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梶哲日記

鉄鋼流通業相談役の日々

ポスト資本主義と仏教(その7)

2024年12月28日 07時25分17秒 | Weblog
今回で、このテーマの話しは最後となります。仏教、仏教というけれど、その仏教はどこからきて一体何なのか。松波龍源著『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』の力を借ります。第三部“仏教の視点を比較する”の一部を要約して、以下引用させてもらいます。

 まずは私たちが生きる現代社会のベースとなっている、西洋哲学と仏教の比較です。紀元前500年ごろ、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「万物は流転する」という言葉を残したといわれます。すべてのものは移り変わってゆき、何かを固定的にとらえるのは不可能であると。この考えは、仏教とよく似ています。
 そこから100年ほど下ると、有名なソクラテス、プラトン、アリストテレスの時代になります。その中でもプラトンはヘラクレイトスに影響を受けたといわれ、その後の西洋哲学の大きな柱となった「イデア」を提唱しました。イデアを端的に説明するのは難しいのですが、ものごとの本質や真実の姿、この世の真理のようなものを表す概念です。
 仏教と決定的に違うのは、プラトンは、イデアを不動不変の、確固たる究極のゴールとして「存在する」と考えた点です。実在するけれども、私たちはまだそれが見えていないだけだというのです。仏教の場合は、直観すべき空性(真理)は変化そのもの、ネットワークそのものだと考えます。
 ギリシャ哲学の時代までの西洋哲学と仏教を比較すると、その違いの視点は『究極的な真理』と『興味の対象』に二つに集約されます。この二点は決定的に異なります。『究極的な真理』について、西洋哲学では「不変不動の確固たる真理が実在する」となり、仏教では「実在するのではなく、関係性やネットワークそのもの」となります。『興味の対象』について、西洋哲学では「認識の対象物:世界とは何か?」となり、仏教では「認識する心:私とは何か?」となります。
 その後、西洋哲学に大きな影響を与えたのがキリスト教です。キリスト教が生まれたのは中東のエルサレムですが、紀元2世紀ごろからヨーロッパに流入し、4世紀末にはローマ帝国が国教化しました。ギリシャ哲学には、哲人たちが「ああでもない、こうでもない」と自由に議論をして思索を深める伝統がありました。しかし、キリスト教が国教になったことで、それ以外の考え方が禁止されてしまいます。なぜかというと、キリスト教は「神がこの世をつくった」という世界観で動いており、聖書に書かれたことは「神の言葉」とされていたからです。ですから聖書の内容と矛盾することはすべてアウトとなり、自由な思索が大きな制約を受けることになります。ギリシャ哲学の時代には仏教と共通点の多かった西洋哲学ですが、その軸が聖書を絶対視するキリスト教になったことで、梃子でも絶対性を認めたくない仏教とは、完全に反対の方向を向いたのです。
 そんな仏教の発祥の地はインドです。日本への伝道は一旦中国に入り、そこから伝わります。その中国での仏教は、インドからバラバラに伝わり、そして中国でカスタマイズされ変容します。インドの人々は歴史の並び順や、「古いものが新しいものに移り変わりながら良くなっていく」という進化論的な考え方を、あまりしないようです。いろんなものがごちゃごちゃに混ざっていても「それはバリエーションだよね」という程度です。
 一方で中国や日本など東アジアの人々は、歴史や物事の順序、整合性を重視する精神文化を持っています。このあたりは西洋の弁証法的思考とよく似ていて、私たちは「新しく出てきたものは古いものより優れている」「古い劣ったものを解決しながら進歩していくのだ」という考え方を、無意識のうちにしているのでしょう。ここに、両者の違いがあります。
 仏教を歴史的に見ると、まず釈迦牟尼による原始仏教があり、部派仏教の時代を経て、大乗仏教という大きな流れが分岐しました。大乗の中でも、禅や密教や念仏など、さまざまな流派に分かれています。この流れがインドでは整理されておらず、古いとか新しいとかいうことは関係なく「どれも仏教だよね」と、ごちゃっと一か所にプールされているのです。
 そんな状況で、インドから時系列に関係なくランダムに中国に伝わっていくことになります。ものごとの順序や整合性を重視する中国では、後から伝わってきたものが新しいバージョンである「はず」で、新しいものは古いものより良い「はず」だと考えます。内容も整合性が取れませんから、中国の人々にとってはものすごく据わりが悪く、中国仏教界は大きく混乱します。
 こんなふうに、インドからバラバラに伝わってきた仏教に困惑する中国に、度胸のある人が現れました。天台智顗(てんだいちぎ)という6世紀後半の人物です。彼はごちゃごちゃとして整合性の取れていなかった仏教を、自身の解釈で「えいやっ!」と整理したのです。「これこそが、最も優れた仏教徒に向けた最高の教えだ」と彼が考えたのが「法華経」でした。こうして法華経をよりどころにした天台宗が、当時の中国では「最高で最新のバージョン」だとされたのです。
 実際の歴史事実とはまったく違うのですが、「ごちゃごちゃして訳がわからない」という人々の困惑を解消したことは、当時の中国仏教界では非常に大きな功績でした。この智顗の解釈がベースとなって、その後の中国仏教にも大きな影響を与え続けることになります。

以上が要約ですが、松波氏著書第三部のごく一部です。中国から今度は日本に伝来した仏教も、同じく中国からランダムに入り日本でカスタマイズされました。日本の今日までの仏教について、この本はとても解りやすくまとめています。いずれこのブログ上で、中国から渡って日本で変質した、その内容の仏教も紹介したいと思っています。

『ポスト資本主義と仏教』について、今回は話してきました。その仏教も、歴史上でも、国によっても多様性があります。しかし原点は2500年前の釈迦牟尼の思考であることは間違いありません。ポスト資本主義においての仏教の視点も、松波氏はそれをベースとしています。

人々が物質的に豊かになるため、その経済の成長のためにも、ある時代まで資本主義は避けて通れない必要なシステムでした。しかしその結果として、格差や不平等、気候変動、環境悪化、社会的排除など様々な弊害を生み出しました。それらを回避するのに、カーボンニュートラルやSDGsなどの取り組みも、近年課題となっています。資本主義もそうですが社会主義も、変質は繰り返してきたものの、両方とも陰と陽を持ち合わせ、歪を解消できていません。

釈迦牟尼の時代は物質的に豊かではなく、その仏教は現代を想定していませんが、釈迦牟尼は心の在り様の悟りをひらいていました。人間に必ず訪れる生老病死についても、どう考えどう対応するかヒントを与えていました。ポスト資本主義としての、そのような仏教を見直す必要性を今回痛感しました。
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ポスト資本主義と仏教(その6)

2024年12月21日 07時05分56秒 | Weblog
松波龍源著『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』。本書第一部“現代社会の事象を仏教の視点から読み解く”の中から、最後にとり上げる章は『消費社会とマーケティング』で、要約は以下となります 

『消費社会とマーケティング』
 顧客に対して商品やサービスが売れる仕組みを作ることを「マーケティング」といいます。マーケティングは、1920年代に資本主義が発達し、多くの人々が企業から安定的に給与を受けるシステムができてから生まれ、磨かれてきました。その定義や解釈はさまざまですが、競合他社や市場規模などのリサーチ、商品の提供方法を戦略的に練ること、広告宣伝、一連の活動の効果を検証することなどがマーケティングとして挙げられます。
 この章は、人間の本質をえぐるような難しいテーマです。欲望とどう向き合うか、これは仏教でも巨大な命題です。実は、欲望との向き合い方の変化によって、仏教そのものが少しずつ形を変えてきた歴史的事実があります。
 私たちの意識は、潜在意識と顕在意識の二層から成り立っています。前者は無意識、後者は自分で認識できる意識のことです。人間の欲望は、潜在意識から発生すると考えられています。なぜなら、もし欲望が顕在意識のものであれば、「買っても使い道がないよね」「似たようなものを持っているよね」と認識できた時点で、欲望が収まるはずだからです。でも実際には、「それでも欲しい!」という気持ちが湧き上がってくる。これは、潜在意識の領域が反応しているからに他なりません。
 真に心穏やかな日々を送るには、欲望をコントロールする必要がある。けれど欲望は潜在意識から湧き上がってくるものだから、コントロールはとても難しい。ここにどう向き合うかには、「唯識論」が大きなヒントになりそうです。苦しみや喜びは、ただ自分の中にしか存在しないと教える仏教では、「これが欲しい」と潜在意識から欲望が湧き上がってきたとき、それを入手したことで得られる満足は、その「モノ」自体には存在しないと考えます。
 例えば、最新型のスマートフォンが欲しいと思ったとしましょう。もしそのスマホを手に入れたとしても、その喜びは自分の心が作り出したもので、スマホそのものに付随しているわけではありません。別の言い方をすると、「欲しい」という気持ちがなければ、そこにスマホという物体だけがあっても嬉しくないでしょう。つまり自分の認識の中にしか、喜びや悲しみは存在しないのです。
 この考え方を、唯心論といいます。文字通り「ただ心のみが存在する」、すべてのものは自分の心の中にしかないという意味です。確かにスマホが新しくなったことは事実ですが、その事実に何らかの意味づけをし、それを享受するのは自分の心でしかない。これは、仏教が見いだした真理です。
 ですから大乗仏教[※欄外注釈]では、「なぜそれが欲しいのか、それを得たらどうなるのか、得られないとどうなるのか」をよく考えて行動し、苦しみを回避できるのであれば求めても構わないとしています。新しいスマホを入手し動作が軽くなったとか、きれいな画像で動画が見られ喜びが増せば、その欲望を否定しなくてもいい。しかし得られると思って得られなかったとき、それが苦しみに結実してしまうのなら、求めるのは愚かだと考えるのです。
 マーケティング手法が磨き抜かれた現代の資本主義社会では、売る側はあの手この手で費者の欲望を喚起してきます。でも今お話ししたことを念頭に置けば、相手に心の主導権を取られてしまい、必要のないものまで買ってしまうことは避けられるのではないでしょうか。心の持ちようによっては、得られないこともまた「何かを得ている」と考えることができます。
 一般的にマイナスに見えることでもプラスに変えることは可能ですし、それができるのが、人間の心の強さ、豊かさなのだと思います。人間の欲望に合わせて仏教そのものが変化したところで、先ほどもお話しした通り、仏教は長い間、割り切れない人間の欲望に向き合ってきました。どういった議論が生まれ、どのように考えてきたのか、順を追ってお話しします。
 第一段階として釈迦牟尼が生きていたとき、このころの仏教の教えの対象者は、出家者でした。そこから派生して在家(出家していない俗人)である王族や商人がいたのです。基本的には出家者向けで、その教えは「すべてを捨てなさい」という厳しいものです。得るべきは心の平安のみで、俗世的なものに対する欲望はあなたを苦しめるから、家族や住居さえも持たないようにせよということですね。
 しかし時代が下り、仏教が在家者にも広く受け入れられるようになると、出家者にしか適用できない教えが合わなくなってきます。たとえば、パン屋さんがパン屋をしながら心の平安を求めるにはどうすればいいか。店や家族を捨てるわけにはいきません。
 そこで、「欲望を否定する」の意味が少しずつ変わってきます。釈迦牟尼は「求めるな」と言いましたが、その理由は、俗世的なものを求めれば心に苦しみが発生すると考えたからです。じゃあ苦しみが発生しないのであれば、求めてもいいのではないか?このように教えの解釈を少し緩め、在家者が生活と両立できるようにしたのが、今しがた紹介した大乗仏教の欲望との向き合い方です。現代を生きる私たちがヒントにすべき点は、どうやらこのあたりにありそうな気がします。
 釈迦牟尼のオリジナルな教えにせよ大乗仏教にせよ、一貫しているのは「何かを求めた結果、苦しみが発生するのを回避しよう」ということ。これは仏教の肝になる部分です。何か失敗をすると、そのときはつらくてたまらないかもしれません。しかし何年も経って振り返ると「あのときの失敗があったから、今の自分があるんだな」と思えることがあるでしょう。これも心の持ちようです。先ほどの唯心論で説明できますし、因果関係で考えることもできます。これは、結果が確定して初めて、その原因が何だったのかが決まるという考え方です。
つまり、「今」という瞬間がどうであるかによって、「今」につながる過去の意味が決まる。目の前の出来事について、今この瞬間に感じるプラス・マイナスはありますが、将来どういう意味を持つのかはわかりません。未来は、そのときの「今」が、その意味を決定づけるのです。ハッピーで最高な「今」を現出させ続けるためにも、心がマイナスにならないように、いい塩梅で欲望とつき合っていきたいものです。

以上が『消費社会とマーケティング』の要約です。この章も仏教思想に慣れていないと、難解かもしれません。それでも、現代の資本主義社会では、売る側に心の主導権を取られてしまい、必要のないものまで買ってしまうと、伝えています。それでは、「心の豊かさは」得られないと、唱えています。   ~次回に続く~ 

※大乗仏教
紀元前後に伝統仏教に対する革新運動の中からおこった新仏教。みずからの立場を大きな乗り物の意と称し、利他主義の立場からいっさいみな成仏すると説き、既成教団を小乗と呼んだ。広く衆生を救済しようとする仏教思想であり、中国、朝鮮、日本に広がった。

 松波龍源さん



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ポスト資本主義と仏教(その5)

2024年12月14日 02時59分04秒 | Weblog
松波龍源著『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』。本書第一部“現代社会の事象を仏教の視点から読み解く”の中から、いよいよ核心の章である『ポスト資本主義』の、以下要約になります。

『ポスト資本主義』
 21世紀以降、資本主義の負の側面として、一部の企業や組織による既得権益と富の独占が指摘されるようになります。貧困や格差の広がり、労働者からの搾取、地球環境の悪化など、経済成長を前提とした資本主義社会の限界が見え始めました。そのような昨今において社会の「次」のあり方を模索する概念が、ポスト資本主義です。
 人類が資本主義を発明して以来、経済は飛躍的に成長し、そのおかげで私たちは便利で豊かな生活を享受してきました。ただ、物質的な豊かさが行き渡った昨今は、その負の側面が目立つようになっています。経済成長を優先すれば地球環境に負荷がかかりますし、資本主義の性質上富が特定の人に集中するため、一方で日々の生活さえままならない人が以前より増えています。
 要するに、今の社会のあり方はベストではない。グッドどころか、かなりしんどいわけです。ポスト資本主義を模索する動きには、どんなものがあるでしょうか。株式会社を例に考えてみると、これまでは株主の利益が最優先とされてきましたが、最近では取引先や従業員、地球環境にも同時に配慮することが求められるようになってきました。またカーシェアやシェアハウスなどのシェアリングエコノミーは、今まで個人や家庭で一つずつ所有していたものをみんなで使うことで、利用者の経済的負担や環境への負荷が軽減されるのです。
 なぜ、現代社会を生きるのがしんどいのか、ポスト資本主義の前に、まず今の「しんどい」社会はどういったシステムなのか考えてみましょう。弁証法という思考があり、高みへ進み、それを繰り返すことで究極の真理へ進むという概念です。18世紀の哲学者ヘーゲルによって定式化されました。現代の資本主義は、これら西洋由来の世界観を背景に機能しています。ところで、唯物論をベースにして社会を考えると、心の問題は「ない」ことになるのです。物質的に満たされれば心も幸せになるはず、という思想だからです。
 しかし実際には「出世して給料が上がった。地位も上がった。けれどむしろストレスが増えた」という人が山ほどいます。進化史観は、心地よい状態にとどまることは否定されがちで、より良き状態への進化を求められ、その「良き状態」は幻想かもしれないのに、目に見える結果が常に必要とされるのです。しかし現代社会を考えるうえで大切なのは、一人一人の「心のあり方」です。
 資本主義の性質上、短期的・個別的な利益の追求が、最適解となりがちです。従業員のプライベートを犠牲にしてでも会社の売り上げを伸ばそうとする経営者や、相手を陥れてでも自分の利益を確保しようとする人もいます。しかし、それで世の中が回らなくなってきているのは冒頭で述べた通りです。
 ポスト資本主義的な視点で大切とだとされる、長期的・全体的な利益の重要性は、仏教の「中観」と「唯識」で説明することができます。中観とは「あらゆるものごとは因果関係と相対性を持つ。ゆえに万物に絶対的、独立的な実存性はない」という考え方。唯識とは「ただ認識がある」との文字通り、「あらゆるものは何かに認識されることによってのみ存在する」という考え方です。
 この考えを前提にすると、「私」という概念は「他者」があってこそ成り立ちます。なぜなら、広い宇宙に自分一人しかいなければ、「私」という概念は必要ないからです。だとすれば、この世の中他者が存在することで「他者ではないものとしての私」が確定し、逆に「私」がいるからこそ他者の存在も確定するという相互関係も見えてきます。すると、「私」は、他者と関わらずに自分だけで存在することはできない、とわかるでしょう。
 もう一つ、「輪廻転生」を用いて、長期的・全体的な利益の重要性を説明しましょう。輪廻転生とはご存じの通り、死んだら魂のようなものが別の身体に生まれ変わり来世を生きる、という概念です。意外かもしれませんが、実はこれは仏教らしくない考え方だといえます。仏教は基本的に、とても合理的で科学的な哲学です。
 その中に「魂が生まれ変わる」という非科学的な内容が、しかも結構大きなウェイトで入り込んでいます。釈迦牟尼はとてもロジカルで、迷信のようなものはバッサリ切り捨てる人なのに、なぜ輪廻転生を否定しなかったのか。これを科学全盛の現代人にどう説明すべきか、私なりに考えたところ。人生が1回限りの単発ゲームだとしてしまうと、周りを蹴落とし、自分の寿命が終わるときに利益を最大化できれば「勝ち」です。でも、人生が1回限りなのか無限繰り返しゲームなのかは、誰もわかりませんよね。
 そうであれば人の命は無限に繰り返すものだと仮定して、一人勝ちではなく、かといって自己犠牲の精神でもなく、自分と他者の利益を等しく考えて協力し、妥協点を見つけたほうが、戦略としては有利なわけです。釈迦牟尼が輪廻転生や来世を否定しなかったのは、人生が無限繰り返しゲームであると仮定したほうが個人の人生も社会もうまくいく、という可能性に気づいていたからではないかと、私は考えています。
 世の中には、わからないことや証明できないことがたくさんあります。わからないけれども、どちらと仮定して生きるほうが、より良い結果に繋がるか。この考え方こそ、仏教を現代に実装して生きることに他なりません。輪廻を受け入れ難い方もいるでしょうが、一つの判断が目の前のことだけでなく先々にも影響することは間違いないようです。
 ところで、仏教で善悪を分けるポイントは「苦しみが発生するかどうか」ですから、善悪の審判を下す人格神は想定されていません。しかも「これが善だ」という絶対的な基準もありません。すべてのものごとは相対性の中で存在するので、「この条件下ではこれが善と認識されるけれども、条件が変われば悪に変わり得る」と考えます。正解があって、誰かがそれを与えてくれるわけではない。だからこそ、一人一人の真の賢さ、叡智が必要なのです。
 ここまでの話で、仏教がポスト資本主義社会を考える鍵になりそうなことが、なんとなくイメージしていただけたでしょうか。現生人類である私たちホモ・サピエンスは、原始人類のネアンデルタール人よりも個体の能力は劣っていたといわれます。それでも進化の過程でホモ・サピエンスが生き残ったのは、「われわれ」の認識範囲がネアンデルタール人よりも大きく、他者と協力したからだと聞いたことがあります。社会が少ししんどい状況にある今こそ、私たちはそれを思い出すべきなのかもしれません。

以上が『ポスト資本主義』の要約です。難解かもしれませんが、何回か読み直して下されば、理解に繋がると思います。これが仏教の指針です。ホモ・サピエンスが生き残ったのは、他者との協力があったからで、残念ながら経済成長を優先する資本主義にはこれが欠けているようです。仏教は、物質的なものごとや社会制度などよりも先に、その主体である一人一人の「心のあり方」を賢くしなさいと説きます。そして、すべては繋がり合っているという世界観に基づき、目の前のことに捉われず、局所も全体も等しく大切にしようという考え方を尊重するのです。    ~次回に続く~ 


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ポスト資本主義と仏教(その4) 

2024年12月07日 07時23分50秒 | Weblog
『会社で出世して、給料があがっても幸せになれない。役職がついても、もっともっとと負荷をかけられ、相応の対価はなく搾取される。その資本主義の「しんどさ」から脱却するために、仏教の視点が支えてくれるかもしれない』。今回のこのテーマの(その1)での、書き出しです。

資本主義の「しんどさ」から脱却するのは、仏教の視点であり、社会制度よりも心のあり方である。この考え方に同調し解説している本はないかと探したところ、松波龍源著『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』の本がありました。松波氏は、釈迦牟尼が志した仏教本来の役割を現代に蘇らせようと、その目的で実験的な寺院を運営している方なのです。

いよいよ本題の、この本の内容に添って「ポスト資本主義と仏教」について考を探ってみます。本書第一部“現代社会の事象を仏教の視点から読み解く”の中から、以下『VUCAの時代』『ポスト資本主義』『消費社会とマーケティング』と、特に大事だと思われる三章の要約になります。

『VUCAの時代』
 V(Volatility:変動性)、U(Uncertainty:不確実性)、C(Complexity: 複雑性)、A(Ambiguity:曖昧性)の頭文字をとった言葉です。「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」を示します。テクノロジーの進化、不安定な世界情勢、気候変動や新型コロナウイルス感染症の流行など、社会・経済環境の急激かつイレギュラーな変化によって、これまでスタンダードだと思われてきたことが揺らぎ、予測困難になりつつある現代の世相を表す言葉として使われます。
 皆さんが身を置くビジネスの世界では「VUCAの時代だから、これまで以上にキャリアを考えないといけない」とか、「今うまくいっていても、VUCAの時代だから3年先はどうなっているかわからない」という文脈で使われることが多いと思います。急な社会環境の変化により、未来を予測しづらくなってきた。これまでと同じやり方では通用しない可能性が高くなってきたから、対応するのがしんどい、大変だと感じられるわけです。
 しかし私は、この5年、10年でとりたてて世の中の不確実性が高まったとは考えません。そもそも、ものごとの複雑さやあいまいさ、不確実性は、時代によって増えたり減ったりするものではないはずです。その不確実性に気づかずに「こうなったら、こうなる」とものごとの関係を固定的に見ることが、しんどさの原因になっているように思います。
 仏教的な視点では、人々が生きて経験するものごとは、非常に多くのファクター(要因)の因果関係で成り立っていると考えます。あらゆるものごとには原因があり、そこに「縁」と呼ばれる作用があった結果、認知可能な状態で現出してくるのです。その因果・因縁も1対1の関係ではなく、いろんな要素が複雑なネットワークのように絡まっていて、我われはその中の一点を、現在の時空間で認識しているにすぎないと考えます。つまり、ものごとに絶対性はなく、すべてが相対性で成り立っているのです。
 ですから、その関係のネットワークの一部、たとえそれがごく微細なものであったとしても、その変化は全体に影響を与えます。たとえば「1年後の会社の状態」を考えてみてください。そこに絡むファクターが多すぎるため、予測できない(=絶対性がない)と考えるほうが自然なのです。あらゆるものは変化し、一瞬たりともとどまっていないのだから、何かを固定的に考えて執着すると、苦しみの原因になるというわけです。
 世の中には自分のコントロールが及ばないこともたくさんあります。むしろ、そちらのほうが多いかもしれません。例えば「これだけ頑張ったのだから、試験に受かるはずだ」「これだけの経験を持っているのだから、A社の面接に落ちるはずはない」などと考えたことはありませんか。しかし「一寸先は闇」という言葉があるように、何が起こるかはその瞬間までわからない。
 釈迦牟尼はよく「今を生きよ」と言います。「自分がここにいる」「何かが発生している」と認識できる瞬間は、今しかありません。過去の結果が「今」であり、未来の原因が「今」なのです。過去は参考にすべきですが、その再現性は不確実です。未来は予測できますが、その可能性も不確実。確かなのは「今この瞬間」しかありません。過去を振り返ること、未来を予測すること、今を生きること。この3つのバランスが取れずにどれかに偏ると、苦しみが生まれてしまうのだと思います。
 人類は、言語を獲得し思考できるようになった時点で、こうした苦しみを味わわざるを得ない宿命を背負いました。だから苦しみをゼロにすることはできなくても、何とか制御して、経験しなくてもよい苦しみから脱却しようとする。これが仏教の大きなテーマです。
 仏教には「死を考えなさい」「死を克服しなさい」という教えがよく出てきますが、それは予測可能な究極の「苦」である死に対する恐怖を越えられれば、他の苦しみもクリアできるという意味なのだと思います。自分はいずれ死ぬ、ということ以外、ものごとに絶対性はない。その自分の死さえも、大きな因果関係というネットワークの中でいかなる意味を持つのか、それは予測不可能である。
 だから未来に対して固定的な予断を持たず、しっかり「今」なすべきことをなしていこう。これが仏教の考え方です。つまり、世界がVUCAになったのではなく、はじめから世界はVUCAなのです。こう考えると、ちょっと気持ちが楽になりませんか。
 釈迦牟尼は次のように教えたといいます。過去を思い悩むな、未来に思いを懸けるな。過去は過ぎ去った、未来はいまだ来ていない。今のあり方にこそ、心を注ぎなさい。すべてを固定的にとらえないこと、覚者の悟りとはそのことである。人はどうすれば、幸せで、充実した人生を送ることができるのか。それを真剣かつ現実的に、2500年の長きにわたって考え続けてきたのが仏教です。本書で紹介するいにしえの叡智は、現代を生きる我われにとっても、きっと大いに役立つはずです。

以上が『VUCAの時代』の章の要約です。『ポスト資本主義』の序章になります。しんどさの解明をしています。不透明の中で、確かに死は、それしか確定できないと言っています。いにしえの叡智を利用しなさいとも言っています。物質やお金や名誉に捉われないで、苦しみを抑制する、心の在り様を観なさいと、唱えているのです。   ~次回に続く~


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