梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

欠礼とリビング・ウィル(その2)

2022年11月26日 05時38分20秒 | Weblog
「ピンピンコロリ」とは、ずっと元気で、ボケもせず、病床に伏すこともなく、人の手を煩わさず、ある日突然コロッと亡くなることです。近年は、人生100年時代を迎え、寿命が男女ともに更に延び、そんな中で健康寿命と平均寿命の差が話題となっています。つまり寝たきりではなく、健康体で寿命を迎えなくては意味がないとのことです。果たしてその人間の理想の死に方といわれる、ピンピンコロリの人はどのくらいいるのでしょうか。

評論家の副島隆彦氏は、その著書『老人一年生/老いるとはどういうことか』の中で、「ピンピンコロリの人は1%もいないだろう」と書いています。60歳を過ぎて五つの老人病に次々に襲われ、もう物書き業の仕事を続けるのは困難ではないかと思った、と氏自身の体験を綴った本です。「人は痛み、苦しみに耐えながら死んでいく。痛みが老人のお友達だ。痛みに上手に対処している人も下手くそな人もいるが、立派な死に方や恵まれた死に方などというものはない」と、述べていました。

また臨床医の里見清一氏が著した『人生百年という不幸』の中で、やはり「ピンピンコロリは実に難しい」と書かれています。世間ではピンピンの部分にのみ目を向けて、コロリのことを全く考えていないと指摘します。「狙ってできるかは別にして、医学的にはコロリは可能である。急逝心筋梗塞や狭心発作により一気に心肺停止に陥ってしまう事態が相当する。しかし本人はそれでいいだろうが、誰々との約束などは他者には皆目分からず、預金や資産がどこにあるのか分からない、という話はよく聞く。よってコロリは、少なくとも周囲に迷惑がかからないという点ではアウトである」。このように、断言します。

「ではコロリの次善の方法として、例えば癌であっても、検査など受けず少々の症状が出ても放っおいて、進行癌になるまで待つというのはどうか。発見した時には完全な手遅れであと一ヵ月というのであれば、苦しむ期間も短く最近は緩和医療が発達しているから、症状のコントロールは可能である。これは医者の中にも推奨する人がいるが、経験上ほとんど上手くいかない。延命だけの医療は希望しないと仰る本人の多くは、いざそうなると慌てふためく」「つまりピンピンは望むが、実はコロリの部分はあまり考えていないのであり、家族が私達のために頑張ってと口説かれると、中々本人の我を通すことが困難になる」と、里見氏は実体験を話されます。

私は、心臓発作のようなコロリは本人には選択権がないのだと捉えます。事故など外的要素により強制的なコロリは予測すらできません。従ってどちらも、コロリは狙ってできるものではないので、身辺整理にしても常時備えて完璧にすることも不可能です。ピンピンコロリは理想的な死に方ではあるけれど、ピンピンとコロリとは全く一致していないことを認識すべきなのでしょう。片や、ピンピンは本人に選択権があります。生活習慣を改善し向上の努力をすれば、ピンピンは維持可能です。

このように、尋常ならざる覚悟と準備を整えていなければ、ピンピンコロリは幸福な死に方とはいえません。先述の里見氏は、こういいます。「よい解決策は思い浮かばない。ほとんど唯一の方策は、コロリを人為的にコントロールすることである。だから橋田壽賀子さんが、『安楽な死を認めよ』と主張されているのは、それへの賛否は別として、よくよくお考えになった上での、論理的な結論ではないかと思う」と。

ここに出てきた「安楽な死を認めよ」の、つまり安楽死について少しふれてみたいと思います。現在の日本においては、安楽死(や尊厳死)は合法化されていません。もし、患者本人が死を望んでいたとしても、患者の要望に基づいて殺害し、または自ら命を絶つのを援助する行為は、自殺関与・同意殺人罪に該当します。さらに、患者本人が死を望んでいたとは認められないような場合には、殺人罪で処罰されます。これに対して、安楽死は解釈によって、一定の場合に正当化する(適法な行為とする)余地はないか、という議論が長年されてきました。

終末期医療の発達した今日、患者の病状について正確な判断を下せるのは医師であり、緩和ケアなどの面で医師による安楽死が問題になることが増えてきています。しかし、医師とは本来可能な限り患者をより長く生かすべきであるとして、延命の可能性を追求することを倫理として掲げる職種です。いくら患者本人の生命短縮についての意志があるとはいえ、法によって医師にそれに従うよう義務付けることは、そのような職業倫理と相反する形で「患者を殺す義務」を課してしまうことになり、そこが問題点のようです。   ~次回に続く~




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欠礼とリビング・ウィル(その1)

2022年11月19日 05時37分08秒 | Weblog
今年の5月に、次のような内容の直筆の手紙が私に届きました。『私〇田〇郎は、3月30日嚥下機能改善手術を受けブクブクうがい筋トレがんばりましたが、改善せず体重は減少肺炎になり抗生物質を投与されましたが肺炎菌が強すぎて体力消耗力つきてしまいました。コロナ禍でみな様にお会いできず家族にワクチン接種できない孫もいますので残念ながら5月16日一人で旅に出ます。みな様方に引き合わせてくれたことに感謝しています。ありがとうございました。旅費はたっぷり持っています、お気遣いなくお土産に困りますから』。

皆さんはこの手紙をどのように解釈されたでしょうか。私の家内は最初読んだ時には、少し意味が分からないといっていました。私は意図を直感しました。何故ならば私がそのような状態になったら、どうするか考えていたからです。封筒の消印は5月13日でした。5月16日一人で旅に出たのですから、その3日前にこの手紙を出したことになります。つまり命を絶つ3日前に、冷静(私の想定ですが)に行動したことになります。

自ら命を絶ったのか、または延命処置をしていたのを拒んだのかは、これだけでははっきり判りません。ご自宅で亡くなったのか、あるいは病院でそうしたのかも不明です。少なくとも家族には前々からその意志を伝えて、同意を得ていたのでしょうし、かかりつけの医者かあるいは病院の担当の医者には事前に話して、合意を取り付けたてたのではないでしょうか。

冒頭から重い話となってしまいました。先ずは、その方の説明から始めます。今から4~50年も前のことです。まだわが社が江戸川区の葛西に在った頃です。本社の事務所兼倉庫の建物があり、直ぐ近くにもう一つの倉庫がありました。その倉庫に向い合せるように中華料理の店がありました。その店の主人だったのが〇田〇郎さんでした。私より15歳ほど年上でした。働き者の奥様と、三人の子供がいました。

わが社本社の二階には私の両親が住んでいたので、週末家族が集まった時など、その店からよく出前を取ったものでした。わが社の社員も、お昼や夜はそこにいりびたり食事をしていました。主人は自分に厳しい人で、子供にも厳しく教育をしていました。毎朝学校に行く前に、子供三人は家の回りを何回も走らされていました。主人は子供たちが規定の回数を終えるまで、家の前で立っていました。

主人は長年中華鍋を振るうことで生じた、手首の腱鞘炎に悩まされていました。わが社が浦安市に移転することが決まった、その少し前、その一家は千葉市に引っ越すことを決めます。子供も成長して大きな家が必要だったようですし、店の仕事も長く出来ない判断をしたのでしょう。主人は移転に際し、私どもに挨拶に来られました。それから、年賀状のやり取りが始まりした。

この時期毎年11月になると、年賀状の欠礼の挨拶ハガキが届きます。誰がいつ亡くなったとの、家族からのお知らせです。欠礼には二通りあります。一つは、年賀状を出していた本人が亡くなって身内が代わって挨拶する場合です。もう一つは、年賀状を出していた本人の親族が亡くなって喪中の挨拶をする場合です。手紙をもらったその方は、身内が代わって出すのではなく、自ら欠礼の挨拶を書いたことになります。考えてみると、凄いことです。

一つ目の欠礼をもらって、いつも感心するのは、亡くなった方の身内が本人の出していた宛先を押さえていることです。前年まで本人にもらった年賀状から宛先を把握したのか、前もって本人が自分の出しているリストの一覧を身内に知らせているかのか分かりませんが、残された身内にとって大変な作業です。今回欠礼について書いていて気が付いたのは、私はその準備をしてません。手紙をもらったその方は、身内の手間も省いたことになります。

その方は死を目前にして、やはり冷静だったのでしょう。家族に迷惑をかけたくない思いやりや、自分で最後まで始末する高潔さが伝わってきます。我々は死に対して漠然と構えています。死に直面して初めて恐怖や不安を感じるものですが、一方で前もって「死に方」を明確にイメージすることは中々難しいものです。ある年齢に達したら、普段から死に方を念頭に置く必要性を感じます。

今回の手紙の出来事は、人間の理想の死に方といわれる「ピンピンコロリ」の捉え方や、元気な時に治療・延命処置などについて表明する「リビング・ウィル」をどうするかの、問題が内蔵されているのではと思いました。それらについて、次回私の考えをお伝えします。   ~次回に続く~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸内の直島(その3)

2022年11月12日 06時05分52秒 | Weblog
ゲストハウスの宿代は、予約の時点では二人一室で14000円でした。思わぬラッキーとは、そこから3000円値引いてくれたのです。全国旅行支援が始まったけれど、自分の宿にはそのような援助は回ってこないと、女将はいうのです。一旦予約して、その援助がないならとキャンセルしたお客もいたそうです。来てくれただけでも嬉しいので自腹を切る、とのことでした(我々は納得して来てるのに、と思ったのでしたが)。
 
長引くコロナ禍、大手代理店や人気の宿を救済する今回の国の旅行支援なのでしょうが、それ以外は切り捨てる不公平さを感じた一幕でした。ここはしかし以前から外国人には好評のようで、その日私たちの他は、外人のお客さんでした。コンパクトなハウスで、無駄なものは一切なく機能的です。何と言っても、潮騒が間近で聞こえ夜中満天の星空が見られた、専用の屋上のテラスは、それだけでも泊まった価値がありました。

直島の沿革を調べてみました。「直島」という地名は、保元の乱(1156年)で敗れた崇徳上皇が讃岐へ配流される途中、この島に立ち寄り、島民の純真素朴さを賞して命名されたと伝えられています。徳川時代には、幕府の天領となり、瀬戸内海の海上交通の要衝を占め、海運業や製塩業の島として栄えました。大正6年になると、三菱の岩崎小彌太によって直島製錬所が設立され、以来島は飛躍的な発展を遂げます。

直島は、瀬戸内海に浮かぶ27の島々からなる町で、白砂青松の美しい自然に恵まれた町です。直島女文楽をはじめ多くの貴重な文化財が残る、人口約3000の島です。平成元年には、福武書店(現:ベネッセホールディングス)が直島文化村構想の一環として国際キャンプ場をオープン。その3年後にはベネッセハウスを開設するなど、文化性の高い島としても発展してきました。

また近年、豊島(直島と小豆島の中間に位置)廃棄物等中間処理施設の建設を契機として、循環型社会のモデル地域を目指す、エコアイランドなおしまプランが国の承認を受け、全町民と全事業者の参加と協働でこのプランを推進しています。直島町民は、あらゆる領域において常に環境に配慮して行動するとともに、町民・事業者・行政が一体となって、緑あふれる豊かで美しいまちづくりを進めることを決意し、平成15年「環境のまち・直島」を宣言します。

以上が直島の簡単な沿革です。島内を車で走っていると、カラフルな「瀬戸内国際芸術祭2022」の看板が目立ちました。この芸術祭は、香川県と岡山県に跨がる瀬戸内海の島々を舞台に開催される、今年5回目となる現代アートの祭典です。直島に限らず、瀬戸内には有史以来長い歴史があります。しかしこの静かで豊かな交流の海は、近代化の影響により、島々の固有性が失われ、人口が減少し高齢化が進み、地域の活力を低下させているといわれています。瀬戸内国際芸術祭は、その海の復権を目指しています。

直島でこの芸術祭の基盤となっているのは、ベネッセアートサイトだと思います。直島に入った初日、島の南部にあるそのサイトに行ったことはお伝えしました。その中核施設がベネッセハウスで、ホテルを備えた現代美術に特化した美術館です。海外で最も知名度の高い日本のリゾート施設の一つであり、屋外展示作品の大半は作家が当地で製作した作品だそうです。

ベネッセは、通信教育•出版の事業を行う、福山市に本社を置く企業です。福武哲彦が創業した福武書店がルーツ。現在は「教育・語学・生活・福祉」の分野を中心に事業を進めています。出版事業においては、妊娠から出産・育児までの子育て情報誌「たまごクラブ」「ひよこクラブ」は有名となり、小中高生用の進研ゼミなども展開しています。

直島の沿革や瀬戸内国際芸術祭や、ベネッセハウスもベネッセも、実は旅から帰って、このブログを書こうと思って調べた後付けです。岡山市に本拠がある会社ベネッセだから、岡山に近い直島にベネッセアートサイト開設だったのです。ゲストハウスの人懐っこい女将も、瀬戸内の海の復権を担っている島民だったのです。アートの島そのものが迎えてくれる、島内の宿はシンプルがベストでした。

二日間島内を巡ってみると、外人や若者のカップルが多く、それもレンタルサイクルを使ったりただ同然の町営バスに乗ったりして、観光スポットを移動していました。直島の本来の魅力を知っているのでしょう。「牛に引かれて善光寺詣り」ではありませんが、「全国旅行支援に惹かれて直島巡り」となった私たちでした。「もっと事前に調べ、また行きたい直島」。岡山から新幹線に乗って帰路に就いた、私たち夫婦の反省及び感想でした。

 宮ノ浦港で出迎えるカボチャ

 本村港にある船の待合所

 道に迷って出合ったゴミ箱

 ベネッセ敷地にあった作品





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸内の直島(その2)

2022年11月05日 06時35分56秒 | Weblog
寝台列車サンライズの乗り心地はどうだったのか、です。思った以上の快適さでした。私の「シングル」部屋で家内と共に遅い夕食を取りました。ベッドが2人の椅子となりましが、スペースは十分でした。東京駅の9番線ホームに入って来て出発する時も、また次の横浜駅に暫く停車した時も、ホームの人たちはサンライズにカメラを向けます。車中にいる私たちは、否応なく旅気分となります。

翌朝5時前に室内アナウンスが流れ、その声で起こされます。深夜焼津駅で乗客と列車の接触事故があり、30分遅れの運行とのこと。岡山駅から連結していたJR山陽線の特急には、乗り継ぎは無理になるとの案内でした。私たちは高松駅終着ですので特に支障はありません。予約していたレンタカー会社に、高松に着く直前に遅れる旨連絡を入れます。高松から高知へは、レンタカーで向かうことになります。

高松から高知へ行って一泊し、そしてまた高松に戻って来るまでの話しは省略します。今回の主題は、あくまでも瀬戸内の直島ですので。高松港から直島に渡るフェリーの船着き場に着いたのは、旅三日目のお昼です。高松港から直島の宮ノ浦港までフェリーは一日5便あり、12:40発で13:30着便に乗船するようにしていました。

高松港からは違う島へ向かう航路があり、フェリー埠頭のゲートで直島行きの乗場を伝えられ、前に止まっているダンプカーの後ろに付けます。切符売り場には車検証を持参し、そこで車の大きさ(全長)ごとの車両代と乗客料金を支払います。出発20分前、車はフェリーの一階デッキに誘導され停車し、ストッパーで固定され、我々は二階•三階デッキの客室に上って行きます。

広い客室フロアは平日にもかかわらず、案外乗船客がいます。若い人、特にカップルが目立ちます。仕事で渡るトラックの運転手も慣れたもので、テーブルがある席で持参したお弁当を広げています。四国に着いた前日は天候がすぐれず、雨に見舞われました。その日は天気が回復して、海に乱反射する太陽が綺麗で、瀬戸内に浮かぶ数々の小島と調和しています。

50分の船旅もあっという間、宮ノ浦に岸着します。車の下船は停めた所からそのまま前進して陸に渡れます。つまりフェリーには前にも後ろにもハッチがあり、路上の延長で、入った状態で外に出れます。家内が来たがっていた直島に、やっと上陸となります。波止場には大きな屋根の下、ガラス張りで中が見れるお洒落な建物があり、切符売り場や観光案内所やカフェ・土産ショップが並びます。

私たちは、この宮ノ浦地区にある、島内で二つあるスーパーマーケットの一つに直行します。三菱マテリアル直島生活協同組合の宮ノ浦店です。宿には夕食は付いていませんので、食料の買出しです。びっくりするほどの品揃えで、都会のスーパーと遜色ありません。瀬戸内の新鮮な魚介類や飲み物を買い込みました。次に向かったのは島に一軒しかないコンビニです。道中買った土産品や要らなくなった衣類を、翌日ここから宅配で自宅に送るために、段ボールを調達しました。

宿のチェックインは午後3時です。まだ時間がありましたので、島の反対側にある本村(もとむら)地区を訪れました。宮ノ浦は島の西側、本村が島の東側になり、直島ではこの二つの地区だけがまちらしい街並みが見られる所です。本村から海に沿って南下して、ベネッセアートサイト(次回説明)を通過して、今度は北上して、島のほぼ2/3を一回りして宿に着きます。島の北には三菱マテリアルの工場があります。

ここで、泊まった宿の紹介です。旅行出発の一週間前に、旅行代理店に駆け込んで、窓口の順番待ちの間に慌てて予約した宿でした。「魚河岸7070/オーシャンビュー」が宿の名です。スマホの小さな写真でしか確認できませんでしたが、浜辺に建っている一階建て。その屋上には部屋ごとに専用テラスがあり、正にオーシャンビューのゲストハウス(のようでした)。

予約し届いた案内メールに、チェックインする時間を知らせて欲しいと、携帯電話番号が載っていました。そこはハウスのみで、鍵を手渡しに来るようでした。直島に渡るフェリーの時間も決まりましたので、数日前に携帯に電話したところ、はきはきした口調の女性が出てきました。その後何回か電話のやり取りをしましたが、外食しないのなら生協のスーパーで買った方がいい、とのアドバイスをもらったのはこの女性でした。
 
そして当日のチェックイン。初めて出合ったその方はおおよそ想像していた通り、とても人懐っこい女性で年は60前後でした。そして宿泊代では、思わぬラッキーが待っていました。   ~次回に続く~ 


 宮ノ浦港

 ゲストハウス

 そのテラス 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする