梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

二度目のご縁(その2)

2012年06月30日 10時02分56秒 | Weblog
荷主の自社倉庫から出荷され、そこにトラックが荷物を積みに入る場合は、この出荷指示書は不要の場合もあります。しかしI社は商社であり、自社倉庫は持たず、販売する条鋼類は、千葉県市川の高炉メーカー系の営業倉庫に預けてありました。

当時は出荷指示書をFAXでやり取りする習慣も定着しておらず、I社の指定納品伝票もあって、I社京橋に頻繁に通うこととなりました。紳士的で穏やかな担当者S氏とは、色々と話しをする機会が増えたのも自然の流れです。

昭和50年代後半、時代の趨勢により、高炉メーカー系の指定問屋同士の再編が始まりました。I社も他社と合併して、社名も変わってしまいました。更に平成に入り、その高炉メーカー自体も他高炉メーカーと合併するという、大きな時代の変革に突入しました。

私も平成に入る直前に、運送会社は弟にバトンタッチをして、梶哲商店に復帰しました。その数年前から、I社が他社と合併したこともあり、運送の取引は自然消滅していました。それから30年近く経ったことになります。

二ヶ月前のことです。そのS氏から突然電話が入り、是非逢いたいとのことで、浦安のわが社に尋ねて来てくれました。本当に久しぶりの再会でした。すっかりお互いに白髪が目立つ年頃になっていましたが、一気に昔話に花が咲きました。

名刺を拝見しますと、合併した高炉メーカーの直系商社の、それも厚板部の副部長をされていました。以前からの条鋼部に勤務されていたら、S氏はわが社を尋ねて来られなかったでしょう。

S氏はだいぶ前から、わが社の存在を意識はされていたようです。しかしわが社は、その商社に訪問することはなかったのです。何故ならそのメーカーとは取引が無く、従来から長く取引をさせていただいているメーカーを尊重していたからです。

暫らくした後、その商社から、わが社の在庫品を買っていただきました。従来の取引先を捜しても見つからなかったものが、わが社に在ったとのことでした。一過性で終る縁もあるのでしょうが、途絶えかけた縁が復活することもあるのだと実感しています。
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二度目のご縁

2012年06月23日 06時01分57秒 | Weblog
新たに取引が始まるきっかけは色々あります。新規開拓としてわが社がアプローチするケース、逆にホームページなどでわが社を探していただけるケース、紹介者によって橋渡しされるケース、と様々です。以下ちょっと古い話となります。

私は昭和55年より約10年間、運送の仕事に携わっていました。昭和50年に父親の会社に入社したものの、二年後に大腿骨を骨折して、一年半仕事から離れ、その後復帰したものの後遺症が残り、鉄鋼の方には戻りませんでした。

父親が以前から構想を抱いていた運送会社を興し、私はその別会社の代表となりました。その仕事は簡単に言いますと、主に東北地方から首都圏に上って来るトラックを捉まえて、帰りの荷を斡旋する業務です。電話による仲介業です。

長年梶哲商店は鋼材の商いをしてきましたので、スタートした運送会社で開拓した荷主は、当然鉄鋼関係でした。帰り便で割安の運賃で運べるとPRしながら、地方に発送する鋼材がないか、多くの鉄鋼メーカーや問屋を廻りました。

父親の大学時代の相撲部の後輩の方が、ある高炉メーカーの指定問屋でI社という会社にいらっしゃったので、営業に行きました。福島県のいわき市に、I社の販売先に大きな鉄工所があり、東京から毎月大量のH型鋼を運んでいることが分かりました。

当然I社には、従来からI社をメインにしている運送会社があり、その物件も運んでいるとのことでした。その運送会社とは、運賃以上の長年の信頼関係や、仕事を任せられる安心感もあったのでしょう。

最初はお試しであったと思います。突然I社から配送手配がありました。いわき市から上って来ていた、鋼材の輸送も慣れていた、帰り便の運送会社もタイミングよく見つかりました。初仕事、緊張感は走りましたが無事終りました。

それから従来の運送会社からわが社に仕事が徐々に切り替わり、結果的に全量配送させていただくこととなりました。I社の担当者S氏に出逢ったのもその頃です。当時I社は中央区京橋に会社があり、荷渡し依頼書(出荷指示書)を、よく取りに伺ったものでした。  ~次回に続きます~
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9割は世間話?(その2)

2012年06月16日 05時48分23秒 | Weblog
高城幸司著、タイトル“仕事の9割は世間話”の本を買い求めました。その本を読まないで、前回色々想像で書いてしまいましたので、実際に読んでみました。

私がこのタイトルで連想して過去ブログに書いたこととは、お客様との対話や商談の話です。気になったこの点は、営業場面と社内関連との両面が、この本には書かれていました。むしろビジネスでの世界を中心に、世間話の重要性が説かれていましたので、ほっとしました。

人間関係を円滑にする為に、また情報収集をさりげなくする為には、著者の過去の、営業や社内の経験を基に実例を出しながら世間話の大切さが書かれていました。この人間関係と情報収集の観点では、私も共通するところでした。

著者が主張する、世間話には更にしっかりとした狙いや目的があり、確立された手法があることについては、私の考えの及ばないところでした。本題を前向きに好意的にスムーズに運ぶ為の、戦略的思考として世間話があると位置付けています。

事前に準備として何を話せばいいのか、また何を話してはいけないのか。趣味の話もよいが、自慢話ばかりするな。自分に向けられた話題も、相手にも切り返し、聞き役になることも有効である。 

世間話はユーモアと同じで、雰囲気を和ませ、相手の本心を引き出す場作りに他なりません。そんなことを学んだ人に、主導権が取れるのは明らかです。本題に入る前に、既に世間話の中に多くの本題が隠されているとのことです。

世間話には三つの段階があると著者は言います。最初はアイスブレイク、緊張感を取る段階。次にオープントーク、視点を合わせる段階。そしてクローズドトーク、本題に繋がる段階。これは10分位でよいと言うのです。

ここで私はこのタイトルを勘違いしていたことに気が付きました。この“仕事の9割は世間話”は、“仕事は、9割が世間話で決る”ではないか。時間を9割使ってもよいのだと勘違いしていました。私の世間話の多くは、無駄話だったのかもしれません。
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9割は世間話?

2012年06月09日 07時54分59秒 | Weblog
“仕事の9割は世間話”のタイトルで、『初対面、いきなり本題ですか?』とか『場の空気を和ませ、相手の本音を探り、信頼関係を築く』とかのサブタイトルで、書籍の広告が新聞に載っていました。

その本を買い求め読まなくては、書かれている内容は分かりません。しかしそのタイトルを見て、かつて私がブログ上で書いたことですが、似たようなことを言っているのかもしれないと感じたのです。

「商談の際、当然のことながら誰もが行き成りその本題から入ることはありません。世間話というか、落語でいうと枕とでも言いますか、導入の部分の会話が欠かせません」

「むしろこれは本題と匹敵するくらい大事ではないか。その話の内容は、気候のことから始まって、世相のこと、互いの出身地や家族や趣味に関連したこと、最近体験したこと、その他ありとあらゆることです」

「この導入の部分で、盛り上がれば互いの心がパカッと開いて、相手を受け入れる準備が出来ます。そんな心の快を作り出し、人間関係を築くことが大事です。すると本題の商用の話しは、全体の2~3割になってしまいます」

世間話は7~8割必要なのかもしれないと、私は書いたことになります。著者は、ズバリその世間話は、9割と言っていることになります。

著者、高城幸司氏の略歴をインターネットで調べてみました。コンサルティング会社を始め3社の会社を経営する。人事評価制度の構築・社員研修・人材紹介などを事業としている。ビジネス書著者としても活動している。とありました。

私が過去に書いたことはお客様との対話、商談の話です。この本は、ひょっとすると社内人事に関してのテーマなのかもしれません。しかしお客様との関係も社内人事も、同じ人間関係です。

その本を読まないで、ここまで想像で書いてしまいました。買い求めて、読まなくてはなりません。
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振り返ってみて

2012年06月02日 11時04分42秒 | Weblog
今から10年前にわが社は溶断加工に進出しました。それまで長年鋼板の素材販売のみの形態で商いをしてきました。溶断加工に進出したのは、当時素材販売先でメインの得意先が破綻したからです。

破綻した会社の、販売先を引き継ぎ、社員を再雇用して、二つの工場はそこから借りて、機械設備は譲り受けて、一週間後にわが社として再スタートをしました。当然負債は抱えましたが、今から振り返るとその選択は間違っていなかったと受け止めています。その加工部門が、わが社の柱となっているからです。

従来、江戸川区葛西には本社事務所兼メイン倉庫と、近くにはもう一つ倉庫がありました。その出来事の4年前に、既にわが社はメイン倉庫を総合トラックに貸して、市川港の岸壁に営業倉庫を借りて素材在庫販売をしていましたので、営業所は3箇所となっていました。

従ってその吸収合併によって、一気に事業所が5箇所となったのです。従来15名ほどの社員も瞬間30名を超えました。以前から計画をしていた訳でも無く、突発的な結果ですので、是非を問うことではありませんでした。

それから紆余曲折しながら種々変遷はありました。事業所の数の推移をたどると、5→4→3→2→1となり、浦安に全部集約され今日に至っています。直近を振り返ると、二年前に葛西の本社を浦安に、一年前に成田工場を浦安にとなります。

事務所を集約する為の引越しであれば、まだ簡単です。倉庫や工場ともなると、多くの在庫の移動や機械設備の移設がありますから、かかる費用も多く、事前の段取りなど相当なものがあります。

移転集約に伴う社員の退職など犠牲もありました。しかし今、全てが一つになりました。同じ屋根の下に社員全員が居て、素材販売や溶断加工もその垣根は無くなりました。浦安鉄鋼団地のお客様も近年増え、立地も貢献しています。

その時々の判断と決断は必死でしたが、振り返ると感慨深いものがあります。10年前に端を発したそれは、必然だったのでしょうか。一体となったわが社は、これから未来の展望を描かなくてはなりません。
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