荷主の自社倉庫から出荷され、そこにトラックが荷物を積みに入る場合は、この出荷指示書は不要の場合もあります。しかしI社は商社であり、自社倉庫は持たず、販売する条鋼類は、千葉県市川の高炉メーカー系の営業倉庫に預けてありました。
当時は出荷指示書をFAXでやり取りする習慣も定着しておらず、I社の指定納品伝票もあって、I社京橋に頻繁に通うこととなりました。紳士的で穏やかな担当者S氏とは、色々と話しをする機会が増えたのも自然の流れです。
昭和50年代後半、時代の趨勢により、高炉メーカー系の指定問屋同士の再編が始まりました。I社も他社と合併して、社名も変わってしまいました。更に平成に入り、その高炉メーカー自体も他高炉メーカーと合併するという、大きな時代の変革に突入しました。
私も平成に入る直前に、運送会社は弟にバトンタッチをして、梶哲商店に復帰しました。その数年前から、I社が他社と合併したこともあり、運送の取引は自然消滅していました。それから30年近く経ったことになります。
二ヶ月前のことです。そのS氏から突然電話が入り、是非逢いたいとのことで、浦安のわが社に尋ねて来てくれました。本当に久しぶりの再会でした。すっかりお互いに白髪が目立つ年頃になっていましたが、一気に昔話に花が咲きました。
名刺を拝見しますと、合併した高炉メーカーの直系商社の、それも厚板部の副部長をされていました。以前からの条鋼部に勤務されていたら、S氏はわが社を尋ねて来られなかったでしょう。
S氏はだいぶ前から、わが社の存在を意識はされていたようです。しかしわが社は、その商社に訪問することはなかったのです。何故ならそのメーカーとは取引が無く、従来から長く取引をさせていただいているメーカーを尊重していたからです。
暫らくした後、その商社から、わが社の在庫品を買っていただきました。従来の取引先を捜しても見つからなかったものが、わが社に在ったとのことでした。一過性で終る縁もあるのでしょうが、途絶えかけた縁が復活することもあるのだと実感しています。
当時は出荷指示書をFAXでやり取りする習慣も定着しておらず、I社の指定納品伝票もあって、I社京橋に頻繁に通うこととなりました。紳士的で穏やかな担当者S氏とは、色々と話しをする機会が増えたのも自然の流れです。
昭和50年代後半、時代の趨勢により、高炉メーカー系の指定問屋同士の再編が始まりました。I社も他社と合併して、社名も変わってしまいました。更に平成に入り、その高炉メーカー自体も他高炉メーカーと合併するという、大きな時代の変革に突入しました。
私も平成に入る直前に、運送会社は弟にバトンタッチをして、梶哲商店に復帰しました。その数年前から、I社が他社と合併したこともあり、運送の取引は自然消滅していました。それから30年近く経ったことになります。
二ヶ月前のことです。そのS氏から突然電話が入り、是非逢いたいとのことで、浦安のわが社に尋ねて来てくれました。本当に久しぶりの再会でした。すっかりお互いに白髪が目立つ年頃になっていましたが、一気に昔話に花が咲きました。
名刺を拝見しますと、合併した高炉メーカーの直系商社の、それも厚板部の副部長をされていました。以前からの条鋼部に勤務されていたら、S氏はわが社を尋ねて来られなかったでしょう。
S氏はだいぶ前から、わが社の存在を意識はされていたようです。しかしわが社は、その商社に訪問することはなかったのです。何故ならそのメーカーとは取引が無く、従来から長く取引をさせていただいているメーカーを尊重していたからです。
暫らくした後、その商社から、わが社の在庫品を買っていただきました。従来の取引先を捜しても見つからなかったものが、わが社に在ったとのことでした。一過性で終る縁もあるのでしょうが、途絶えかけた縁が復活することもあるのだと実感しています。