梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

報いを求めず(その2)

2020年09月26日 04時50分01秒 | Weblog
1939年8月28日に、杉原千畝はリトアニアのカウナスにある、日本領事館の領事代理として派遣されます。リトアニアはバルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中でもっとも南の国で、南はポーランド、南西は現在のロシアの飛び地のカリーニングラード州と国境を接しています。これからはまた録画していたテレビ番組の話しに戻ります。

杉原がリトアニアに赴任した4日後、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、さらにソ連も東側からポーランドに侵攻する。そして翌年の6月、ソ連は矛先をリトアニアに向け強引に進駐を開始して、カウナスの各国の大使館に2か月後を目処に閉鎖することを要求してくる。その準備をしていた杉原は、領事館に押しかけて来る大勢のユダヤ人を目撃する。

ナチスだけでなくスターリンもユダヤ人を敵視していたため、リトアニアに逃げてきたユダヤ人にも危機が迫っていたのである。杉原よりも先にオランダの領事が彼らに手を差し伸べ、南米のオランダ領へビザがなくても入国出来ると教え、独断で入国許可のビザをユダヤ人に与えていた。しかし彼らがそこに辿り着くには、シベリア鉄道経由で東側に逃げるしかなく、ウラジオストクから先に進むには日本の通過ビザが必要だった。

杉原は外務省に直ちに通過ビザ発給の許可を求めるが、「渡航先(南米)の入国許可や渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」との返答が返ってくる。しかし彼らの中には、その条件を満たす者は少なかった。彼らのビザを発給すれば服務規程違反でクビになる可能性もある。杉原は悩むが、家族の「あの人達を助けて!」という言葉で腹を括る。

杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人が日本に到着した頃、外務省から「渡航先の国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できず困っているから、入国手続きが済んで十分は渡航費用を持っている者以外にはビザを発給しないように」との通知が届く。杉原はこの電報を一旦黙殺する。そして杉原は「本ビザはウラジオストク乗船まで入国許可及び乗船券予約を完了するべきであることを条件にして発給した」という印を押し、領事館を閉鎖するまで12日間この条件付きビザを発給し続ける。

カウナスの領事館を閉鎖後、この時になってようやく外務省に電報の返事を送る。そこには「ウラジオストク到着までに入国許可と乗船券予約を済ませることを条件にビザを発給しています」と記している。これは杉原がビザを発給したユダヤ人がウラジオストクに到着する前に日本に届き、彼らのビザが偽造ではないことを証明することになった。

しかしユダヤ人達がウラジオストクから日本に向かっている時、それまでユダヤ人を受け入れていた南米が受け入れを拒否するという事態が発生する(ナチスの支配が及んできたと思われる)。日本からウラジオストクに対して、渡航先の南米諸国の場合には、日本に向かう船に乗せる許可を出さないようにとの指示が飛ぶ。しかし乗船許可が得られなかったユダヤ人はソ連に拘束され、そうなると命の保証はない。

この時「ユダヤ人の命の危険を分かっていて追い返すことは出来ない」と、外務省の方針に異を唱えたのがウラジオストク総領事代理の根井三郎だった。彼は外務省に「日本の領事が発行したビザを行先が南米だと言うことで船に乗せないのは、日本が発行したビザの威信を損なうことになり面白くない」と電報を打ち、全てのユダヤ人を船に乗せた。敦賀に到着したユダヤ人達は、その地が天国に見えたと語ったという。

番組では、杉原を助けた外交官として根井を称えていました。実は根井は杉原と一緒で、ハルビン日露協会学校の卒業生だったのです。この学校の創設者後藤新平の言葉、『人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう』の教えを、根井も大切にしていたのです。

二人のその後に興味を持ち調べてみると、もう一つの側面「謙虚さ」が浮かび上がります。戦後外務省を退職した杉原は商社に勤め、市井の人となりますが80歳にして、イスラエル政府から日本人で唯一「諸国民の中の正義の人」という称号をもらい時の人となります。根井は宮崎市の出身で、地元でも長らく無名の存在だったが、数年前からその足跡を調べる活動がスタートし、命のビザについては身内にも詳しく語っていなかったとされます。

 根井三郎
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報いを求めず(その1)

2020年09月19日 04時29分50秒 | Weblog
前回まで『弱さを希望に』のテーマの中で、書かせてもらいましたコルベ神父は、他人の為に行ったことに「お礼」は一切求めませんでした。アウシュヴィッツ収容所囚人の一人が脱走し、その懲罰で無作為に選ばれ餓死させられる刑を受ける10名のうち一人の、身代りになったのが神父でした。

コルベ神父が身代わりになり救われたガイオニチェクは、別れの時神父に心からのお礼を伝えたかったのですが、ナチスは処罰される人と他の囚人との会話を禁止していました。それをガイオニチェクは、死ぬまで後悔したと言われています。しかし神父は、もとよりお礼など求めていなかったのです。自分の信念に従っただけなのです。

第二次世界大戦の時、命のビザを発行した杉原千畝とコルベ神父には共通点がありました。「ユダヤ人を救った」ことと「報いを求めなかった」ことでした。6月に録画していた杉原千畝のテレビ番組を観ましたが、最近新聞にもシリーズで杉原についての記事が載りました。杉原がどうして報いを求めなかったのか、その番組で取り上げていましたが、それは後藤新平の影響です。

杉原千畝は、岐阜県八百津町に生まれ幼い頃から学業優秀で、父親は医者になることを期待していたという。しかし彼自身は外国語に興味を持ち、英語の教師になりたいという希望を持っていた。18才で上京して早稲田大学に入学する。しかし父の意向に背いていたために仕送りがなく、たちまち生活費に困ることになる。そんな時に外務省の官費留学生募集を見つける。

3年間の学費と留学先への渡航費が支給され、学費は最大で年2500円。大卒の初任給が40円の時代なので破格の条件である。杉原はこれに応募することにする。しかし英語の募集がなかったため、当時人気だったスペイン語を選択し、猛勉強の末に合格する。ところがスペイン語の希望者が多数だったためか、ロシア語の選択に回されてしまう。

こうして杉原は官費でハルビン日露教会学校に留学し、ロシア語の勉強に励むことになる。この時に、この学校の創設者に後藤新平の言葉『人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう』を、心に刻むことになる。24歳で外務省に正式採用されハルビン日本総領事館に赴任する。ここで白系ロシア人と交流して情報網を築き、その後に満州国外交部に移籍する。

ここで北満州鉄道を巡る交渉で活躍する。日本とソ連で共同経営になっていて、何かと紛争の種になっていた同鉄道の経営権を満州国がソ連から買い取ろうとしていたのだが、ソ連の提示額は6憶2500万円、満州国の提示額は5000万円と開きが多すぎて交渉が暗礁に乗り上げていたのである。

この時杉原は白系ロシア人のネットワークから、ソ連が交渉中に車両を勝手にソ連に引き揚げているという情報を入手する。これは問題行為であり、ここをついてソ連に譲歩を迫り、1億4000万円まで譲渡額を下げさせたことで交渉がまとまる。これで杉原の外交官としての名声が高まることになる。

番組では、バルト三国のリトアニアに外交官として赴任する前の、杉原の手腕が紹介されていました。新聞の記事には、人道・博愛精神第一を貫いた杉原の昔関わった現地まで行って、立体的な杉原像が浮き彫りにされています。

外務省の指示に反してまで、命のビザを発行したその杉原に間接的に精神的(報いを求めない)な影響を与えたのは、後藤新平(1857年~1929年)です。後藤は医師であり、官僚でもあり、政治家でした。台湾総督府民政官長、満鉄初代総裁、逓信・内務・外務大臣を歴任し、大胆な構想は時に「大風呂敷」とあだ名されましたが、関東大震災の帝都復興計画を立案し、焼け跡に近代的な首都グランドデザインを描きます。 ~次回に続く~

 杉原千畝
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弱さを希望に(その3)

2020年09月12日 04時40分55秒 | Weblog
コルベ神父はナチスに逮捕され、そしてアウシュヴィッツ収容所に送り込まれます。神父たちは連日特別に、過酷な労働を課せられ、監視役からは殴打や足蹴りが容赦なく飛んできました。ある日神父の収容されていた14号棟の囚人一人が脱走しました。

それが発覚すると、14号棟の600人の囚人は皆、焼け付くような日差しの下に水も食料も与えられないまま、一日中立たされました。その上、一人の脱走者が出ると、同じ棟の10名が無作為に選ばれ処刑される掟でした。しかも処刑法は陰惨を極め、座ることもできない狭い懲罰牢に押し込められ、食べ物も水も一切断たれ、餓死させられるのです。

懲罰牢に連行され処刑される10名のうち一人が、「妻や子供にもう一度会いたい!」と泣き叫んだのです。なんとその処刑者の身代わりとなった者が現れます。それがコルベ神父でした。「私はカトリックの神父であり、もう若くはなく、妻も子もいませんから」と、申し出たのです。

牢の中で、神父は一緒に処刑される死刑者のためにひたすら祈り、賛美歌を歌ったといわれます。死刑者の大半が錯乱状態となります。そして餓死する中で、なお神父は意識を失わず毅然として生き続け、二週間後さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、天に召されます。

亡くなった時、神父の顔は輝いていたといわれています。脱走した囚人は、皮肉にも、後になって収容所の便所で溺死しているのが見つかりました。この発見がもう少し早ければ、神父は餓死刑に処せられずに済んでいたのです。

一方、神父が身代わりになり救われた囚人は、フランシスコ・ガイオニチェクという、当時39歳のポーランド人軍曹でした。その後彼は他の収容所に移送され、そこで連合軍に解放され、終戦を迎え生き延びました。神父の命日には毎年アウシュヴィッツを訪れるようになります。

更に神父の行為を広く世に知らしめるために、彼はヨーロッパやアメリカを回るようになりました。「自分の命欲しさのために、神父の死の宣告書にサインした」。神父のことを思うたびに自責の念に駆られた彼です。だからこそ自分のしたことを伝え続けたのです。そして94歳の天寿を全うします。

コルベ神父を心から尊敬した小崎さんは、ポーランドへの巡礼は10回にも及びます。そして神父が身代わりになったその人物、ガイオニチェクさんに巡り合います。小崎さんをそこまで突き動かしたのは、原爆の原体験の三つの問題解決が残っていたからです。『助けなかった』『逃げた』『許さなかった』です。ガイオニチェクさんを通して、神父の慈悲を間接的に受け取ったのです。

8月に放映されたNHKEテレ“心の時代~宗教・人生~”の番組の最後は、小崎さんが長崎の聖母の騎士ルルドへ登ります。ルルドとはフランスの田舎にある村の名で、そこに聖母が現れ少女に足元を掘るように言うと、そこから泉が湧き出し、その水を飲んだ者は病気が癒されました。奇蹟の水が湧き出す村として世界的に知られるようになり、この泉にあやかり、各地の教会敷地内にルルドの洞窟を模したものが作られるようになりました。

コルベ神父もまた、修道院のある山にルルドを設け祈りの場としました。15歳の時結核を回復し母に連れられて来たルルドへ、小崎さんは8年ぶりに登ります。番組のディレクターが最後の質問をしました。「『ざま、みろ』と告げた先輩に、今どんな声をかけますか」。小崎さんは、「『大丈夫か』か、それだけだね。手を伸ばして助ける事は勇気がいる。だけどコルベ神父さまを知った以上は、助ける人間になりたいと、心の隅にある。起こして助けるか、人間の弱さがまだ残っているから、わからない」。その正直で素直な気持ちに感動しました。

 取材中の小崎さん

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弱さを希望に(その2)

2020年09月05日 06時24分06秒 | Weblog
小崎登明さんは昭和3年、その時代日本の統治下にあった朝鮮半島の羅津に生まれます。本籍は長崎、父親は隠れキリシタンの末裔であり、母親も長崎市の浦上キリシタンでした。羅津在住当時、町で唯一のカトリック信者であり、その両親からカトリック信仰を受け継ぎました。

昭和10年、羅津で精肉店を営んでいた父が急死。昭和16年にカリエスを患い帰国し、母親の実家である長崎市浦上へ移り住みます。昭和19年より三菱兵器製作所の工員となり、昭和20年8月9日の長崎原爆投下時には、長崎市郊外にあった住吉トンネル工場内で、航空魚雷の部品を製造中に被爆します。

その年の10月8日、コルベ神父によって創設された聖母の騎士修道院を訪れ、ゼノ・ゼブロフスキー修道士やミロハナ神父に迎えられました。これをきっかけにコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士となる道に進みます。聖母の騎士小学校や椿原中学校校長を務め、平成3年聖母の騎士修道院内の聖コルベ記念館担当となり、その後館長を務めます。

母親の50回忌平成6年8月9日より、被爆体験を語る語り部として活動を始めます。平成30年、ポーランドの外務大臣名誉勲章「ベネ・メリト」を受章。これは、国際社会でポーランドの地位向上に貢献した人に贈られるものです。令和元年、地元の中学校で「平和教育講演会」の講師を務め、「平和の大切さ・許し合う心」を伝えてきました。

このような略歴が小崎さんです。両親の影響でカソリック信者となったのは当然でしょうが、幼い時に父を失い、そしてそれまで自分を支えてくれた母も原爆で失い、小崎さんは一人取り残されます。学校の成績が良かったそうですがその後も体が弱く、司祭(神父)になる道を断念します。聖フランシスコ修道会の修道士になったのは、自然の流れでした。

「神さまはいるのだろうか」と、一時は信仰が揺らいだと、小崎さんは回顧しています。そんな時、同修道会を開設したコルベ神父がアウシュヴィッツ収容所で身代わりを申し出て死刑になったことを知り、「人間にはどんな時でも希望が持てる(弱さを希望に)」と思うようになったとのことです。

さて聖人コルベ神父については、アウシュヴィッツ収容所のガイド(唯一日本人ガイド)さんから、私は直接話を聞いたことがあります。神父が死刑になった場所も実際見てきました。今から三年前ですが、ある勉強会でアウシュヴィッツの視察研修旅行が開催されました。コルベ神父の生き様に衝撃と感動を覚え、自分なりに調べてみたこともあります。

今から120年程前にポーランドに生まれたのが、マキシミリアン・コルベ(1894~1941年)です。父親は織物職人。13歳の時にフランシスコ修道会の神学校に入り、その後ローマにも留学して7年間哲学と神学を学び、25歳で司祭叙階を受け帰国します。

それから3年間はクラクフ(アウシュビッツの近くの古都)にある神学校の教会史の教授を勤め、33歳の時にカトリック教会における教義の小冊子を発行し宣教活動を始めます。36歳で「けがれなき聖母マリアを全世界の人々に示す」という大きな夢を持って、ポーランド人修道士たちと共に東方へ宣教に乗り出します。

その地が日本の長崎でした。6年間この布教は続き、1936年に帰国します。そして母国ポーランドは1939年8月ドイツ軍に占領されます。このポーランドで、神父は仲間の聖職者と共に、家を追われて辛苦にあえぐ人々を励まし神の教えを説きました。神父たちが保護した3,000人のポーランド人の内、2,000人がユダヤ系でした。

ナチスはポーランド人の知識層・指導者まで迫害の対象としました。そのナチスが、ユダヤ人までかくまった神父たちを放っておくわけがありません。1941年2月、ユダヤ人とポーランド人の抵抗組織を援助した容疑で、ナチスによって神父たちは逮捕されます。  ~次回に続く~

 コルベ神父
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