このブログは一体何のために書くのか・誰に・何を・どう伝えるのか、について述べてみたいと思います。前回の(その1)では、ブログをスタートした目的(何のために書くのか)についてふれました。初期の段階では、私は何かを書いて残すことで、社員が読んでくれて、社内のコミュニケーションを図るためと書きましたが、この目的にしても年月を経ながら変遷してきました。
今回は何のために書くのか・誰に、を少し掘り下げてみます。会議などでの発言は、その場の対処や対策だけで、それを離れ私の物事の考え方や感じ方は中々社員に伝えるチャンスが無いと感じていたので、ブログでそれを表現出来たらとの思いがありました。しかし、社員にブログを読んでくれているのかどうか、一々聞くわけにもいきません。一方通行でいいとは思いつつも、この目的はしばらくして実質取り下げました。
読んでくれている人がブログ上にコメントを投稿してくれない限り、そうです、ブログの内容について意見は聞けないのです。この投稿もかなりハードルは高いと思いますし、直に話してくれる人も滅多にいません。そして、ブログは誰が読んでくれているかも殆んど分からないのです。分かるのは、ブログへのアクセス数だけです。書くネタ探しに追われ投稿期日に迫られ、何のために書くか・誰に書くか明確にしないまま過ぎ去った時期もありました。
SNSの世界で個人の情報を発信する色々な媒体も変遷があり、19年前とはブログの存在感や価値観も変化しています。とりも直さずこの私の19年間は、社長職から会社から離れ相談役になった軌跡でもあり、それを綴ることは自分を見つめ直す機会になり、ブログの内容の変遷はともかく、続けられたから、自分の生き方で新たに気が付くことも多くありました。
読んでくれる人たちは、会社の社員や取引先、鉄鋼業界、勉強会仲間、友人・知人、家族などであることは確かです。わが社を新規で訪れる方が、わが社のホームページを事前にチェックして、リンクしている『梶哲日記』を見てくれるケースもありました。私は今まで、自分からブログを書いていることを殆んど公言していません。誰が読んでいるか全て把握はできませんけれど、何処かで誰かが読んでくれている集積がアクセス総だと解釈してきました。
自分が書きたいことを大事にしたいのですが、読んで下さる側の立場になって興味が湧くかどうかの視点が、もっと大切だと思ってきました。このブログの継続は、究極は自分の為でもありましたが、多く読んで下さる方がいるから書き続けてこられたのも揺ぎ無い事実です。
何のために書く・誰のために書くか、「ブログを書いている現在の心境」は、と問われれば次のような表現になります。「読んでくれている誰かがいる限り、書いている私がいる限り、そこにブログがあるから書く」。似たような言葉になってしまいましたが、「そこに山があるから登る」。イギリスの登山家ジョージ・マロリー(1886~1924)は、「なぜ山に登るのか。そこに山(エベレスト)があるからだ」と答えました。
この言葉を哲学的に捉えれば、「山は人生に似ている。 目先の小さな目的に捉われず、その山の頂上を目指し、ただ一生懸命登ればいい」。となると思います。しかし「そこに山があるから登る」、この表現だけだと実際のところ何も答えていないに等しいともとれます。1924年エベレストの登頂を試みて、帰らぬ人となったマロリーです。2度のエベレスト登頂に失敗した後、23年に米国で講演し「なぜエベレストに登るのか」という、繰り返される質問に嫌気が差して、「そこにそれがあるから」と投げやりに答えたとも伝わっています。
一方でこの言葉には、知識人でロマンチストでもあったマロリーらしさはなく、ニューヨークのガサツな記者の解釈という説もあります。そして別の機会に同じ質問に答えて、マロリーはこんな言葉を残しています。「ただ単に、達成衝動を満足させたいだけであり、この先に何があるか確かめたいという、抑えきれない欲望が人の心には脈打っている」と。
他の事例を持ち出して、少し回り道をしたかもしれません。私のブログに対する心境と、マロリーのエベレストに対する真意とどう比較されるか、読んで下さる皆様の判断にお任せ致します(私のブログの評価と同じく)。少しだけ発言が許されるなら、一週間単位で達成衝動を満足させたい、継続してこの先に何があるか確かめたい、という抑えきれない意欲がブログの私にあることは確かです。 ~次回に続く~
今回は何のために書くのか・誰に、を少し掘り下げてみます。会議などでの発言は、その場の対処や対策だけで、それを離れ私の物事の考え方や感じ方は中々社員に伝えるチャンスが無いと感じていたので、ブログでそれを表現出来たらとの思いがありました。しかし、社員にブログを読んでくれているのかどうか、一々聞くわけにもいきません。一方通行でいいとは思いつつも、この目的はしばらくして実質取り下げました。
読んでくれている人がブログ上にコメントを投稿してくれない限り、そうです、ブログの内容について意見は聞けないのです。この投稿もかなりハードルは高いと思いますし、直に話してくれる人も滅多にいません。そして、ブログは誰が読んでくれているかも殆んど分からないのです。分かるのは、ブログへのアクセス数だけです。書くネタ探しに追われ投稿期日に迫られ、何のために書くか・誰に書くか明確にしないまま過ぎ去った時期もありました。
SNSの世界で個人の情報を発信する色々な媒体も変遷があり、19年前とはブログの存在感や価値観も変化しています。とりも直さずこの私の19年間は、社長職から会社から離れ相談役になった軌跡でもあり、それを綴ることは自分を見つめ直す機会になり、ブログの内容の変遷はともかく、続けられたから、自分の生き方で新たに気が付くことも多くありました。
読んでくれる人たちは、会社の社員や取引先、鉄鋼業界、勉強会仲間、友人・知人、家族などであることは確かです。わが社を新規で訪れる方が、わが社のホームページを事前にチェックして、リンクしている『梶哲日記』を見てくれるケースもありました。私は今まで、自分からブログを書いていることを殆んど公言していません。誰が読んでいるか全て把握はできませんけれど、何処かで誰かが読んでくれている集積がアクセス総だと解釈してきました。
自分が書きたいことを大事にしたいのですが、読んで下さる側の立場になって興味が湧くかどうかの視点が、もっと大切だと思ってきました。このブログの継続は、究極は自分の為でもありましたが、多く読んで下さる方がいるから書き続けてこられたのも揺ぎ無い事実です。
何のために書く・誰のために書くか、「ブログを書いている現在の心境」は、と問われれば次のような表現になります。「読んでくれている誰かがいる限り、書いている私がいる限り、そこにブログがあるから書く」。似たような言葉になってしまいましたが、「そこに山があるから登る」。イギリスの登山家ジョージ・マロリー(1886~1924)は、「なぜ山に登るのか。そこに山(エベレスト)があるからだ」と答えました。
この言葉を哲学的に捉えれば、「山は人生に似ている。 目先の小さな目的に捉われず、その山の頂上を目指し、ただ一生懸命登ればいい」。となると思います。しかし「そこに山があるから登る」、この表現だけだと実際のところ何も答えていないに等しいともとれます。1924年エベレストの登頂を試みて、帰らぬ人となったマロリーです。2度のエベレスト登頂に失敗した後、23年に米国で講演し「なぜエベレストに登るのか」という、繰り返される質問に嫌気が差して、「そこにそれがあるから」と投げやりに答えたとも伝わっています。
一方でこの言葉には、知識人でロマンチストでもあったマロリーらしさはなく、ニューヨークのガサツな記者の解釈という説もあります。そして別の機会に同じ質問に答えて、マロリーはこんな言葉を残しています。「ただ単に、達成衝動を満足させたいだけであり、この先に何があるか確かめたいという、抑えきれない欲望が人の心には脈打っている」と。
他の事例を持ち出して、少し回り道をしたかもしれません。私のブログに対する心境と、マロリーのエベレストに対する真意とどう比較されるか、読んで下さる皆様の判断にお任せ致します(私のブログの評価と同じく)。少しだけ発言が許されるなら、一週間単位で達成衝動を満足させたい、継続してこの先に何があるか確かめたい、という抑えきれない意欲がブログの私にあることは確かです。 ~次回に続く~






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