梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

U氏(その3)

2019年11月29日 22時16分31秒 | Weblog
アメリカに留学されたU氏が、二年半ほどして日本に帰国されました。今から17~18年前のことで、そしてわが社を訪ねてくれました。わが社の葛西本社には既に従来の機能は無く、市川の岸壁で在庫販売をする体制が定着している時期です。長年本社近くに借りていた第二の倉庫があった土地も、所有者がマンションを建てるとのことで返却していて、葛西は本社事務所だけとなっていました。

帰国後U氏とまた頻繁にお逢いすることになります。ご自身は、当時30代半ばでしたが、外資系IT関係の企業の部長職に就職が決まります。また、わが社に関心を寄せてもらいます。そのテーマは、前々から私も考えていたことですが、葛西の移転問題です。

わが社の将来を考えると、都市化が加速する葛西の土地や、既存の建物は何かにつけて限界でした。幸にも移転の最大の課題であった、現業機能は葛西にはありません。葛西の売却、代替え地の取得、それに絡む諸問題をU氏は私と一緒にシミュレーションしてくれました。課題を一つひと解決して、そして現在の浦安への移転が実現したのです。

U氏には一人娘がいらっしゃいます。娘さんが成長していく課程で、自分の育った環境は恵まれていたと、自宅地域のボランティア活動で家庭教師などをしていました。その縁もあって“千葉県若人自立支援機構”の理事と知り合い、U氏もその活動を援助されることになります。

若人自立支援機構とは、児童養護施設の卒園者(高卒)に対し就職をサポートして、ある年齢になるまで経済的な自立を見守る、有志の会です。その目的で、生徒に職場体験のインターンシップを仲立し、就職説明会を開催し企業面談を疑似体験させるなど、国の支援を受けずに色々と努力している団体です。

わが社もU氏の紹介でその団体を知り、高校生のインターシップを受け入れたり、就職説明会に一企業側としてエントリーしたり、貴重な体験をさせてもらいました。その活動を通し、3年前に当時二十歳の女性社員を、そして去年二十四歳の男性社員を採用することが出来ました。

思ってもみなかった若手の採用は、U氏との縁によるものです。若手採用したいが為の気持ちではなく、U氏の人柄に惹かれたお陰です。振返れば、わが社の事業改革そして土地移転と、不思議な連続性に導かれていています。それも、25年前U氏との出逢いからの始まりでした。

U氏は帰国してから外資系大手IT企業に転職を重ねます。現会社での役職は常務執行役員です。現在51歳ですが、4~5年後娘さんが社会人として独り立ちしたら、第一線を退くと話されます。相変わらず、大組織でトップに登り詰める貪欲さはありません。このような方が結果として世間から評価され、重職に就くように私は感じます。

U氏がアメリカに留学される直前、酒も入っていた席で、疑問だったことを私は尋ねました。「どうしてこの私に、親身になってアドバイスをして下さるのですか」。U氏の返答は、「だって梶さんは、誠意を持って私を受け入れてくれるから」。

軍師という存在があります。軍師は過去の戦いの歴史を学んで、戦略や戦術を身につけています。しかし軍師自らは戦いません。傍目八目から観て、その戦いの在り方を将に進言して、採択してもらうことが役割です。軍師U氏は私より16歳下ですが、いつしか歳の差を感じなくなりました。

前述の返答の後、U氏からこのような言葉が発せられました。「私はアドバイスこそ出来ますが、最後は判断して決行するのは社長です」。前にも書きましたがこのような考え方が、他人の力を借りる時の、私の経営のバックボーンになっています。
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U氏(その2)

2019年11月23日 09時14分02秒 | Weblog
「梶哲さんは、過去から端板を在庫するノウハウもあり、中小溶断業者にきめ細かく販売していることは評価出来ます」「しかし仕入れ価格とか内部コストは下げる余地がまだあり、それが課題です」。U氏からの指摘は、ズバリそのようなものでした。

経営者とは傲慢なもので、自分では薄々分かっていても他者から進言されると、カチッとくるものです。ましてわが社は利益を出しているとの自負があり、わが社を思って提言されたU氏には失礼な話ですが、その言葉は素直に受け取れませんでした。

しかしそれから二年後のわが社の決算は赤字に転落します。市況の乱高下による影響もありましたが、常に仕入れと経費を下げる努力を怠ったことは否めませでした。予言されたことがその通りになると、理屈はもう通用しませんし、逃げ場がありません。素直になることを思い知らされました。

当時わが社は葛西に本社倉庫があって、外国材も直に輸入して在庫していました。国内メーカーはわが社の倉庫への持ち込渡しです。一方外材は、千葉県の埠頭に船で入り、乙仲によって水切りされ、岸壁の倉庫渡しです。それをわが社の倉庫へ移動するのは、自社の負担であり、数量が多くなればそのコストは軽視できません。

それを踏まえた上で、U氏の提案はこうです。「梶哲さんは、外材が入る岸壁で倉庫を借りて、そこで店を開いたらどうか。わが商社も店売り用の在庫を保有しているので、梶哲さんが借りた倉庫に全部移す。当然保管料や荷役料は払う。コストは軽減出来る」。

つまり、仕入れに掛かる不要なコストは極力低減して、他社の在庫も預かり副収入を確保する。そして預かったその商社の在庫は、あたかもわが社の在庫として活用出来るし、自己負担の在庫も削減出来る。言い換えれば、「鋼材販売業と倉庫業を目指せ」です。

自分を一旦捨てない限り、人の助言は素直に入ってきません。また、このような発想は私には絶対浮かびません。奇想天外とも言えるアイデアでした。今までのやり方を全部ご破算にして、本質を捉えて、自由な考えを貫いた提案でした。信頼出来る人の助言は大切にする。これは私の中にいまだに残っている教訓です。

しかしどこから岸壁の倉庫を借りるか。そこへ自社材を移動した後、空いた葛西の倉庫をどうするか。また新たに発生する倉庫賃料と、仮に他社に自社倉庫を借りてもらっても、その収支の見合いはどうなるのか。解決すべき問題は残っていました。

物事はやると決めて動くことが先決、試行錯誤はあっても道は開ける、ということが貴重な体験となりました。空いた葛西の倉庫は、弟の運送会社で使ってもらうことになりました。岸壁の倉庫は、U氏の商社が長年付き合っていた大手の乙仲の紹介で、市川港に隣接する倉庫を借りることが出来ました。

わが社とその商社の何千トンもの在庫を岸壁の倉庫に移動して、梶哲商店は新体制で動き出しました。在庫の持ち方のコンセプトも変わり、コストの見直しも出来て、わが社の商売の選択肢も広がりました。この体制は、葛西の本社を移転して浦安に自社倉庫を建てる時まで、12年間続きました。

一方U氏は、わが社が新体制になった2~3年後にその商社を退職します。アメリカの大学に自費留学されると言うのです。自分の働き方までも創造していく気迫を感じました。語学力を身に付け経営も色々勉強し、自分の実力に挑戦してみたいと話されました。U氏との縁は、これで遠のくように思われました。  ~次回に続く~
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U氏(その1)

2019年11月16日 05時30分58秒 | Weblog
U氏と久し振りにお逢いし夕食を共にしました。近況や今後のこと等を話し合って、再会を期して別れました。U氏と初めて出逢ったのは今から25年前、その方が26歳前後の頃で、鉄鋼商社に勤務していました。

他人の意見やアドバイスは素直に容認し難いものです。それまでの自分の考えが、優先しているからです。しかしそれを受け入れることで、違う道が開け、思わぬ成果が得られることがあります。U氏との出逢いで、そのようなことが私の中で起こりました。

U氏の第一印象は“派手”でした。目立つ色のワイシャツを着ていて、硬い印象がある鉄鋼商社には似つかわしくなく、しかし好感が持てるスポーツマンタイプでした。頭の回転がとても良く、美辞麗句は一切言わず、ストレートに物事を言われる方でした。

当時わが社は厚板の素材販売の拡張を目指していましたので、仕入れソースの選択肢も広げる必要性を感じ、面識も無い商社に、飛び込み営業を仕掛けました。その一社が、U氏が店売り担当であった商社です。その方は、わが社の存在は認識していました。当然のことながら、既にわが社のライバルでもある同業他社と取引をしていました。

けんもほろろに断られると思いきや、関心を示してくれます。それから暫く経って、その商社はわが社のことを調べに来ました。わが社は手形で買わせてもらうのですから、商社としての与信管理は大事です。初めはスポット的な商売でしたが、取引が開始したのは、わが社が飛び込んでから2~3ヵ月後です。

今では商社が厚板の在庫を自ら抱えることは稀になりましたが、この商社は当時かなりの在庫を保有していました。現物品を販売する顧客も持っていたことになります。わが社も在庫販売が主体でしたので、不足品を補完出来る事が急接近した理由でした。

或る時期を境に、U氏はわが社に頻繁に通ってこられるようになります。わが社が在庫販売する為の、高炉メーカーに先物を毎月契約する、その窓口商社としての関係もスタートした時期でした。U氏はどちらかと言うと、目先の商売の話をする方ではありませんでした。

“啐啄(そったく)同時”という言葉があります。鶏の雛が卵から産まれ出ようとする時、殻の中から卵の殻をつつきだす、これを「啐」と言います。その時すかさず親鳥が外から殻をついばんで破ろうとする、これを「啄」と言います。そしてこの啐と啄が同時に行なわれて初めて殻が破れて、雛が産まれるわけです。これを啐啄同時、共時性ともいえます。

U氏から後で聞いた話です。既に取引をしていた会社とは、経営者の上から目線が鼻につき反りが合わなかった様子で、絶妙のタイミングだったと思います。今振り返ってみると、U氏とわが社の出逢いは、互いに求め合った啐啄同時だったともいえます。

U氏は、メーカーと流通業の仲介商売を主体とする商社マンの枠を超え、新しく何かを互いに創り上げることに情熱を注いでいました。「自分のリスクにおいて仕事は楽しくする」のがモットーのようで、大企業の組織で上に登り詰めていくことに、あまり意義を感じていように思えました。

その眼は常に何かを模索しているようでもあり、その若さにして凄い先見性がありました。そして、わが社の体質についてズバリ切り込んで来ることになります。 ~次回に続く~
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行動すること

2019年11月09日 10時12分41秒 | Weblog
今回は、前回の『幹事の心得』の続編になるかもしれません。大学時代の山のクラブの、同期忘年会の幹事を引き受け、浜松に下見に行ったことに関する話です。現地に出向き、行動したことで、事前の不安がほぼ解消しました。

以前ここで、“一流の頭脳” (著者はスウェーデンの精神科医) という本を紹介致しました。人類は主に狩猟をしていた1万2000年前とほとんど変わっていないが、現代人と根本的に違うのは、はるかに動き回っていたこと。原始人の身体は動くのに適した造りになっているのに、生活様式はここ100年前だけを見ても激変し、人間は動かなくなった。

座ってばかりいると、それを新しい体験だと捉えずに、脳がその必要性がないと判断して退化する。身体が動くことで、脳も活性化している。動けば、集中力を高め、記憶力が増し、アイデアが湧き、学力を伸ばせる。そして一流の頭脳を作る。これは単に歩くだけでも実現化する。以上が、この本の主旨でした。

このように、私達は動かず頭で考えて解決を図ろうとすることが習慣化しました。今回現地に下見に行って(行動して)、不思議なタイミングによって、本番当日の主な懸念事項が解消しました。一つは、初日登山を終えて宿に行く交通手段の選択です。もう一つは、翌日のお昼の食事場所の選定です。一週間前に下見した際、当日のコースを辿りました。

初日、浜松駅から路線バスに一時間ほど乗って、登山をする竜ヶ石山の麓(浜松でも名所の竜ヶ岩洞)まで行きます。下山してから、宿泊する舘山寺温泉へは、路線バスで乗り継いで向う方法があります。しかし一旦浜松駅近くまで戻り乗り継ぐことになり、時間帯によっては二時間近く掛かってしまいます。乗り継いでのバスの料金は計1,240円です。

下見に行った日は、宿の担当者と午後4時に打合せをする予定でした。下山して竜ヶ岩洞入り口バス停で乗車しましたが、既に午後2時45分でした。バスで乗り継いで行くと宿に着くのは5時頃になってしまい、途中で遅れる電話を入れようかと思っていました。

咄嗟に他の交通手段はないかと考え、スマホで地図を見ますと、遠州鉄道の駅が近くにありそうで、運転手さんに尋ね次のバス停で降りました。歩いて2分でその駅があり、駅から地元のタクシーを頼んで、来たタクシーに飛び乗って、宿に着いたのがジャスト4時でした。

タクシーの運転手さんに聞けば、竜ヶ岩洞には、下山時間が分かればタクシーを呼べるとのこと。そこから舘山寺温泉宿まで5,000円位とのことで、仮に一台に4人乗れば一人当たりではバスと同じ料金となり、40~50分位で着きますからタクシーが便利でした。

翌日は、浜松餃子を食べることが今回の謳い文句です。場所の制約条件としては、浜松駅直ぐ近くで浜松餃子を食べられて、日曜日昼の時間に予約が可能で、12名が入れる処です。同行した家内と必死になって、5軒ほど(事前に調べていた店も含め、)当たりましたが、ありませんでした。

諦めかけましたが、もう一軒と、メイン道路を少し入ったところに居酒屋チェーン店がありました。肝心の浜松餃子はご当地メニューとしてあり、夜は出せるとのこと。昼はランチメニューしかなく、午後2時で閉まってしまいますが、1時30分に飛び込んで実際食べてみました。

無理を言って、餃子を一皿試食させてもらいました。刺身定食もボリュームがありとても美味しかったです。餃子は事前に注文をもらえれば昼でも出せるとのことで、お店の店員さんの対応も良く、予約をしました。12名はゆったり座れる個室も確保出来ました。結局そこは、舘山寺温泉から浜松駅に戻って、降りたターミナルから一番近い店でした。

行動すること。その大切さを今回しみじみ感じます。咄嗟に他の交通手段がないかとバスを降りたこと、諦めずにお店を探し回ったこと、これらも現地に出向いて行動しての発想です。本番開催日は、三週間後です。
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幹事の心得

2019年11月02日 07時47分21秒 | Weblog
会の幹事となって開催日を決める際、皆さんの都合を調整するのに、最近はネット上で無料のアプリを利用すれば、直ぐに決められとても便利になりました。昔は一々個々に都合を聞いて調整していたので、幹事の手間も格段に解消されました。

勿論幹事の役割は、日程を調整して終わりではありません。会合場所や、食事をするのであればどこのお店にするのか、決めるのも一苦労です。料理のジャンルやその美味しさ、お店の雰囲気によって、会の盛り上がりを左右しますので選定は大事な仕事です。特別な企画があるのならば、内容についても事前に練っておかねばなりません。

最近、二つの会の幹事を引き受けることになりました。一つは、大学時代の山のクラブの同期忘年会で、一泊旅行するものです。もう一つは、鉄鋼業界同業社の経営者の集まりで、主に食事をするものです。参加者は前者が12名、後者が6名となりました。

兵法で有名な孫子の教えに、“敗北三原則”があります。1)奇策におぼれる、2)孤立する、3)準備不足、この三つが敗北の原因になるとのことです。こうならないよいに考え事を進めるのは、幹事の心得としても通じるものがある、と私は思います。

奇策を講ずるとは、人が予想もしない奇抜な作戦を実行することですが、一見良い戦法かと思えても、自己満足の世界に入ってしまう恐れがあり、その落とし穴は自分では気付きません。孤立するのは人間関係など様々なケースがあろうかと思いますが、誰も協力してもらえなくなると、孤軍奮闘になり結果は出せません。仕事は段取りや事前準備が8割と言われる程、準備の重要度は非常に高いもので、準備不足で行き当たりばったりでは何事も上手くはいきません。

幹事を引き受ける時、私はこの中でも特に準備不足を無くす努力をします。極力会場やお店に出向き、下見をします。現地で打ち合わせし、出来る限り情報を収集することで懸念事項が解消します。丁寧に出向けば、先方にもその気持ちは伝わります。

お客様を接待して失敗した経験を、友人が話してくれました。遠隔地の場所設定で、時間も無くお店をネットで調べ、良い感じ(書込みも無難)なので、電話だけで予約して当日行ってみたが、席もよくなく食事も満足がいくものではなかった。とのことです。

総勢30名ほどのある勉強会での話です。その時の開催地は東北地方で、旅館宿に泊まって初日は勉強会、二日目は名所旧跡の観光でした。他は良かったのですが、宿の食事が不評でした。複数の幹事さんは、旅館にも行って下見はしていました。旅館に泊まらなくても食事はしておくべきだった、と幹事さんの反省がありました。どこまですべきかの議論もあります。しかし大勢の参加の場合は、事前に防げる失敗は避けたいものです。

幹事を引き受け、私も失敗が多くありました。振返ってみて、失敗はやはり中途半端な準備であり、徹底さが欠けていました。正に準備不足です。そのようなこともあり、食事をする会なら、試食することを原則にしています。

実は今、浜名湖の畔の舘山寺温泉の宿からブログを投稿しています。昨日新幹線で浜松まで来て、竜ヶ石山に登りました(浜松界隈で一番人気のハイキングコース)。本日は浜松駅に戻って、浜松餃子を食べる予定です。大学時代のクラブ同期の忘年会の下見を兼ねて、家内と一泊二日の旅です。

この会は持ち回りの幹事で、今回は3人です。他の2人は忙しいので、私が現地に訪れ、下見をしています。他の2人には行く前に、旅館での宴会など打合せ事項を確認しています。孤立せず、幹事が3人だとスリーディメンションで物事みられることを実感しています。

竜ヶ石山の山頂

舘山寺温泉の宿より
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