長崎原爆で被爆した体験を語る、小崎登明さんという方がいます。今年92歳を迎えますが、1945年8月9日その時は17歳でした。当日いつものように、三菱長崎兵器製作所の工場で作業をしていると、耳をつんざくような音が響きます。その途端、爆風に襲われ吹き飛ばされるが、製作所はトンネルの中の工場だったため、大きな外傷はなかった。
爆心地から約2キロの地点での被爆。その後工場に避難しに来たのか、その人を見て驚く。髪は焦げて、着ている服もぼろぼろである。外で何が起こったのか、工場を後に原子野をさまよい歩く中、怪我した小学生の男の子に足にもまとわりつかれ助けを求められたが、どうすることも出来ずに振り切った。
瓦礫の下敷きになった女子学生を救助し、数人で簡易担架を作り運んでいる途中、低空で飛んできたアメリカの敵機に、怖くなって置き去りにした。逃げ込んだ森で、内臓が飛び出している瀕死の状態の先輩に出くわす。日頃から仲が悪く、一週間前に殴られたことを恨みに思っていたため、「ざまあみろ」と小さく吐き捨てるように言った。
8月9日NHKEテレ“心の時代~宗教・人生~”で、「弱さを希望に~カトリック修道士・小崎登明さん~」と題した番組が放映されました。『助けなかった』『逃げた』『許さなかった』、この三つが原爆の原体験となっているのが小崎さんです。それは今考えてみると誰でも持っている人間の本性で、これが無くならなければ人間としての平和が来ない、と当時自分の同い年の若者へ語り部として長年活動してこられた方です。以下は、テレビで実際に語られていた一部です。
「そして爆心地から500Mの私の家に帰ったら、家も母も跡形がない。残ったのが私の命だけであった。原爆で何もかも失ったが、初めて唯一残った自分の命が大事と思った。私はその年の秋に、直ぐに神学校に入った。それを創ったのがコルベ神父でした。神父がどのような生き方をしたのか、興味を持った」
「コルベ神父は長崎で6年苦しい生活をしていたが、祖国のポーランドに帰って、遂にアウシュビッツの収容所に入れられた。どん底ですが、そこで僅かな食事を若い人に分け与えるとか、皆を助けながら過ごした。ナチスの兵隊にいじめられても優しい目を向けて許し、どんな困難にも逃げずに、最後は他人の身代わりとなり命を捧げたのです」
「私が原爆の中で体験したことに、コルベ神父の中で解決があったのです。解決を見つけたけれど、若い人に何を伝えどう生きなければいけないかは、二十年間話を続けてきたけれど、最後にどのような答えかを示さないとなると難しいのです。原爆資料館で語り部をやっていた時は、人間の痛みを分かる心を持つことが原点だと掲げ、それが平和の原点でもあり、その痛みを分かる人間になろうと言ってきた」
「そのテーマは掲げているが、果たして痛みが分かるだろうか。亡くなった母は、人間の痛みは三年でもこらえられる、我慢できる、だから他人から同情は期待するなと。コルベ神父の何を伝えるか。神父が身代わりになり救われた人の、あらためて授かった命への感謝。神父は命を与えたが、お礼を求めなかったその心。ナチスの体罰に人間のプライドを捨てず、悪に負けない神父の勇気。それらを語ってきたが、理解してもらえたかまだ確信がもてない」
『助けなかった』『逃げた』『許さなかった』こと、小崎さんは戦後75年間悩み苦しみました。この三つは、自ら手を下した結果でもなく、法を犯したわけでもありません。自分の命を優先するために、誰しもが少なからず、戦争という状況下では体験することです。しかしその原体験こそ、小崎さんのそれからの人生を決定します。
小崎さんは、聖人マキシミリアン・コルベ(コルベ神父)の研究家としても知られています。小崎さんはコルベ神父に直に接していませんが、長年に亘り研究を続け、ポーランドに旅しアウシュビッツ収容所には何回も訪れ、神父が身代わりになった実際の人物にも出会っています。その過程で、先も触れましたが、三つの答えをコルベ神父の中に見出しました。 ~次回に続く~
小崎登明さん
爆心地から約2キロの地点での被爆。その後工場に避難しに来たのか、その人を見て驚く。髪は焦げて、着ている服もぼろぼろである。外で何が起こったのか、工場を後に原子野をさまよい歩く中、怪我した小学生の男の子に足にもまとわりつかれ助けを求められたが、どうすることも出来ずに振り切った。
瓦礫の下敷きになった女子学生を救助し、数人で簡易担架を作り運んでいる途中、低空で飛んできたアメリカの敵機に、怖くなって置き去りにした。逃げ込んだ森で、内臓が飛び出している瀕死の状態の先輩に出くわす。日頃から仲が悪く、一週間前に殴られたことを恨みに思っていたため、「ざまあみろ」と小さく吐き捨てるように言った。
8月9日NHKEテレ“心の時代~宗教・人生~”で、「弱さを希望に~カトリック修道士・小崎登明さん~」と題した番組が放映されました。『助けなかった』『逃げた』『許さなかった』、この三つが原爆の原体験となっているのが小崎さんです。それは今考えてみると誰でも持っている人間の本性で、これが無くならなければ人間としての平和が来ない、と当時自分の同い年の若者へ語り部として長年活動してこられた方です。以下は、テレビで実際に語られていた一部です。
「そして爆心地から500Mの私の家に帰ったら、家も母も跡形がない。残ったのが私の命だけであった。原爆で何もかも失ったが、初めて唯一残った自分の命が大事と思った。私はその年の秋に、直ぐに神学校に入った。それを創ったのがコルベ神父でした。神父がどのような生き方をしたのか、興味を持った」
「コルベ神父は長崎で6年苦しい生活をしていたが、祖国のポーランドに帰って、遂にアウシュビッツの収容所に入れられた。どん底ですが、そこで僅かな食事を若い人に分け与えるとか、皆を助けながら過ごした。ナチスの兵隊にいじめられても優しい目を向けて許し、どんな困難にも逃げずに、最後は他人の身代わりとなり命を捧げたのです」
「私が原爆の中で体験したことに、コルベ神父の中で解決があったのです。解決を見つけたけれど、若い人に何を伝えどう生きなければいけないかは、二十年間話を続けてきたけれど、最後にどのような答えかを示さないとなると難しいのです。原爆資料館で語り部をやっていた時は、人間の痛みを分かる心を持つことが原点だと掲げ、それが平和の原点でもあり、その痛みを分かる人間になろうと言ってきた」
「そのテーマは掲げているが、果たして痛みが分かるだろうか。亡くなった母は、人間の痛みは三年でもこらえられる、我慢できる、だから他人から同情は期待するなと。コルベ神父の何を伝えるか。神父が身代わりになり救われた人の、あらためて授かった命への感謝。神父は命を与えたが、お礼を求めなかったその心。ナチスの体罰に人間のプライドを捨てず、悪に負けない神父の勇気。それらを語ってきたが、理解してもらえたかまだ確信がもてない」
『助けなかった』『逃げた』『許さなかった』こと、小崎さんは戦後75年間悩み苦しみました。この三つは、自ら手を下した結果でもなく、法を犯したわけでもありません。自分の命を優先するために、誰しもが少なからず、戦争という状況下では体験することです。しかしその原体験こそ、小崎さんのそれからの人生を決定します。
小崎さんは、聖人マキシミリアン・コルベ(コルベ神父)の研究家としても知られています。小崎さんはコルベ神父に直に接していませんが、長年に亘り研究を続け、ポーランドに旅しアウシュビッツ収容所には何回も訪れ、神父が身代わりになった実際の人物にも出会っています。その過程で、先も触れましたが、三つの答えをコルベ神父の中に見出しました。 ~次回に続く~
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