梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

浦安に移って1

2008年05月25日 07時45分40秒 | Weblog
「私は梶哲夫と申します。私、梶は鉄(哲→てつ→鉄)を扱っています」「会社は世界的にも有名な浦安ディズニーシーと成田空港の近くにあります。しかし商売の方はとても地味で、堅い仕事をしています」最近私の自己紹介での定番です。

その浦安に移転したのは三年前です。それ以前は江戸川区の葛西に長年営業所がありました。その葛西の土地は売却し代替地を浦安に求め、本社機能は葛西に残しましたが、主力の倉庫・工場などは浦安に移しました。

移転を考え出したのは五年前ですが、その当時と今とでは状況は激変しました。

その大きな異変は地価です。売却した葛西の地価は当時と殆ど変わりませんが、取得した浦安はその後高騰しました。取得先は千葉県企業庁からでしたが、その頃はまだこの工業団地には空き地が目立ちました。

鉄鋼景気も良くなかったせいか、隣の浦安鉄鋼団地内では廃業などで売り物件もありました。わが社が倉庫を着工し始めた頃から状況は一変し、この千鳥の工業団地は物流倉庫で埋め尽くされてしまいました。

次の潮目の変化は鋼材の異常な値上がりです。五~六年前の中国五輪の鉄鋼特需により、日本でも振って沸いたように鋼材が逼迫して急激に価格が上がり出しました。その後また去年位からの大幅な鉄源インフレを受けて、今もって鋼材は暴騰しています。

我々が当時鉄鋼メーカーから底値で買えた価格は、今ではその4倍になろうとしています。わが社の浦安新倉庫も当然鉄の構造ですので、現在建築すれば相当な総工費アップになっていた筈です。

これはしかし全て結果論です。この様なことを先読みしてやった訳ではありません。逆も有り得たと言うことで、そこに恐ろしさを感じますが、恵まれたと言うしかありません。それよりも大事なのは、浦安の立地や機能をどう活かすかかもしれません。

写真はそんな世相も知らずに、五月上旬に浦安の敷地内に綺麗に咲いたツツジです。
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仕事のオフに2

2008年05月17日 17時51分40秒 | Weblog
あの西郷隆盛と言えば明治維新の立役者ですが、庄内と関係が深いことはあまり知られていません。西郷の没後その口伝を整理し「西郷南洲翁遺訓」として編纂したのは、徳川親藩であった庄内藩です。そのエピソードです。

戊辰戦争当時、庄内藩も白虎隊で知られる会津藩らと共に最後まで官軍に抵抗を続けましたが結局は官軍に帰順しました。官軍の総大将であった西郷は、戦いに勝ち庄内藩城下に兵を進駐させるのですが、自軍の兵の刀を召し上げ丸腰で入城させました。

官軍の兵達は勝利に未だ興奮も覚めやらぬ状況から、乱暴狼藉を働く可能性がありそれを防ごうという意図でもありました。一方反対に敗者側の刀は当然取り上げるべきものなのに、西郷は当藩の武士達が誇りを失ってはいけないからと、逆に彼等には帯刀を許しました。

この温情には当藩の人達が驚き、この結果、本来であれば敗者には勝者に対する憎しみが残るはずが、逆に敵軍の西郷に対する尊敬の念が高まり、ついには彼に私淑する人まで現れました。

その後明治維新の新政府に西郷は失望し、野に下り鹿児島に帰ることになるのは皆さんの知るところでが、西郷が作ったその私学校に当藩の若い青年達が遠路彼を慕ってやって来たのです。西南の役では、庄内藩から薩摩軍に馳せ参じ殉死した者まで出ました。

そのようなことで南洲翁の遺訓を編纂したのは、庄内藩士達だったのです。家内の実家の近くには西郷さんを祭った南洲神社もあります。ここでは今でも毎月、南州翁の教えを学ぶ勉強会が開かれています。鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市の盟約を結んでいます。

敵の将であったとしても道を学ぶ姿勢は、信義を重んずる武士の気骨を伺い知ることが出来ます。その中でも熱烈に教えを学んだ一人が、家内の実家の祖先にいるそうです。家内と結婚して暫くして知りました。

仕事のオフに訪れる庄内は、こんなことでも私にはとても興味があります。
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仕事のオフに1

2008年05月10日 13時45分03秒 | Weblog
皆さん連休中はどう過ごされたでしょうか。前にもお話ししましたが、私の家内の実家は山形県の酒田市にあります。既に家内の両親は亡くなり、実家は残っていますが今は空き家になっています。連休後半にその酒田に行って来ました。

家内は年二回ほど実家に行っては家の風通しをして、両親の遺品整理などに追われています。私も同行をする訳ですが、私は半分旅行気分です。

東京から酒田までは片道約550キロもあり、高速道路を全部利用しても6時間は掛かります。お盆や大型連休中は、当然のこと高速道路は大渋滞になりますが、工夫しその渋滞を避けながら行き来するのも結構スリリングなものです。

酒田は隣の鶴岡と共に庄内平野にあり、この庄内地方は日本でも有数な米処です。ちょっと前ではNHKの連続テレビ小説「おしん」の舞台となった酒田であり、近年では江戸時代を題材とした小説家「藤沢周平」の故郷の鶴岡であり、共に知名度も全国区になりました。

酒田は昔から米穀や廻船を中心とした商人の町、鶴岡は庄内酒井藩主の武家の町、今もってそんな異なった文化が同じ庄内に存在します。家内と知り合ってなければ私はこの地は縁もゆかりもなかったのですが、最近は愛着さえ感じます。

半年振りに帰りますと(私の第二の故郷に成りつつあります)、家の中はカビだらけ、先ずは掃除に追立てられます。また地元コミュニティー誌や市の広報等がどさっと玄関に投函されていて、読みながらの整理に半日を費やします。

しかしグルメな私にとっては新鮮な地魚が食べられ、そこに庄内米で造った地酒が加われば言うことはなく、また近くの日帰り温泉に行き旅情を味わうことも毎回の楽しみです。

そんな遠い異空間には仕事も追いかけて来れず、完全に気分転換が出来る、それが私の酒田同行の大きな効用です。
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近づいた遠国2

2008年05月02日 15時03分46秒 | Weblog
皆さんもご存知のブラジルの音楽ボサノバは、作曲家でミュージシャンでもあるアントニオ・カルロス・ジョビンが創生したと言われています。その彼が1994年12月8日に66歳でこの世を去るのですが、ちょうどその時この旅で私はブラジルにいました。

私は高校時代からジャズに興味を持ち、その延長でボサノバもよく聴いていました。ボサノバを生んだその情熱の国ブラジルは、一度は訪れてみたい国でした。

1908年最初の日本のブラジル移民船「笠戸丸」が神戸を出港したことで、今年は移民100周年とのこと。またウジミナス製鉄所の母体が1958年に誕生しましたので、今年は50周年になります。日本とブラジルの関係においては、今年は節目の年です。

私の父の叔父で、やはりブラジルに移民した人がいます。もっとも祖父の時代までで手紙のやり取りも自然消滅し、今どこにいるのか今どうしているのか皆目見当も付きません。

以上二つの事柄で私自身にとっても、本来ブラジルは遠い国ではないのかもしれません。

ブラジルからの輸入が無くなった後も、わが社は韓国や台湾や中国などから厚板を輸入して来ました。継続的に輸入する可能性がある製鉄所には、チャンスがあれば一度は訪問したいと考え、台湾や中国は何回となく出掛けました。

その度に現地の人と交わり、またその土地の風習なども垣間見え、希な経験をさせてもらいました。ビジネスの上では当然損得も絡みますが、よく話し合えば、互いに理解し合えたのではないかと思っています。

しかし国同士の政治となると必ずしも上手くは行かず、近い国でも遠くに感じることも暫しあります。少なくとも民間ベースでは互いに理解し合う努力が必要ではないかと考えています。
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