駅のホームに立っている、私の目の前の男性のズボンの上から、トイレットペーパーが垂れ下がっていました。しかし、その男性は自分では全く気付いていません。私は、取ってあげることにしました。それにためらう気持はありませんでした。
むしろ、周りの皆は何故見てみない振りをしているのだろう、との憤りが込み上げて来ました。舞浜の駅のトイレに入って、その不始末に気付かず、ホームに上って来て、電車を待っていたのでしょう。その間、誰も声を掛けていなかったことになります。
ホームには女性ばかりでした。そのような男性に、女性だから恥ずかしくて声を掛けられない。男女の問題は別にしても、事実を伝えて、本人に恥ずかしさを与えてしまう。その場に居た人は、このような感じ方をしたのかと想像はします。しかしこれは、他人(サポートを求めている他人)を無視して、無関心を装っているだけのことです。
では私はどう取ってあげるか、二つの選択肢がありました。一つは黙って取ってしまう。トイレットペーパーですので、恐らくそうしても、男性は気が付かないかもしれません。もう一つは、声を掛けて男性にも分かるように、取ってあげる。
私は後者を選びました。先ずトイレットペーパーを取ってしまい、それを丸めて、後ろから肩に手を軽く掛けて、「このようなものがズボンから出ていましたよ!」と声を掛けました。男性は事態を把握し、驚き、恥ずかしかったのでしょが、気を取り戻したように、口ごもりながらも、お礼の言葉を発しました。
他人に対して、要求されていないお節介は、当然のことながら無用です。今回のケースで立場が逆であるなら、私だったら、教えて欲しいと思いました。不始末を教えてもらった瞬間は、動揺するかもしれませんが、言いづらいことを伝えてもらった人には感謝します。
このような目の前の人が、家族だったらどうでしょうか。必ず注意をするでしょう。では家族と他人との境はなんでしょう。困ったことに遭遇して、サポートを求めているであろう人間が現れれば、家族も他人も区別などないと思います。
話が広がってしまうかもしれませんが、日本人が最近、困っている他人を見てみない振りをして、無関心になっている傾向を懸念しています。前回のブログで書きましたが、同胞意識が薄らぎ、他人と関わりたくない人が昔より増えたように感じてなりません。
今回の男性に対しためらう気持ちが払拭出来て、私を突き動かしたのは、実はコルベ神父の存在です。アウシュヴィッツ収容所で、自分には家族があるからと訴えている囚人の、身代わりになって死の刑を受け入れたコルベ神父です。
アウシュヴィッツの視察研修から、既に一ヵ月半が過ぎようとしています。体験や記憶が薄らいで行くのでなく、更に形を変えて、深化している感じがします。今回の電車にまつわる出来事は、自分をどれ位捨てられるか、試されている感じもしています。
むしろ、周りの皆は何故見てみない振りをしているのだろう、との憤りが込み上げて来ました。舞浜の駅のトイレに入って、その不始末に気付かず、ホームに上って来て、電車を待っていたのでしょう。その間、誰も声を掛けていなかったことになります。
ホームには女性ばかりでした。そのような男性に、女性だから恥ずかしくて声を掛けられない。男女の問題は別にしても、事実を伝えて、本人に恥ずかしさを与えてしまう。その場に居た人は、このような感じ方をしたのかと想像はします。しかしこれは、他人(サポートを求めている他人)を無視して、無関心を装っているだけのことです。
では私はどう取ってあげるか、二つの選択肢がありました。一つは黙って取ってしまう。トイレットペーパーですので、恐らくそうしても、男性は気が付かないかもしれません。もう一つは、声を掛けて男性にも分かるように、取ってあげる。
私は後者を選びました。先ずトイレットペーパーを取ってしまい、それを丸めて、後ろから肩に手を軽く掛けて、「このようなものがズボンから出ていましたよ!」と声を掛けました。男性は事態を把握し、驚き、恥ずかしかったのでしょが、気を取り戻したように、口ごもりながらも、お礼の言葉を発しました。
他人に対して、要求されていないお節介は、当然のことながら無用です。今回のケースで立場が逆であるなら、私だったら、教えて欲しいと思いました。不始末を教えてもらった瞬間は、動揺するかもしれませんが、言いづらいことを伝えてもらった人には感謝します。
このような目の前の人が、家族だったらどうでしょうか。必ず注意をするでしょう。では家族と他人との境はなんでしょう。困ったことに遭遇して、サポートを求めているであろう人間が現れれば、家族も他人も区別などないと思います。
話が広がってしまうかもしれませんが、日本人が最近、困っている他人を見てみない振りをして、無関心になっている傾向を懸念しています。前回のブログで書きましたが、同胞意識が薄らぎ、他人と関わりたくない人が昔より増えたように感じてなりません。
今回の男性に対しためらう気持ちが払拭出来て、私を突き動かしたのは、実はコルベ神父の存在です。アウシュヴィッツ収容所で、自分には家族があるからと訴えている囚人の、身代わりになって死の刑を受け入れたコルベ神父です。
アウシュヴィッツの視察研修から、既に一ヵ月半が過ぎようとしています。体験や記憶が薄らいで行くのでなく、更に形を変えて、深化している感じがします。今回の電車にまつわる出来事は、自分をどれ位捨てられるか、試されている感じもしています。