梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

嘘について(その1)

2020年10月31日 07時38分36秒 | Weblog
嘘をついてはいけないと分かっていても、嘘を絶対つかない人はこの世の中にいるのでしょうか。詐欺のような、お金を騙しとる嘘は絶対に許されません。しかし、他人の為につく嘘と自分の為につく嘘とは違う、とよく言われます。つまり、他人を守るためのもの嘘は許され、自己の防衛にための嘘は許されない、との解釈です。

奥さんが美容院から帰ってきて、私の髪の毛どうと聞かれて、夫はとてもいい綺麗だと、言ってしまいます。待ち合わせ時間にギリギリになり、その理由に電車がちょっと遅れてと、言ってしまっています。嘘はいけないことなのか、私なりに考えてみました。

いきなり柔らかい話題となりますが、浮気の話しです。大衆演劇の家に生まれ、若い時に女形で大ブレイクし「下町の玉三郎」と言われた、梅沢富美男さんです。今やテレビのバラエティー番組に多く出演し、歯に衣着せぬコメントで人気を得ている方です。先日車でラジオを聴いていたところ、梅沢さんが、浮気がバレた時の話をされていました。

今日は一日仕事だからと、梅沢さんは奥さんに伝えて出て行ったそうです。若い女性とデートして銀座の街中を歩いていたところ、向こうから何やら顔見知りの二人の女性が来るのを発見し、近づくと奥さんと梅沢さんの妹だったというのです。もう避けられず行き違ったけれど、奥さんから「こんにちは!」と、妹さんから「バ~カ‼」と声を掛けられたそうです。

ラジオでは更に浮気がバレた話をされていました。しかし梅沢さんからは、奥さんに対する後ろめたい気持ちは伝わりませんでした。それは開き直りでもないようです。「浮気はたとえバレたって言い訳はしません。だって、遊びなんだから。遊びの理由なんて言わないでしょ?」とも、梅沢さんは言います。

奥さんのお父様も遊び人だったとのことですが、家庭を守り大事にされた方だったようで、理解があるのかもしれません。そのような奥さんを、同じく大切にされている梅沢さんです。梅沢さんの嘘は身の保護というよりは、心配させない奥さんの為ともいえます。後ろめたさがない嘘は、嘘ではではないかもしれません。

しかし反面、このように嘘は時にはバレるものです。嘘の最大の落とし穴場はバレることです。ついた嘘に辻褄が合わず、隠すために、また嘘を重ねることもあります。バレた時に言い訳をするのは、バレたことの想定をしていないといえばそれまでですが、嘘をつくことの労力は並大抵ではありません。

バレないようにするとの観点からは、カモフラージュというのがあります。人間の世界で使うとあまり良くないイメージですが、動物の世界では、生きていく上に欠かせない防衛本能です。カモフラージュを辞書などで調べると「保護色」と出てきます。捕食者から襲われないために、自然界の色に自分の身体の色を調和させることです。

例えば、孔雀の雄が綺麗な羽を大きく広げて雌の関心を引くのは、求愛行為からです。優秀な子孫を残すために行われる、このカモフラージュも動物としての生命を繋げ、保持する為に必要なことです。気を引く行為、と取れば一種の騙しです。しかし、それを単純に嘘だといえるのかが問題です。

そのカモフラージュを、人間の世界に持ち込んだのが迷彩(偽装)です。森や埃のように軍服の色を変え、戦闘機や戦艦なども敵に見つからない工夫がなされています。戦争において防衛機能として活かすのが迷彩で、これも高度に生命を守る行為です。騙し(嘘)が、この防衛だとするなら必要です。

政治の世界で嘘はつきものと言われます。唯一絶対の政党があれば嘘はいらないでしょう。反対勢力へのそれなりの武器となれば、嘘は必要との考えもあります。嘘はいけないと言われますが、それほど単純ではなさそうです。もう少し嘘について考えてみます。   ~次回に続く~
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思考を継続する(その3)

2020年10月24日 09時49分21秒 | Weblog
もう一つわが社の事例です。最近新たなプロジェクトを立ち上げました。このケースは、結果を出さなければいけない思考の継続となります。皆が行動を一にする為にも、チームの全員が考えなくてはなりません。しかし傾向としたら、そのチームのトップが思考の先行をしてしまいがちです。結果を出さなくてはならない責任故、その考えをチームのメンバーに押し付けてしまう危険性があります。

私は前回も書きましたが、上に立つ人は、その部下に考えてもらうことを、深く考えなくてはならないと思っています。そうしなくては、チームの総合力は発揮できません。その為にも、個々の情報や物事の捉え方は共有すべきです。

新たな事業に取り組むのであれば、その主旨を充分理解した上で、プロジェクトのネーミングを皆から募る、各自より攻め方を提案してもらう、販売促進のカタログ作りを誰かに任せる、など行うことが参画意識を高めます。その過程で、プロジェクトの目的や意義を把握することが出来、皆の行動がより明確になると考えています。

齋藤孝さんの著書“思考中毒になる!”、という本を読みました。「私たちが毎日使うスマホには、様々な機能が詰め込まれていて、その一つには沢山の工夫が凝らされている」「では一体どんな人が斬新な発想をし、イノベーティブな商品やサービスを生み出すことができるのか。それは“考え続けている人”に他ならない」。との書き出しです。

「何らかの成果を常に生み出している人は、“考えずにはいられない人”=“思考中毒”の人である」「一度思考中毒になると、人は日常を面白がりながら生きることができる。それはあらゆる商品やサービス、あるいは文化から芸術に至るまで思考の集積として見る習慣がつく」。と続きます。

中毒というと悪い印象をイメージするけれど、実際は正反対で考えずにいられない習慣はむしろ快感である、と齋藤さんは言い切ります。この本には、考える時間の有効な使い方、考える場所を変えるメリット、その他様々な角度から思考に関するヒントがありました。考え続けて中毒になることの、むしろその楽しさを本は伝えています。

考えが行き詰まり、トイレに立って戻ってくる最中に、今までにないアイデアがふと湧くことがあります。また、その考えていたことから一旦離れ、時間をおいて考え直してみると、意外とその答えが見つかることがあります。そのような自身の体験から、頭の切り替えは必要だと感じます。その時の頭のキャパシティーは一杯だが、時間の経過により、余力を実感することがあります。切り替え(時)を味方にすることも思考に影響がありそうです。

齋藤孝さんは、図書館に行くと思考がパッタリとストップしてしまう感覚があり、その空間には催眠ガスが拡散されているように思うくらい眠くなる、と言います。一方喫茶店は適度に雑音が入り、なおかつ誰もが自分に無関心、外でスキマ時間を活用でき、集中力が高まる最高の思考空間であると言います。思考する環境(場所)も大切だと説いています。

思考の究極の行為は「書くこと」だと、齋藤さんは喝破します。「話す」「読む」よりもっと高度に思考する行いが文章を書くこと。話が面白いとは、話し手のキャラクターやテンポの良さや口調など、色々な要素で成り立っている。つまり雰囲気で話している。自分の思考を文字にできるというのは、思考している最良の証である。と、ズバリ書いています。

確かに、話は後で言い直せば誤魔化しはききます。しかし、書いたものは残りますので、軽はずみには書けません。このブログにしても、一旦書き上がってから、何回も読み返し考えて、書き直すのには時間を要します。
 
麻薬にしてもギャンブルにしても、中毒は一旦ハマると、なかなか元に戻れないと言われます。しかし思考中毒は、元に戻らな方がいい中毒です。このようなエンディングの言葉を考えついて、今回のテーマは終わりにします。
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思考を継続する(その2)

2020年10月17日 04時11分01秒 | Weblog
会社の方向性を確かなものするためにも、経営者は思考をより継続しなければなりません。そのトップの仕事で重要なのは、社員の意見を聞くことと、決断を下すことです。しかし社員の意見を尊重し過ぎ、決めることを決めないと優柔不断となります。一方、社員の意見を無視して、社長が何でも決めてしまうと暴君となります。いわばこの二つは水と油のようなもので、融合は経営者にとって永遠のテーマかもしれません。

どちらかと言うと、トップは結論(決断)を出したがります。それは次から次へと起こる問題に時間をあまり掛けられない、もし間違ったら修正すればよい(過ちては改むるに憚ること勿れ:との諺にあるように)、と思っているかもしれません。しかしここに落とし穴があり、判断の精度が高くなければ意味をなさいないと私は思います。

次に、社員の話を吸い上げようとする場合です。社員に意見を求めても、「社長が決めて下さい!(言われた通りやりますから)」と言われることがあります。その社員は、過去に何回か意見の具申をしたが採り上げてもらえなかったとか、あるいはそもそも考えるのが面倒くさいとか、あくまでも想定ですがそのような事も考えられます。

社員の意見を引き出すのなら、私はプロセスが大事だと思います。考えて意見を出す経験が無い社員からは、不平や不満だけが出る可能性があります。また社員から出される提案には、機械導入、設備更新など経費が発生する事案が多々あります。管理職ならば対費用効果も想定してもらい、その提案に責任も持ってもらわなくてはなりません。

最近のわが社での事例です。製造現場でこの度退職者が出て、補充するかどうかの事案が持ち上がりました。コロナの影響で鉄鋼業界も景気が悪化して、わが社でも仕事が落ち込み、国の雇用調整金を利用して全社員の労働時間を調整している状態が続いています。

このような状況で、欠員が出たから単純に補充するのか、現有社員でその仕事をカバーして回していくのか、現場の長が徹底的に検証しなければなりません。例えば補充せずこの機会に、若手に技術伝承のため他の機械の操作までさせるかどうかです。現場を一番熟知しているのは、トップより管理職社員です。提案することは自分たちの仕事を見直すチャンスでもあります。それを十分せず、責任は全て判断を下したトップだ、では真の会社の一体化は図れません。

とはいうものの先ず任せて(権限移譲)、結果を見ることも大事です。しかし任せっぱなしではなく、社員に考えてもらう視点を持たせる為に、しっかり経過も観察する。部下に考えさせるようにトップも考え続ける。となると単に目先の白黒の判断ではなく、考え抜けば白か黒かではなく答えはグレーかもしれません。「我問題考える故に我あり」。水と油の中で、その為にトップが存在すると私は思います。

硬い話しが続きました。私は朝車で通勤する時、地元のFM放送を聴いています。この時間帯は音楽だけ流れます。早朝ウォーキングを済ませ半身浴をして、汗をびっしょり出しシャワーを浴びて、軽い朝食を取って車に乗ります。FMの音楽を聴きながら、軽く口笛でハモれる時は、体の調子が良い証拠です。

思考を継続するといっても、集中力には限界もあります。課題について時間を気にしないで考えを集中することも必要ですが、無心にウォーキングしている時や音楽を聴いている時に、ふとアイデアが湧くことがあります。そして考えている課題に結びつくこともあります。体がほぐれ、リラックスしている状態も大事です。

体のコンディションもあるでしょうが、時間や場所を変えることの効果など、また思考を作り出す根本は何かについても、次回は少し触れてみてこのテーマを終えたいと思います。  ~次回に続く~
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思考を継続する(その1)

2020年10月10日 04時48分51秒 | Weblog
「考えているようで考えていない、考えていないようで考えている」。他人を見てそう思うかもしれませんが、案外自分の中でもそのような曖昧さはあります。深く持続して考えるのか、思いついて気ままに考えるのか、本来思考することは他人からは束縛されず自由です。

あまり考えずルーティン状態で仕事をしているとか、ネットやSNSで単に時間を無為に過ごすとか、このような事が多い人にとって、深く持続的な思考は面倒くさいと感じられるかもしれません。しかし一定の成果を上げる、何らかの結果を出す、物事を決断するとなると、思考の質や仕方は自ずと違ってくるはずです。

「思考を継続することは、人間の知性を司る脳の前頭前野を活性化させることで、心身を健全にする」、とも言われています。私自身、ルーティンで仕事をすることやネット・SNSに没頭することも殆どなく、日中はなにがしか考えています。といって、悩みや心配ごとをくよくよ考えているわけではないので、「心身を健全にする」ことに繋がるのでしょう。

一週間単位で考えているとなれば、このブログです。一週間というと少し大袈裟になりますが、何を書くかの話題探しは、投稿した翌日位から始まっています。話題を探して決める、付随事柄を調べる、内容を構成する、書き出す、書き終え見直す。これが一週間の流れとなりますが、全ては、それこそ思考抜きに考えられません。

意外と時間がかかってしまうのは、話題(テーマ)を決めるまでです。複数のテーマがある時もあり、週中までテーマが浮かんでこないこともあります。幸いにも、テーマが探せずブログを過去中断したことはありません。

このテーマについては、絞り出して考えるというより、自分の内側から湧いてくる、空から降りてくる、などの不思議な思いもしています。テーマを決めた後関連したことが、新聞記事で載っていたり、テレビの番組で放映されていたり、そのタイミングに驚くこともありました。

テーマが決まったとしても、直ぐ書き出すより一定の期間温めていた方が、色々な視点を発見します。その発想が湧いたとき、覚えてこうとしても暫く経つと忘れるので、紙に書き留めるか、なければスマホのメモに記すかしています。思考が消えていく、悔しい経験を何回もしています。

テーマ探しでいえば、ブログを書くようになってから、本や新聞の読み方、テレビの観方などが変わりました。どこかで、ブログのネタ(テーマ)を無意識に探していて、読み流したり聞き流したりすることは、あまりしなくなりました。今までの自分の範囲を超えて、何でも興味を持ってみる。ブログを書くことは、その意味でも大切だと思うようになりました。

本格的に書き出すのは、木曜から金曜日にかけてです。出来れば早く書き上げて、十分見直す時間は欲しいと思っています。書き間違い(誤字脱字)もありますが、皆さんが分かり易いよう表現については何度も書き直しています。誰が読んで下さるか分かりませんので、ここでも色々と思考を巡らしています。

余談ですがこのブログの閲覧数は毎日カウントされ、ログインすれば私だけが確認出来ます。当然多い日もあり、少ない日もあります。一週間単位の更新なので、毎週見て下さる方の閲覧数は凡そ一定です。昔は毎日の閲覧数を気にして、一喜一憂していました。

ブログは何の為に書いているのかと、今誰かから問われれば、究極的には「自分の為に」書いているとなります。最近では、閲覧数が少ない日は、皆さんお忙し中、それでも「これだけ」見て下さっていると思うようになりました。

次回はブログを離れ、「思考を続ける」ことについてまた書いてみます。来週のようにテーマが既に決まっていると、だいぶ楽です。 ~次回に続く~
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因果応報

2020年10月03日 06時35分01秒 | Weblog
風呂に入っていた時のことです。湯船ではない外の排水溝の蓋を超え、水が溜まっています。蓋の中にはフィルターがあり、そこに髪の毛などがへばりついて水が流れなくなったのです。それを綺麗に除去すれば、元のように排水が流れます。

一定の期間を経てフィルターが詰まり、蓋から水があふれますので、誰かがそれを除去しなくてはなりません。体を洗えば皮膚の角質も流れ落ちますので、手で触れればぬるぬるして(表現が露骨ですみません)、決して気持ち良いものではありません。

現在我が家は家内と二人きりです。私が除去する確率は50%です。その日は、私の出番となりました。仮に一人暮らしをしていれば、その回数は減るものの、私一人が除去すること必定です。この事象に直面して、“因果応報”との言葉が浮かんできました。

因果応報は本来仏教用語なのでしょうが、この機会に意味を調べてみました。辞書などでは、「過去や前世の行いに応じて現在の状況が生ずること」と、書かれています。因果応報は、現代では「過去の行い」の良し悪しが今の自分に返ってくるという解釈で使われていて、仏教では「前世の行い」が業(ごう)となって自分に返ってくるという意味で使われたようです。

文字を追っていくと、“因果”とは「因縁と果報」を示していると言われ、「因縁」とは物事が生じた原因、「果報」とは報いの結果という意味のようで、“応報”は「影響」との意味のようです。つまりは、「物事が生じた原因が(自分に)影響する」と読み解けます。

受け止め方として、因果応報があるという人と、ないという人に分かれると言われます。あるという人は自分に起こった出来事と過去の自分に照らし合わせて考える人であり、ないという人は自分に起きる出来事を偶然とかたまたまと受け止める人であると言えます。

因果応報の類語としては“自業自得”が挙げられています。“自業”とは「自分のした行い」、“自得”は「自分が得るもの」、との意味であると。自業自得は、通常悪い行いについて用いられることが多いが、この言葉は良い行い良い結果にも使うことが出来て、その点では因果応報と同じ、とありました。以上、簡単ですが調べた結果でした。

話しは変わりますが、チベット仏教を長年研究されている方のお話を、最近伺いました。佛教大学の仏教学科卒業後、ネパールのカトマンドゥへ留学し、約8年間チベット仏教僧院に滞在。五体投地20万回など過酷な前行を2回成就させ、チベット仏教ニンマ派の伝える密教の伝授を受けました。帰国後、チベット仏教の叡智を美術や教育を通して伝える活動をされている、牧野宗永という方からでした。

「仏教には輪廻転生など難しい教えもあるが、チベット仏教の伝えるところの根本は因果応報です」と、牧野さんは仰っていました。因みにチベット仏教には、お墓も戒名も無く、日本のお彼岸のような慣習も無いとのことです。

死後の四十九日までは、現世と来世のようなところを彷徨うが、その期間を経て殆どの者はまた生まれ変わる。ですから、お墓も戒名も彼岸も必要がないと言うのです。チベット高地に住むチベット人にとり、最も一般的なのが鳥葬です。魂が解放された後の肉体にはチベット人にとっては肉の抜け殻に過ぎない、とのことです。

お風呂で“因果応報”の言葉が浮かんだのは、牧野さんの話を聴く前でした。チベット仏教での因果応報とは、現世の行いが、直ぐに結果に出てしまうとのこと。しかし何に生まれてくるのかは、自分には分からないとのことでした。

因果応報と似た意味を持つ言葉が、まだありました。「身から出た錆」です。これは良い意味で使われることはなく、悪い行いによって得た結果のことです。お風呂の排水溝のフィルターに詰まった、汚いと感じるものは、正に身から出た錆です。進んで除去しなくてはならない道理を、因果応報として、少しは悟れたように思いました。
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