梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

過去の体験から(その2) 

2021年06月26日 03時48分53秒 | Weblog
地方発送している荷主をどのように開拓したかの話しの前に、売り買いされた際の物の配送について少し説明させてもらいます。商品を出荷する売り主とそれを受け取る買い主が、当然存在します。しかし、売り主が運送会社を手配して買い主へ持ち込むケースと、買い主が自ら運送会社を手配して売り主の置き場に取りに行くケースがあります。前者を持ち込み渡し、後者を置き場渡しと言われています。

例えば飼料や肥料などは、地方の農協の依頼で地元の運送会社が、首都圏のメーカーに引き取りに行くのが大半で、つまりメーカーの置き場渡しとなります。上り荷を積んで東京で降ろしても、地元の買い主の引き取り依頼もあるので、帰り荷が全く無いわけではありません。どこからの依頼でも、長距離運送会社は往復の荷物は確保して、片荷で走ることはありません。

中距離であれば日帰りは可能で、片荷でも採算が取れます。長距離で車中一泊をする2日運行の場合は、運転手の手当てなど経費が発生しますので、その面でも往復の荷は必要です。地元の荷主の依頼で長距離運送をする時にもらう運賃を、仕立て運賃と言います。地方の上りの仕立て運賃が6とすると、帰り荷の相場は4です。逆に東京の荷主が地元の運送会社を仕立てる場合の運賃も6となりますので、帰り便取扱業者としては5の運賃を提示することで、割安感を強調することができます。

わが社は昭和40年代伸鉄メーカーに材料を売っていました。伸鉄メーカーとは電炉を持たず、ビレット(鋼片:電炉メーカーの半製品)や上級屑を加熱しロール圧延して、主に鉄筋丸棒を製造していた小規模のメーカーのことです。わが社で市中からスクラップを集め、上級を選別し、それをシャーリングで切断して、伸鉄メーカーの加熱炉に入るような一定のサイズに揃え供給していました。

最盛期は東北地方の大手のスクラップ業者まで出向いて、上級屑を買い集めていました。その屑を積んで、江東区東雲のわが社の工場に地方のトラックが降ろすのですが、たまに帰り荷のタイミングが合わないので工場の前で一泊や二泊していく運転手がいました。また、先代は運転が好きで、東北や北陸に車で旅行をしていましたが、そんな土地で東京ナンバーのトラックが結構走っているのよく見ると言っていました。動物的な感で、帰り荷の斡旋業が成り立つことを先代は確信していたのだと思います。

さて、荷主の開拓をどのようにしていったかの話しに移ります。梶哲商店は昭和27年にスケール集荷を目的で興した会社です。創業当時より、電炉メーカーや伸鉄メーカーから圧延過程で発生するスケールの集荷が主で、わが社がスケール事業を撤退する昭和50年当初まで、それらのメーカーと取引が続きました。そのような関係で、帰り荷の下払い運賃を調査し、受け払い運賃表が完成して、初めて回り出したのがそれらのメーカーでした。

回り出してから、物の流れが分かってきたことがあります。同じく丸棒を製造する電炉メーカーが宮城県仙台近くにあり、そこから近隣の県へ供給されていました。余分な運賃をかける東京のメーカーには、価格競争力がありません。他の鋼材においても、仙台に鉄鋼メーカーがなくても、大量輸送するならば東京から仙台港に船積で送り、そこから東方地方の県へ再送されるような物流ルートが既にありました。

それでも初仕事が舞い込みます。過去梶哲商店が材料を納めていた、江東区にあった伸鉄メーカーからです。ここは、伸鉄メーカーでは珍しく平鋼を製造していました。営業に行ってからから一カ月後です。持ち込み先は秋田県の八郎潟で、鋼製工作物を作っている会社でした。持ち込み先の会社名は今でも覚えています。そこへ平鋼30t納入です。東北に出張し、訪問した秋田市の運送会社が喜んで引き受けてくれました。

しかしこの仕事はスポット的なもので、継続することはありませんでした。一方地方の運送会社から、「明日自社のトラックが東京に行くけれど、何か帰り荷はありませんか」など、複数の会社から声が掛かるようになりました。鋼材ばかりをあてにしても埒が明かないと判断し、建材関係のメーカー等へ、徐々に対象を広げていきました。その荷主を探し出すために、考えた方策(下調べ)が次第に効果を上げていくようになります。  ~次回に続く~
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過去の体験から(その1) 

2021年06月19日 05時04分37秒 | Weblog
私は変わった癖があり、それは過去携わった仕事によるものです。車を運転していて、行き違う緑ナンバーのトラックのプレートを反射的に見てしまうことです。そのプレートから府県名を確認しているのです。緑ナンバーとは所謂運送業者の車両でのことであり、どの地方かが、どうしても気になってしまうのです。

46年前私は梶哲商店に入社して、2年後に現場で怪我をして、手術とリハビリで1年半を費やしましたが後遺症が残って、先代は現場がつきものの鉄鋼業へは私の復帰は暫く無理だと判断し、そして興したのが運送取り扱い業の会社でした。関東地域に東北地方から上ってくるトラックの、帰り便を利用して、地方へ発送する荷物を斡旋する仕事です。初期の頃は東北地方限定でしたが、後に全国展開となりました。

緑ナンバーの自社便を持たずに、首都圏の荷主と地方の運送会社を仲介させる電話だけでやり取り出来る、いってみれば情報産業でした。私は27歳の時でしたが、この運送取り扱い業の社長となりました。これは先代の描いたビジネスであり、私は指示のまま運営していましたので、実質は先代の会社でした。それに対して当時の私は、特別な抵抗もありませんでした。

ここで私は創業という経験をしました。ゼロから事業を立ち上げるという経験です。運送取り扱い業とはいえ、運輸省(現:国土交通省)の許認可制でした。認可申請書の作成は行政書士の手を借りましたが、多くの添付書類を揃えたり事業計画を立てたり、自分でやらざるを得ませんでした。準備を初めて、運輸局に申請して、聴聞会を受けて、認可が下りるまで10カ月以上かかりましたが、その通知が来た時の嬉しさは今も忘れません。

その間、開業する準備にあてました。店を開けても仕事が舞い込んでくるわけではなく、売り・買いを継続的に成立させないと事業になりません。仕入れ先は地方の運送会社であり、売り先は地方発送している荷主です。地方のトラックは空では帰りたくなく、復路の荷を探している。地方発送している荷主は東京の運送会社に頼んでいるが、場合によっては運賃が高く断られる(特に冬場)。どちらのニーズも生じているはずでした。

先ず着手したのは地方のトラック探しでした。対象は、定期的に首都圏に来ている東北六県の運送会社です。地方のトラックは明け方幹線道路を通って、上り荷を降ろす所に着いています。そこで国道6号線(日光街道)の、草加や越ケ谷の交差点で、朝の4時頃から張り込みをしました。交差点の脇で、車の中からナンバー・プレートが認識出る場所を選び、信号で止まった運送会社を一台一台記録していきました。

三カ月経つと、各県ごとに、多く上京する運送会社の社名が判明します。当時、『全国貨物自動車会社便覧』がありました。それを見れば、その運送会社の所在が分かります。それを元に、該当の会社に電話を入れて訪問を申し入れ、東北六県を三つのブロックに分けて、一週間単位で出張をしました。訪問先で尋ねるポイントは、上京の頻度と、何を運べて、そして帰り荷としての運賃は幾らでお願い出来るかでした。

出張を終えて、作成したのは地区ごとの下払い(運送会社に払う)運賃です。同じ地区の運送会社でも運賃は違いますが、駆け引きもあり、そこは平均値を取るしかありません。40年以上前は、地方の運送会社のトラック車種は、平ボデー・深アオリでした。現在はウイング車といって、自動開閉する屋根付きが多くなりましたが、当時は屋根がない平ボデーが主流でした。深アオリとは、荷台のアオリが1m位あるものです。【下の写真参照】

その下払い運賃にわが社の一定の口銭を載せて、受け払い運賃(荷主に提示)を設定して、荷主に配る運賃表が出来上がります。例えば仙台なら、下払い運賃が5万円であれば、受け払い運賃は5万7千円と想定します。つまり一台を仲介することで、7千円の手数料がわが社の収入となります。月間で何台の受注が出来るか、月間の経費は幾らかで、損益の分かれ目となりました。

さて運賃表が完成して初めて、荷主の新規開拓が可能となります。この時点で会社を設立してから既に一年が経過していました。特段あてがあった訳ではありませんが、梶哲商店が鉄鋼関係でしたので、鉄鋼製品を製造している電炉メーカーを回り始めました。次第に対象を建材関係のメーカーと広げていきました。その取り組みは、次回触れさせてもらいます。

後々仕事が順調になるにつれて、庸車(上京している地方車)の絶対数が足りなくなります。普段街中を走っていて、見慣れない地方ナンバーを覚えておいて、営業の電話を掛けました。運送取り扱い業を離れて既に30年が経ちますが、その習慣が沁みついてしまいました。  ~次回に続く~


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不思議な引き寄せ(その3)

2021年06月12日 04時29分11秒 | Weblog
藤間さんは65歳で、私は67歳になって、事業継承(社長職を譲る)をしました。私が知っている会社で、父親は50歳代中ごろの時、息子が30歳そこそこで社長交代をしたケースがあります。若くて未熟の方が、息子は得意先から色々教わることができる、万が一交代が失敗した時に、自分(会長)が再度社長に復帰する余力を残しての覚悟でした。17~8年前のことで、今や社長は40歳代後半となり、立派に会社を経営されています。

父親の会長は0から1にする、典型的な起業家タイプです。会長は努力家で幾多の苦難を乗り越え、会社を発展させ、現在は100名を超える社員を擁している会社です。会長は社員の育成にしても家族主義を貫き、むしろ一筋縄ではいかない社員を更生させる才を持っていました。そのような会長からすると、二代目である現社長は1を10にする管理者タイプで、物足りなさを感じたかもしれません。

会長は経営に直接関わっていないものの、その物足りなさ故か、今でも数名の幹部社員を月に一度集め、会社の昔の話や自身の経験則を伝えています。その集まりに社長は参加していますが、主導はあくまでも会長です。譲った後も会社は自分の分身であり、何か間違えがあってはならないとの、会長の気持ちは痛く分かります。しかし藤間さんの事業継承の本にもありましたが、「5年で引き継ぎ、5年でフォロー、会長職にあるのは10年の間。後は潔く身を引く」と。私見ですが、この期間はマックスだと思います。

『カルチャーセンターの講師やスポーツのインストラクターには男性が多い。これは、女性よりも男性が「何かを教える」「誰かを指導する」ことに強い喜びを感じるから。この心理を「指導欲求」と呼ぶ』。『自己スキーマという考えがある。自分自身のことを分析して、自分の行動の結果を予測する考え方だが、人は歳を重ねるにつれ、自分に都合のよいように考えがちになる。つまり、「私の考えに間違いはない」「相手が間違っている」と言う考えが強くなるということである』。

これらは、保坂隆著“60歳からの人生を楽しむ孤独力”の中に出てくる文章です。著者は精神科医です。私に置き換えても、「指導欲求」や「私が正しく、相手が間違っている」は、この傾向が老いて強くなることは確かです。件の会長も、精神科医が指摘しているように、第一線を退いても抑えきれない欲求が消えず、過去が全て正しいとの思いが強く、その認識がない限り無理からぬことかもしれません。保坂氏の本での、本来の主張は、勿論それらを踏まえた上でのシニアの生き方です。

日本でシニアと呼ばれる65歳以上の人の割合は4人に1人となり、そのためシニアをターゲットに沢山の本が出ていて、その多くは、孤独はいけない、地域の活動に参加しよう、配偶者に愛想をつかされないように、などなどかなり難しい努力目標を掲げているが、そうしなくていいとの主張です。のべつまくなしに頑張っていると心も体も疲れ果ててしまので、「孤独」や「ずぼら」もうまく取り入れる必要があるというのです。

『前後際断(ぜんごさいだん)』という言葉があり、これを現代風に訳すと、「過去の栄光を捨て、現在の栄光は未来に持っていくな。もしそのようなことをすれば、過去や未来に心がとらわれ、向上できない」と言う意味で、保坂氏の本に引用されていました。江戸時代初期の僧侶、沢庵宗彭(たくあんそうほう)の訓えとのこと。退職して役職や社会的地位を失ってしまうと、つい「昔は…」「こう見えても…」と口走ることへの戒めとして書かれていました。

保坂氏の本は、書店で見つけました。“60歳からの人生を楽しむ孤独力”のタイトルが目にとまりましたが、世間の接触を断ち社会から離れ孤独になりなさいと取ってしまい、当初買うつもりありませんでした。しかし待てよ、先ずは読むだけ読んでみよう、と心を切り替えました。

会社の経営や事業継承を指導している目から見た、退いた会長の身の置き所はどこなのか。精神科医の視点から見た、社会的地位を手放したシニアの生き方はどうするのか。それなりに楽しみながら、むしろゆとりをもって、今までとは違う新しい世界を作ることが、求めることが大事だと感じました。二つの本は、これからの私を考える上で絶妙なタイミングの出会いでした。


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不思議な引き寄せ(その2)

2021年06月05日 04時49分51秒 | Weblog
知人に誘われるまま参加した千代田区倫理法人会で、高校の同期に20年ぶりに再会することも知らずに、直前に彼の本まで買っていました。その本は今の私にピッタリの内容でした。人間には不思議と引き寄せ合う、何かがあるのだと実感しました。その藤間(とうま)秋男さんに、23~4年前に大変お世話になりました。

24年前義父(家内の実父)が亡くなってからのことです。山形の酒田市で一人となった義母から、相続の税務申告のことで相談を受けました。できれば地元に縁がない税理士に頼みたいとのことでした。地元で長く会社経営していた義父のことを思い、色々と人の噂など気にしたかもしれません。困ったことに、私は山形で税理士の人は知りません。

その時にふと頭に浮かんだのは、東京千代田区の八重洲で手広く企業の税務・経営指導をしている藤間さんのことでした。彼とは高校時代クラスは一緒ではありませんでしたが、同学年の中でも目立った人物でした。高校より内部進学で同じ大学に入りますが、在学中に話したこともなく、大学を卒業してから25年目にして親しくなりました。

我々の大学は、卒業25年生をその年度の学生の卒業式に招待します。新OBを見守って欲しいとの意味合いです。併せ卒業25年の節目で、クラス会を行ったり名簿を整備したり、同期の親交を深める目的もありました。藤間さんは、その世話役のリーダー的な存在でした。私はというと、学部のクラスごとのまとめ役の一人として任命され、そのような準備会で彼と頻繁に顔を合わすことになったのです。

その繋がりから、山形の税理士を探してもらうのは彼しかいないと思いました。依頼して直ぐに連絡をもらい、山形市に心当たりがあるとのことでした。山形市から酒田市まで車でも片道2時間以上かかるところ、紹介してもらった税理士の方には度々往復してもらい、無事税務申告を終えることができました。その後彼の会社にも何回か訪れましたが、卒業25周年行事も終焉となり、会うことも無くなっていました。

“中小企業の「事業継承」 はじめに読む本”を読み終えました。65歳(私と同い年なので3年前)で彼は事業継承を果たしました。しかしそれまでに至る過程で、次期社長として第一候補であった息子に断られ、従業員の中から選ぼうとして候補の幹部が会社を辞めてしまう。それでも諦めず、その反省を踏まえ、社員であった現在の社長にやっとバトンを渡すことができた。と、会わなかった期間の彼の苦労話しを聞かせてもらっているようでした。

20年前の当時の彼は、第一線でバリバリ活躍していましたので、ちょっと近寄りがたいオーラが出ていました。仕事柄多くの指導先を見てきたこともあり、自身は何年も前から65歳で事業継承をすると決めていたそうで、それを見事に達成しました。そして会長職となり3年を経て、本を出す時機到来となったのだと思います。自分の失敗を隠さず書いていますので、親しみやすい本でした。

現社長を選ぶにあたり、全社員にアンケートで図ったところ、「ダントツで突出した人柄、最後まで人の話を聞く、後輩の面戸見がよい」が、理由だったそうです。藤間さんは三代目ですが、彼の代でコンサルタントグループ会社を構築したので、初代ともいえます。本にもありましたが、彼は0から1にするタイプで起業家タイプです。それに対して現社長は1を10にするタイプで管理者タイプです。起業家タイプから、管理者タイプへの事業継承となったわけです。

会長になってからの、社長に対しての会長の在り方につてもふれています。「指示系統の一本化が派閥形成を防ぐ」。社員からの報告・相談事項など、全て社長にすること。会長ルートを設けると、社長派とか会長派とかの派閥を作ってしまう結果をまねく。「後継者を受け入れる雰囲気を作る」。社長のリーダーシップを邪魔しないこと。会長は社員の前で社長を肯定的に評価する、つまり立てることで社員が社長を受け入れる。そのような二つが、要点でした。

同じく会長になった私にとり、示唆深い本です。今のわが社で私を諫める人はいません。まして第三者の他人は口を出すこともありません。本を通して、彼から箴言をもらっているようでした。  ~次回に続く~


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