梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

書き続けること(その2)

2023年04月29日 05時48分29秒 | Weblog
今話題の「チャットGPT」について、ここでふれておきます。何故なら、今回のブログ「書き続けて」のテーマに関係するからです。ひょっとしたら、ブログを書く苦しさから解放される可能性があるかもしれません。「チャットGPT」を活用するかどうかの是非はさておき、このような時代になったとの認識はしておきたいと思います。

そもそもチャット(Chat)GPTとは何なのか、です。直訳すると、Chatとは「雑談」のことであり、GPTとはGenerative Pre-trained Transformerの略であり、「生成可能な事前学習済み変換システム」とのことです。チャットGPTは、ユーザーが入力した質問に対して、まるで人間のように自然な対話形式でAI(人口知能)が答えるサービスです。2022年11月に無料で公開されてから、回答精度の高さが話題となり、利用者が飛躍的に増加しました。

チャットGPTは、与えられたテキストの指示に対して自然言語を生成するAIで、インターネット上にある膨大な情報を学習し、複雑な語彙・表現も理解できるのが特徴です。さらに過去の会話内容を記憶したり、内容に誤りがあった場合はユーザーが訂正したりできるなど、より自然な会話に近づくための機能が搭載されています。
 
このチャットGPTを開発した、米国新興企業「オープンAI」のサム・アルトマンCEOが4月10日来日し、岸田首相と面談しました。欧州を中心にGTPなどAIへの規制論が広がるなかアルトマン氏との面談は、一般には名前もしられていなかったベンチャー経営者と首相が会うことは異例で、アルトマン自身も初めて米国外を訪れ政府首脳との話し合いとなりました。AIの研究開発で遅れをとっている日本は、AI利用に前のめりの姿勢が見受けられます。

しかし世界では生成AIに対するへの逆風は強く、課題の一つが個人データ漏洩や著作権の侵害などで、このサービスを停止する国もあります。教育の現場では、学習への悪影響が懸念され、誤った学習データに基づき事実誤認を作り出す可能性も否定できません。また悪意をもって利用されれば、社会が混乱する恐れもあります。色々このような懸念があります。

それに対して、依頼に対し自然な文章を瞬時に作成、補助的な仕事の負担を軽減、新たな発想や着眼点が示される、知的な作業での対話によって考えが深まる、など期待されている面もあります。期待と懸念、賛成と反対の両論があります。最近、新聞紙上では毎日といっていいほどチャットGPTの記事を目にするようになりました。「生成AIはもっと進歩する」「AI時代はもう後戻りできない」「一律な利用禁止は何も生み出さない」「使わない方がリスクになる」等々、規制よりも推進のコメントが目立ちます。

例えばチャットGPTに、「鉄鋼流通業三代目の事業継承」について○○字以内でブログ風に書いてと頼めば、瞬時に文章が出てくることでしょう。『AIが書いたAIについての本』が、発刊されたのを新聞広告で知りました。著者はAI、監修は人の名になっています。著作本は、もうここまできています。人が読む文章は人が書かない、それも人が書いているのかAIが書いているのか、言われなければ分からない。「AI時代はもう後戻りできない」との証左でしょう。

「ウィキペディア」という言語検索機能がありす。世界中のボランティアの共同作業によって執筆及び作成される、フリーの多言語インターネット百科事典です。私もブログを書く時は大いに活用しています。そのウィキペディアと生成AIとの比較です。どちらも自ら調べる手間や時間を省けますが、信憑性の点についてはウィキペディアが優れ、生成AIは嘘の情報が紛れています。一方ウィキペディアには知識はありますが、生成AIのようにアイデアを提供してくれるような知恵はありません。

文章作成において決定的な違いは、生成AIは主体(書き手)となり得ますが、ウィキペディアはあくまでも客体(手段)です。主体となりすましてしまう生成AIを、マスコミは「人類の神か悪魔か」とも表現します。AIに依存することで考える能力を放棄してしまう危険があります。時に100字しか書けない私の辛さは、思索、構想、感受性、など巡らすチャンスを天から与えられているとも取れます。ブログに向かいながらのこの時間を大事にしたいと、今は思います。   ~次回に続く~
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書き続けること(その1)

2023年04月22日 05時20分30秒 | Weblog
『ブログ掲載900回おめでとうございます。17年と2ヶ月の長きに渡り、休刊なさる事もなく書き続けるその精神力には、唯々尊敬と感謝しかありません。時には理解出来ない難解な内容もありますが、一読者としてはそれも学びの一環と捉えております。「継続は力なり」これに尽きます』。

私のブログにコメントをくれる人は珍しいのですが、このような投稿がありました。17年と2ヶ月前に毎週一回書き続けて、 先週“梶哲日記”は900回を迎えました。「RESPECT」と題して、「四代目」の名前でコメントを下さった方には、長いお付き合いに改めてお礼申します。

このブログを始めた時の2006年、17年前の私は53歳でした。先代が急逝して、私が急遽社長職を引き継いで16年目です。その4年前の2002年、会社は大きな転機を迎えていました。当時素材鋼板のメインの販売先が破綻し、その会社の事業を継承する形で、わが社は新たに溶断加工業に進出します。破綻先の従業員はわが社の社員となり、力を合わせて難局を乗り切ることしか道はありませんでした。

二つの会社が統合して4年後に、このブログを始めた一つのきっかけです。私の考え方やものの見方を社員に分かってもらえたら、そんな願いがありました。勿論、捉え方が正しいわけではありません。しかしながら、社員と面と向かって話せないむしろ失敗談なども、隠さず伝えられればとの思いでした。身内の事もさらけ出してしまうので、妻からは嫌がられました。綺麗ごとだけ書いていても、読んでくれている人が興味を持たないと思ったからです。

このブログは私から発信するだけで、見ることを社員には強要してきませんでした。私自身、義務とか強制されることが嫌いだからです。実は冒頭のコメントは、ネタバレ風にいえばわが社の一人、毎週アップの日には必ず読んでくれる一人です。ブログを通し「全社員一体!」とまではいかなかったかもしれませんが、関心を寄せてくれる社員がいたことは事実です。

ブログを書く当初の目的も、年月を経て変わってきたように思います。世の中の事象、わが社の状況、私の年回りや立場、そのような変遷により書く内容が少しずつ変わってきました。読んでくれているであろう他人を気にするのではなく、自分に正直にそして自分自身を見つめながら、書くように努めてきました。

日記は本来公開するものではありませんが、“梶哲日記”は毎日の記録ではなく日々の積み重ねとして(週3~4日費やして)、あえてブログとして公開してきました。17年も経過して、書き続けることの難しさも感じています。歳のせいなのか、書き上げるのに時間がかかり、サラッと書けなくなりました。それでも続けられ、逃げずに自分に向き合えたことは収穫でした。

宮本輝さん(75歳)という小説家がいます。広告代理店勤務を経て、戦後の大阪の貧しい庶民の生活を描いた『泥の河』(1977年)でデビューし、その作品は映画にもなりました。書き続けることの辛さを語っている、氏の記事を読みました。過酷なシルクロードの旅を記しエッセーを刊行し、そこから学んだ「粘りと諦めない姿勢」が書かれていました。

「小説もそうです。一遍に100文字は書けません。一文字、一文字、書くしかありません。全く書けない日もありますよ。何も浮かんでこない。明日の締切りどうしようかと。あの旅を思い出します。ふと浮かんだ町。何とかいう町だったな。ゴビ砂漠を歩いていた青年は、今どこにいるのかって。すると一文字また一文字書ける。きょうはこれだけ進んだ。もう少しでオアシスだって、思えるのです」。

「昔、井上靖さんに『書けない時はどうするんですか』って聞いたことがあります。井上さんは、『書けない時は書くんです』と言いました。そんな訳分からんことを、と思いましたね(笑)。でも、『いつか分かりますよ。書けない時には書くんです。そしたらまた書けるようになります』、って。井上さんが、言った通りでした」。

小説家とブログを書く私とは全く違いますが、書き続けるけど書けない者の話しとして、励まされる言葉でした。    ~次回に続く~
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“妻”と呼んで

2023年04月15日 06時01分05秒 | Weblog
夫婦三組、6人で食事会をすることになりました。夫3人は前回のブログ「北八ヶ岳」で一緒に行った大学時代のクラブの仲間で、それぞれの奥さん3人とです。北八ヶ岳に登った帰りの電車で、今度は奥さんも参加した集まりにしょうとの話に発展しました。

男性ばかり外で楽しんでいては留守にする女性に申し訳ないとの気持ちもあり、それ以上に、夫婦三組の中で面識がない人もいるので、この機会に一同に会したらどうかとの意見で一致しました。私どものケースでいえば、同期のOさんとは夫婦同士以前から長い付き合いがありましたが、一つ上の先輩のNさん夫婦とは私の家内は今回が初対面でした。

夫婦三組の食事会は、時間の経つのも忘れる程とても楽しい雰囲気で終わりました。「夫婦は似ている」、私の感想です。数式の中で同類項という言葉が使われますが、転じて同じような性質・状態をもっていることにも使われ、あまり好ましくない共通点もあることも示します。更に類項作用として使われ、良くも悪くも互いに引き合うことの意味ともなります。夫婦はこの類項作用が働いていると、今回感じました。男女は元々似ている同士引き合い、結婚して長く暮らすことで二人とも似てくるのか、果たしてどちらかはっきり判りません。

類項だけでなく、「夫婦は補完を求める」場合もあります。一対との言葉がありますが、二つで一組になっているとの意味です。全く同一の二つが一対になっているのではなく、互いに不足を補いあうために一対になっているとも考えられます。夫の言葉不足を妻が言い換える場面が、今回の集まりで多々ありました。いずれにしても、男だけで山に行っている時とは違い、奥さんを介し色々な側面が見れたことは収穫でした。

話しは少し変わりますが、“「妻と呼んで」6割、実際35%”との見出しの新聞のコラムを読みました。ある機関が実施したアンケートの結果からです。他人の前で自分(女性)の配偶者(男性)にどう呼ばれたいかの問いに、“妻”が6割であった。しかし、人に話す時自分(男性)の配偶者(女性)をどう呼ぶか、実際は“妻”35%でしかなかった。

自分や他人の配偶者を、あなたはどうのように呼びますか。男性は「夫」「旦那」「主人」、女性は「妻」「嫁」「奥さん」「家内」など日本語には配偶者に関する表現がいくつも存在するが、どのように呼ぶのがふさわしのだろう。そんなアンケート調査で色々な考察ができるというのです。

配偶者の表現には、戦後に廃止された家父長制や家制度の影響が残る。「旦那」は「施し」や「世話をしてくれる男性」といった意味がある。「嫁」は「息子と結婚してその家の一員となった女性」を意味する。「主人」や「家内」といった呼び方も「一家のあるじは男性」「女性が家事をする」という意味もにじむ。記事では、そう指摘します。

別のアンケートからは、呼称について「中立的な呼び方をすべきだ」との回答は55%にのぼるなど、平等を重視したいとの意識がうかがえる。中立的な呼び方としては「パートナー」があり、少なくとも役割決めつけ的な呼称は不適切ではないか。総務省の労働力調査によると、2022年の15~64歳の女性の就業率は72.4%まで上昇。「男性は仕事」「女性は家事」という時代はとうの昔に終わっている。と、ありました。

さて今回集まった男性はどうでしょうか。昭和20〜30年代に生まれ育った私たちは、まだ家制度が強かった時代です。まさに男は仕事、女は家事の世の中でした。私は配偶者のことを、ずっと“家内”と言ってきましたが、そんなことすら意識にも上りませんでした。これを機に、これからは対外的には“妻”と呼ぶことにします。

夫唱婦随とは、夫婦の仲がとても良いことの例えで使われます。がしかし、「唱」は言い出すことで夫が言い出し、「隋」は従うことで妻がそれに付いていく、の意となります。昔は、夫唱婦随で何でも主人のいう通りになるのが女房の勤めだったのです。時代は変わりました。妻の存在についても、改めて考え直すことにしてみます。これからもパートナー三組会は続きそうです。

 専業主婦世帯と共働き世帯の世帯数推移
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雪の北八ヶ岳

2023年04月08日 06時13分45秒 | Weblog
蔵王で雪山を体験し、わずか一カ月足らずで、また雪の山を目指すことになりました。行った先は北八ヶ岳、同行した二人は蔵王の時の仲間です。同じ雪山の話題ですので、この回の話しは「蔵王と山仲間」の続編といってもいいかもしれません。

今回は日帰りで、3月29日に行くことになりました。この三人のメンバーでは、蔵王以前でも何回か日帰り登山をしています。互いに行ける予定を出し合い、その中で日にちを決定するのは一週間前です。天気予報で一週間先が予測できるので、なるべく好天の日で決めています。

雪道を歩く道具として今回使用したのはアイゼンです。アイゼンとは、
氷や氷化した雪の上を歩く際に滑り止めとして登山靴の靴底に装着する、金属製の鋭利な爪が付いた登山用具です。山に積もった雪は人為的な踏み固め以外に、日光や風の影響で氷のように固くなります。スリップによる危険性が考えられる場合は、標高や勾配の有無に関わらず、アイゼンの爪を雪面に効かせて行動することになります。

新雪やなだらかな傾斜の雪上なら、蔵王で使用したスノーシューが適しています。山容に応じ、適宜使い分けることになります。実は、私はアイゼンを大学時代に履いて以来使用していません。前回の「蔵王と山仲間」で登場し今回も一緒に行った、同期のOさんの物を借りました。アイゼンを山靴に固定するベルトの絞め方等も、すっかり忘れていましたので、行く前に少し不安はありました。

さて目指すピークは、北八ヶ岳にある北横岳(2480m)です。新宿駅から特急列車あずさに乗り、茅野駅で降り、乗り合いバスで一時間かけて北八ヶ岳ロープウェイ山麓駅に到着します。そのロープウェイで一気に約500mの高度をかせぎ、標高2237mある山頂駅に着き、そこが雪山歩きのスタート地点となります。北横岳はそこから登りで一時間半程です。

「ロープウェイを降りれば、そこは雪山初体験の人でも、取り敢えず冷たい風と樹氷の世界を体験できる場所となる。ここから北横岳へと向かう道は、冬山初体験の爽快さと厳しさが凝縮されている。八ヶ岳の山々は、おおむね2500m前後で森林限界を迎えるため、山頂付近のごく僅かな部分が森林限界を抜け出ている。雪の森の美しさと森林限界を越えた雪山の展望を無理なく楽しめる。北横岳は八ヶ岳の中で、そのちょうど真ん中に位置する山だ」。と、山のガイドブックにはあります。

当日天気は少し曇りがちでしたが、正にガイドブックの体験ができました。森林限界とは、外界(温度・風・水分等)からの影響によって高木が育たず、森林が見られなくなる境界線を意味します。余談ですが、登山による酸素濃度の低下によって引き起るのが高山病です。一般的に2500m程度で山酔い(急性高山病)の症状が出る人もいるといわれています。植物も人間にとっても、標高2500m近辺は一つのボーダーラインなのです。

肝心な当日のアイゼン使用具合ですが、昔の手応えを感じました。アイゼンは、柔らかく軽快に歩ける無雪期のトレッキングシューズと違い、安定的に歩くのには一定の時間がかかりましたが、それでも慣れてくれば、硬さと重さが安心感へと変わっていきました。

登り詰めた北横岳からは、今までの樹林帯とは一転し広がる展望となりました。南アルプス、木曽御嶽山、中央アルプス、北アルプス、が銀屏風の様に広がっていました。北横岳を下り山頂駅付近まで戻ると、坪庭と呼ばれる溶岩台地が広がっています。岩と雪の平原の中に遊歩道が作られている雪道を散策しました。

実動3時間半の山旅でした。それでも、達成感や充実感を味わいました。我々の歳ともなれば執着や我も出てきますが、目先の仕事や生活に振り回されてはいないところが三人の共通点です。後何年このような山行が楽しめるのか。先は考えず“今でしょ!”です。

南八ヶ岳には権現岳や阿弥陀岳等、仏教に由来する名の山があります。夕日に映えるそんな南八ヶ岳を後に、私たちも仏教にあやかり、茅野駅から般若湯(お酒)を買い求め、特急列車あずさに乗り込みました。

 アイゼン

 北横岳の頂上で

 坪庭
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蔵王と山仲間(その3)

2023年04月01日 06時00分22秒 | Weblog
総勢11名は、4名が山スキー隊に7名がスノーシュー隊に分かれ、私はスノーシュー隊に加わりました。私がスノーシュー隊に入った理由は、山スキーの技量がないからです。大学のクラブの山小屋が新潟県の苗場国際スキー場の近くにあり、冬はスキー強化合宿がありゲレンデスキーはそれなりに習得するものの、山スキーは僅かな経験しかなく、現役を卒業してからスキーは全く遠ざかってしまいました。

スノーシュー隊のメインは二日目です。初日はお昼にペンションに着きましたので、午後から足慣らしでした。スノーシューを初めて履く人もいましたので、野口オーナーにペンションの近く林間で、着脱や歩行の手ほどきを受けました。改めてスノーシューの雪上歩行の快適さを実感しました。メインの日に我々が目指すのは蔵王で二番目に高い山、刈田岳(1758m)でした。同日山スキー隊がチャレンジするのは蔵王最高峰の熊野岳(1841m)でした。

二日目の朝です、寒さは感じますが見上げる空には雲一つありません。ペンションのすぐ近くの坊平スキー場からリフトを二つ乗り継ぐと、標高1446mにある樹氷原に着きます。見渡す限り樹氷の別世界に迷い込んだ感じです。ここからスノーシューを履いて登山開始、目的地の刈田岳まで約300mの登りです。途中まで山スキー隊と一緒でした。彼等が目指す熊野岳は蔵王連山の稜線に出てから北上する、我々の刈田岳は南下する、そんな位置関係にあります。

雪が積もってるので、夏道と違って段差が無くスロープを登って行くようで、足の上げ下げを極力抑えられるスノーシューは省エネでした。時折立ち止まって見下ろす景色です。山形には県の背骨のような奥深い二つの連山があり、飯豊連峰と朝日連峰です。その二つが、雪が無い上山盆地を隔てて、真っ白にそそり立っている絶景が広がっていました。

ようやく辿り着いた刈田岳は氷の領域でした。山形から県境を跨いで宮城側に抜ける時、手前まで穏やかな風も強風になります。そのような強風に雪は飛ばされ、稜線はガチガチに凍った状態でした。風が顔に突き刺さり、体を支えるのもやっと。頂上には神社もあり、そこで持参した昼食をと思ったのですが、寒さに耐え切れず、登って来た道を一目散に駆け降ります。30分下ったところは陽だまりとなり、立ったままで携帯食を取ることになります。青天であっても冬山は侮れません。

実は我々にはガイドが付き添っていました。私の同期のOさんはリーダーとして山スキー隊に加わり、我々スノーシュー隊7人は初めての蔵王だったので、ペンションのオーナーを介しガイドを頼んでいました。ガイドの方は上山山岳会の理事長で、地元救助隊の隊長でした。蔵王を知り尽くしている方に導かれ、下りはゲレンデ脇ではなく、ブナ林の中のふかふか雪も楽しませてもらい、最短距離でペンションに帰ることができました。山スキー隊もその前後に無事ペンションに戻って来ました。

三日目山スキー隊は、手つかずの自然が残っている別エリアでバックカントリースキーを楽しみました。かたや我々は観光モードに切り替わり、蔵王温泉スキー場とその麓の蔵王温泉街を訪れることになります。一般観光客と共にロープウェイを乗り継いで、標高1600mにある地蔵山頂駅を目指し、百万人テラスがある展望スポットから、再度無数の樹氷と対面します。その後は麓に戻り、開湯1900年以上の歴史を誇る蔵王温泉街の散策、そして共同浴場や無料の足湯もあり情緒たっぷりの街で温泉巡りとなりました。

ペンションオーナーの計らいで我々だけで(本来の収容人数は倍)、三泊は貸し切りにしてくれました。気心知れた仲間しかいない食堂、お酒が入る夕食は毎回盛り上がりました。人は共通点があると一気に心理的な距離が縮まる「類似性の法則」があるといわれます。山登と昔年の共通点があるクラブの先輩と、今回は心理的な距離感が更に縮まる体験をしたように思います。そのような蔵王と山仲間の旅となりました。

 全員で

 山スキー隊

 スノーシュー隊

 刈田嶺神社




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