーランド人修道士たちと共に東方へ宣教に乗り出します。

その地が日本の長崎でした。6年間この布教は続き、1936年に帰国します。そして母国ポーランドは1939年8月ドイツ軍に占領されます。このコルベ神父は「アウシュヴィッツの聖者」ともいわれ、現在ロンドンのウエストミンスター寺院の西側玄関の上に、「20世紀の殉教者」10人の中の一人として神父の像が飾られています。

何故、神父(以下コルベ神父のこと)はこのように人々から崇められるのでしょう。私が神父を認識したのは、先般訪れたアウシュヴィッツ収容所でのこと。正にこの地で命を絶たれました。神父の生き様に衝撃と感動を覚え、それから自分なりに調べてみました。

ドイツに占領されたポーランドで、神父は仲間の聖職者と共に、家を追われて辛苦にあえぐ人々を励まし、神の教えを説きました。神父たちが保護した3,000人のポーランド人の内2,000人がユダヤ系でした。ポーランド人の知識層・指導者も迫害の対象としていたナチスが、ユダヤ人までかくまった神父たちを放っておくわけがありません。

1941年2月、ユダヤ人とポーランド人の抵抗組織を援助した容疑で、神父たちは逮捕されます。イエス・キリストを嫌悪していたヒトラーにとって、カトリック教徒も迫害されるべき存在でした。そして同年5月、アウシュヴィッツ収容所に送り込まれます。

神父たちは連日特別に過酷な労働を課せられます。監視役からは殴打や足蹴りが容赦なく飛んできました。しかし神父は驚くべき沈着さをもってこれを受け入れ、見かねた仲間が彼を助けようとしても、仲間の安全のために、「聖母マリア様が私に強さを下さる、大丈夫だ」と言って断りました。

1941年の7月末、神父の収容されていた14号棟の囚人一人が脱走しました。それが発覚すると、14号棟の600人の囚人は皆、焼け付くような日差しの下に水も食料も与えられないまま一日中立たされました。ナチスSSが探し回ったものの、脱走した囚人はとうとう見つかりませんでした。

一人の脱走者が出ると同じ棟の10名が処刑される掟でした。しかも処刑法は陰惨を極め、座ることもできない狭い懲罰牢に押し込められ、食べ物も水も一切断たれ、餓死させられるのです(その牢をアウシュヴィッツで実際に見ました)。

処刑される10名は無作為に選ばれますが、その一人が「妻や子供にもう一度会いたい!」と泣き叫んだのです。「あの方の身代わりになりたい」と、ある人物が申し出たのです。そして他の9人と共に、その人物は牢の中に姿を消します。  ~次回に続く~

  ウエストミンスター寺院にあるコルベ神父の像
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