梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

人生の長さ

2016年05月28日 06時34分28秒 | Weblog
この一ヶ月から二ヶ月の間、取引先関係や、社員の家族や、私の親戚などから訃報が届くことが重なり、お葬式に参列することが続いていました。

父は生きていれば91歳ですが、同じ歳の方が亡くなられました。父とは大学で同クラス、大手の都市銀行に入社して副頭取にまでなられた方です。父の現役の昭和50年代に、わが社がその銀行と取引できたのもその方の尽力によるところが大きく、26年前の父の社葬の際は、弔辞の読み上げをお願いいたしました。

父は生前から大相撲の溜席を持っていましたので、父の死後も同じように、毎場所の東京のチケットを差し上げてまいりました。そのような繋がりもありましたので、2年半前のわが社の創業60周年記念式典にはご夫婦で参加して下さって、とても喜んでもらいました。

その同じ銀行の葛西の地に以前勤めていて、当時わが社の担当者でもあった方から、訃報の連絡をもらいました。その担当者の方は銀行を退職されて、不動産会社に転職をされた方です。わが社が葛西から浦安に移転する大事業は、その方なくしては成し得なかった経緯や、今年3月にその方と久しぶりにお会いしたことは、ブログ上で紹介いたしました。

父の親友でありその銀行のOB役員の訃報は、銀行の社内報的な情報サイトから、その方も知ったとのことでした。その方と今年再会していなければ、その情報は絶対に私には入らなかったことでしょう。重職をまっとうされて、91歳まで生きられたことは大往生だったのではないでしょうか

家内の姪が49歳で命を閉じました。小学3年生の男の子と中学2年生の女の子がいました。通夜や告別式では二人の子供は一切涙を見せず、弟は未だ無邪気にあどけなく、お姉さんは弟をかばうように気丈に振る舞っているのが、参列された多くの学校の父兄の涙を誘っていました。

お父さんは子供達に、お母さんの長年の病気(癌)との闘いを見守るように、世話を掛けてはいけないと諭していたのでしょう。その姪自身も、母親(私の家内の姉になります)を早く亡くし、以後独り身となった父親を、最後まで支えて来ました。自分も早死にする運命を辿るとは、考えてもいなかったことでしょう。

自分で命を絶つ以外、人生の終焉の時期は自分では決められません。多くの葬儀に参列して、それでも、生き方やさだめによって、人の命の長さが決められているような感じを持ちました。その方の生まれてきた意味や存在意義は、単に命の長さではないように思います。

姪のお子さんにとっても、これからの大事な時期に母親がいないことは、並大抵の苦労では済まされません。しかし母親の肉体としての存在は無くなっても、母親の精神や生き様は二人の子供の心に永遠に刻まれることでしょう。そのように、私は感じました。
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100年の企業

2016年05月21日 06時04分45秒 | Weblog
鉄鋼流通業で創業100周年の企業の、記念式典に招かれました。同業社を中心に500人余りの方々が集まり、大きな会場も狭く感じるほど盛会でした。大正時代初期の創業とのことでしたが、その原点は更に30年前に遡ることが出来る、オーナー家四代に亘って継承されてきた会社です。

その会社は創業当時から、扱い品種や業態は、まさに有為転変して今日に至っています。企業の生成・発展の課程では必ず浮き沈みはあるでしょうが、大きな危機に直面した話もその記念式典の挨拶の中で、現社長は語られていました。

創業当時、その店は「半年もつまい」と陰口を叩かれたそうです。また戦後の色々な動乱の中で、どうにも商売が立ち行かなくなったこともあったそうです。陰口には「はなにくそ」の精神で、立ち行かなくなった時は主力商社とメーカーの支援があって、どちらも難局を乗り越えたそうです。

総務省統計局による日本の企業数は400万社強あり、その内法人企業とすると約4割の170万社とのことです。大手の信用調査会社によりますと、登録されている140万社の中で、創業100年を超える企業は26,000社に上るとのデータがあります。

この26,000社のいずれの企業も、平坦な道程ではなかったことは想像に難くありません。件の会社も、苦難があったからこそ、倒産の危機があったからこそ、そのピンチをチャンスに生かして、今日の盤石な礎を築いてきたことを証明しています。

勿論、企業は年月の長さだけで評価されるものではありません。しかし世の中でその役割を果たさずお客様から必要とされない企業が、つまり社会と繋がっていない、更に言えば社会貢献をしていない企業が長く存続することはあり得ません。

何の為に会社は存在するのか、またその為に会社は何をするのか、その目的と目標を明確にしていかなくては会社の中心軸は失われます。目的と目標である道、その道を定めるのは、やはり経営者の使命です。私は、会社の最大の目的は社会貢献にあると思います。

わが社は今年の11月には創業64年目に入ります。私の父が昭和27年に創業したものですが、鉄の商売のルーツを辿れば祖父が大正時代の中期に遡ることができます。

仮に大正10年を原点とすると、95年前になります。残念ながら戦中と戦後約10年間ブランクがありますが、それでも通算すれば85年になると、私は解釈しています。いずれにしても、わが社も100年の企業を目指します。
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その日が来ました

2016年05月14日 06時35分20秒 | Weblog
二週間程前の日経新聞のコラムに、次のような内容が書かれていました。電車内で初めて優先席を譲られたが、咄嗟に断ってしまい、次の駅で降りて電車を乗り返した、と。書かれた方のお名前も記憶にありませんが、その分野では著名な方だと思います。後日その方は友人にその話をしたら、譲った若者の気持ちをどうして汲んでやらなかったのかと、強くたしなめられたそうです。

その方が更に歳を取った現在の話しで、そのコラムには続きがあります。髪は黄色にそめ鼻にはピアスがある若者が股を広げて優先席に座っていたようですが、その人を認識して、直ぐに席を譲ってくれたのと話でした。そして素直に座ったというのです。

私にとって、これは他人の事と終わってしまう話しではありません。実は私、二ヶ月前にこのような体験をしました。生まれて初めて優先席を譲られる、この瞬間が遂に来ました。

一泊二日の勉強会からの帰り、日曜の午後11時頃のことでしたが東京駅から秋葉原駅、また電車を乗り替えました。車内は結構混んでいました。たまたま優先席の脇のドア近くに立ちますと、直ぐ目の前に座っていた30歳前後の男性がスッと立ち上がるではないですか。

そして「どうぞ」と、言ってくれるのです。一瞬「えっ!」と、戸惑いました。がしかし、席を譲ってくれようとしている彼に、素直に私は御礼を言って席を譲ってもらいました。

生まれてこの方、初めての経験でした。よもや老人と思われて席を譲ってもらうことなど想像すらしていなかったことです。ここは、その若者の気持ちを大事にしたいと、咄嗟の判断を私はしたのですけれど。

疲れて歳以上に見られたのか、古傷の足を引きずる様子を見て体が不自由と受け止められたのか、後付で色々考えてみましたが、やはりその若者には年寄りと見られたのでしょう。

これから度々このような事は無いだろう、と信じたいです。遠い将来、いずれこのようなことが起こるとは思っていましたが、その日が遂に来てしまいました。

“この世は仮の姿、浮世である” と、古人は悟っています。現世でこの肉体を借りている今の私の体は、確実に老化をしていることは事実です。しかし精神も老化することに対しては、抗っていかなくてはなりません。
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子供部屋の掃除

2016年05月07日 09時38分44秒 | Weblog
長かったGWも終わろうとしています。わが社はカレンダー通りの休みとなり、飛び飛びの出社とはなりましたが、土日も含めれば私自身にとっても結構自由な時間がありました。このGW中に前々から家族でやることを決めていました。それは部屋の掃除です。

子供部屋を整理して綺麗にすることです。わが家には三人の子供がいますが、小さいながら三つの部屋があります。上の娘二人は大学生の頃から外で下宿をしていたり、社会人になって勤務地が東京でなかったり、そして現在は二人共結婚をして家には居ません。

娘二人の部屋と言っても、壁ではなく本棚等で仕切っていました。従って二つ合わせた部屋は、10年位前から使われる事無く、実質は物置部屋と化していました。娘達がたまに帰って来た時、家内も一緒になって子供の頃からの物を処分・整理をしてきましたが、遅々として進まず、子供達以外の道具の山積状態は解消出来ませんでした。

幸い次女がGW中に実家に戻って来ました。この機を逃したら将来絶対整理出来ないとの危機感から、次女も加わって決行することになりました。私はGW中に約3日間分のやらなくてはならない仕事がありましたが、それ以外の時間は、参戦することにしました。

本、勉強道具、学校の作品、手紙、写真、記念品、おもちゃ、服、机や本棚やベッドや家電品等など。残す物、燃えるゴミとリサイクル品で出す物、粗大ゴミで処分する物、一々確認しながら分別するのですから、思った以上の時間が掛かります。それでもしばらく経つと、燃えるゴミ袋が何袋も発生して、一気には出せない量となりました。

昔の物を処分するとは、想い出を処分することにもなります。私と次女はある程度見切られるタイプですが、家内は過去の物への執着というか愛着心が強く、中々捨てきれません。そんなことで、普通の肉体労働より家内はとても疲れると言い出しました。

根を詰めず、休み休みやるのが得策。また三人でやったから、はかが行ったのかもしれません。長女の持ち分については、8日に来て、処分・整理をするとのこと。終盤に来て、後は家内一人でもやれる目途が立ってきました。

腐るものではないから、また使う可能性もあるから取って置こうとするのも分かりますが、溜まれば溜まる程、手が付けられなくなることも考えに入れなくてはなりません。さて綺麗になった部屋をどう使うか、考えるのも楽しみです。
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