1939年8月28日に、杉原千畝はリトアニアのカウナスにある、日本領事館の領事代理として派遣されます。リトアニアはバルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中でもっとも南の国で、南はポーランド、南西は現在のロシアの飛び地のカリーニングラード州と国境を接しています。これからはまた録画していたテレビ番組の話しに戻ります。
杉原がリトアニアに赴任した4日後、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、さらにソ連も東側からポーランドに侵攻する。そして翌年の6月、ソ連は矛先をリトアニアに向け強引に進駐を開始して、カウナスの各国の大使館に2か月後を目処に閉鎖することを要求してくる。その準備をしていた杉原は、領事館に押しかけて来る大勢のユダヤ人を目撃する。
ナチスだけでなくスターリンもユダヤ人を敵視していたため、リトアニアに逃げてきたユダヤ人にも危機が迫っていたのである。杉原よりも先にオランダの領事が彼らに手を差し伸べ、南米のオランダ領へビザがなくても入国出来ると教え、独断で入国許可のビザをユダヤ人に与えていた。しかし彼らがそこに辿り着くには、シベリア鉄道経由で東側に逃げるしかなく、ウラジオストクから先に進むには日本の通過ビザが必要だった。
杉原は外務省に直ちに通過ビザ発給の許可を求めるが、「渡航先(南米)の入国許可や渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」との返答が返ってくる。しかし彼らの中には、その条件を満たす者は少なかった。彼らのビザを発給すれば服務規程違反でクビになる可能性もある。杉原は悩むが、家族の「あの人達を助けて!」という言葉で腹を括る。
杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人が日本に到着した頃、外務省から「渡航先の国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できず困っているから、入国手続きが済んで十分は渡航費用を持っている者以外にはビザを発給しないように」との通知が届く。杉原はこの電報を一旦黙殺する。そして杉原は「本ビザはウラジオストク乗船まで入国許可及び乗船券予約を完了するべきであることを条件にして発給した」という印を押し、領事館を閉鎖するまで12日間この条件付きビザを発給し続ける。
カウナスの領事館を閉鎖後、この時になってようやく外務省に電報の返事を送る。そこには「ウラジオストク到着までに入国許可と乗船券予約を済ませることを条件にビザを発給しています」と記している。これは杉原がビザを発給したユダヤ人がウラジオストクに到着する前に日本に届き、彼らのビザが偽造ではないことを証明することになった。
しかしユダヤ人達がウラジオストクから日本に向かっている時、それまでユダヤ人を受け入れていた南米が受け入れを拒否するという事態が発生する(ナチスの支配が及んできたと思われる)。日本からウラジオストクに対して、渡航先の南米諸国の場合には、日本に向かう船に乗せる許可を出さないようにとの指示が飛ぶ。しかし乗船許可が得られなかったユダヤ人はソ連に拘束され、そうなると命の保証はない。
この時「ユダヤ人の命の危険を分かっていて追い返すことは出来ない」と、外務省の方針に異を唱えたのがウラジオストク総領事代理の根井三郎だった。彼は外務省に「日本の領事が発行したビザを行先が南米だと言うことで船に乗せないのは、日本が発行したビザの威信を損なうことになり面白くない」と電報を打ち、全てのユダヤ人を船に乗せた。敦賀に到着したユダヤ人達は、その地が天国に見えたと語ったという。
番組では、杉原を助けた外交官として根井を称えていました。実は根井は杉原と一緒で、ハルビン日露協会学校の卒業生だったのです。この学校の創設者後藤新平の言葉、『人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう』の教えを、根井も大切にしていたのです。
二人のその後に興味を持ち調べてみると、もう一つの側面「謙虚さ」が浮かび上がります。戦後外務省を退職した杉原は商社に勤め、市井の人となりますが80歳にして、イスラエル政府から日本人で唯一「諸国民の中の正義の人」という称号をもらい時の人となります。根井は宮崎市の出身で、地元でも長らく無名の存在だったが、数年前からその足跡を調べる活動がスタートし、命のビザについては身内にも詳しく語っていなかったとされます。
根井三郎
杉原がリトアニアに赴任した4日後、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、さらにソ連も東側からポーランドに侵攻する。そして翌年の6月、ソ連は矛先をリトアニアに向け強引に進駐を開始して、カウナスの各国の大使館に2か月後を目処に閉鎖することを要求してくる。その準備をしていた杉原は、領事館に押しかけて来る大勢のユダヤ人を目撃する。
ナチスだけでなくスターリンもユダヤ人を敵視していたため、リトアニアに逃げてきたユダヤ人にも危機が迫っていたのである。杉原よりも先にオランダの領事が彼らに手を差し伸べ、南米のオランダ領へビザがなくても入国出来ると教え、独断で入国許可のビザをユダヤ人に与えていた。しかし彼らがそこに辿り着くには、シベリア鉄道経由で東側に逃げるしかなく、ウラジオストクから先に進むには日本の通過ビザが必要だった。
杉原は外務省に直ちに通過ビザ発給の許可を求めるが、「渡航先(南米)の入国許可や渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」との返答が返ってくる。しかし彼らの中には、その条件を満たす者は少なかった。彼らのビザを発給すれば服務規程違反でクビになる可能性もある。杉原は悩むが、家族の「あの人達を助けて!」という言葉で腹を括る。
杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人が日本に到着した頃、外務省から「渡航先の国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できず困っているから、入国手続きが済んで十分は渡航費用を持っている者以外にはビザを発給しないように」との通知が届く。杉原はこの電報を一旦黙殺する。そして杉原は「本ビザはウラジオストク乗船まで入国許可及び乗船券予約を完了するべきであることを条件にして発給した」という印を押し、領事館を閉鎖するまで12日間この条件付きビザを発給し続ける。
カウナスの領事館を閉鎖後、この時になってようやく外務省に電報の返事を送る。そこには「ウラジオストク到着までに入国許可と乗船券予約を済ませることを条件にビザを発給しています」と記している。これは杉原がビザを発給したユダヤ人がウラジオストクに到着する前に日本に届き、彼らのビザが偽造ではないことを証明することになった。
しかしユダヤ人達がウラジオストクから日本に向かっている時、それまでユダヤ人を受け入れていた南米が受け入れを拒否するという事態が発生する(ナチスの支配が及んできたと思われる)。日本からウラジオストクに対して、渡航先の南米諸国の場合には、日本に向かう船に乗せる許可を出さないようにとの指示が飛ぶ。しかし乗船許可が得られなかったユダヤ人はソ連に拘束され、そうなると命の保証はない。
この時「ユダヤ人の命の危険を分かっていて追い返すことは出来ない」と、外務省の方針に異を唱えたのがウラジオストク総領事代理の根井三郎だった。彼は外務省に「日本の領事が発行したビザを行先が南米だと言うことで船に乗せないのは、日本が発行したビザの威信を損なうことになり面白くない」と電報を打ち、全てのユダヤ人を船に乗せた。敦賀に到着したユダヤ人達は、その地が天国に見えたと語ったという。
番組では、杉原を助けた外交官として根井を称えていました。実は根井は杉原と一緒で、ハルビン日露協会学校の卒業生だったのです。この学校の創設者後藤新平の言葉、『人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう』の教えを、根井も大切にしていたのです。
二人のその後に興味を持ち調べてみると、もう一つの側面「謙虚さ」が浮かび上がります。戦後外務省を退職した杉原は商社に勤め、市井の人となりますが80歳にして、イスラエル政府から日本人で唯一「諸国民の中の正義の人」という称号をもらい時の人となります。根井は宮崎市の出身で、地元でも長らく無名の存在だったが、数年前からその足跡を調べる活動がスタートし、命のビザについては身内にも詳しく語っていなかったとされます。
根井三郎