梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

育てること(その1)

2020年08月08日 04時35分55秒 | Weblog
息子から孫をしばらく会社で預かって欲しい、との依頼がありました。息子が週末(土曜日)わが社に出て来て仕事をしたいのだが、嫁は用事があるとのこと。その日私も会社に行く予定でしたので、孫の二歳の男の子を2~3時間の目途で預かることになりました。

息子たちは結婚して、一年程私たち夫婦と同居していました。現在は会社の近くにアパートを借りて、自分たちで生計を立てています。私には息子の他に娘が二人いて、それぞれ二人の子供がいますので、私の孫は五人(上は六歳から下は一歳)になります。娘たち家族も関東域に住んでいますので、互いに行き来はできます。

コロナ対策はやった上で、つい最近全家族でオートキャンプに行くことが叶いました。息子の孫ともそこで遊んだので人見知りはしないはずですが、今回は一対一、時間が持つか心配になります。私の部屋で、一人で静かに遊んでくれていれば、やろうとした私の仕事は出来ると思っていました。

息子は仕事に取り掛かる前に、孫がよく観ている動画をPCでセットしてくれました。しかしじっと観ていたのは5~6分でした。そのうちPCのボタンを勝手に押して、動画を止めてしまったりします。唯一持ってきたミニカーで遊びますが、これも飽きてしまいました。とうとう私の仕事は手付かずとなりました。

一緒に絵を描いたり、紙飛行機を作ったり、紙でゲートを作りミニカーを走らせたり。座っているのが苦痛のようで、後は床で自由に遊ばせました。書類が入った棚の扉を開けようが、させるままにしましたが、時折私の顔を見ます。叱られるかどうかか見ているのです。孫の遊び相手をするにも、創意工夫が必要です。普段の仕事の方がよっぽど楽です。 

夏休みでもあり、次女が二人の孫を連れて、現在我が家に里帰りしています。上は五歳の男の子、下は二歳の女の子です。長男の孫を預かった翌日の日曜日、今度は次女の上の子を会社に連れて行くことになりました。娘が「お爺さんと一緒に会社に行く?」と尋ねたところ、孫は「行く!」とのこと。娘は「お爺さんに、勉強を見てもらったら」と、ちゃっかりひらがなのドリルを持たせました。

会社に着いてから帰るまで三時間ほどでした。時間を決めて、ドリルの学習とゲーム機で遊ぶのを交互にすることにしました。最初にドリル、さすがに五歳児一人でやり出しました。ひらがなの読みは、濁点と半濁点を含めてほぼ読めます。しかし書き方については、書き順が間違っています。ドリルには書き順の矢印が記されていますが、孫は形をまねているだけの字があります。

例えば“ね”が正確に書けませんでした。「最初に縦に1本書いて、それから横、左から右に行って下がって左、、」と口頭で伝えながら一緒に何回も書きましたが、中々飲み込めません。私自身少し苛つきを感じましたので、ゲームで遊んでいいから、それからまたドリルをしよう、とのことになりました。

娘たちの子育てを傍で見ていると頭が下がります。食事にしても、何事をするにしても、子供優先で自分は二の次です。起きている時は四六時中子供に付きっきりです。黙って勉強のドリルに向かい合っているのなら、それで良しとして、細かいところまで手が回らないかもしれません。私がしゃしゃり出て孫が勉強を嫌がったら元も子もありません。

その日はそれまでとして、時間をおくことにしました。しかし翌朝、口頭で孫に書き順をおさらいしている私がいました。娘が孫にこっそりと聞いたところ、「ジィジとはしばらく勉強はしたくない」と言っていたそうです。しかしながら、“ね”の字の書き順はしっかりと覚えていました。

子育てや子供の教育に関して、今の私にとっては遠い昔の話となってしまいました。それは実の親に任せ、口出しをする気はありません。しかしこの歳になって孫を通して見えるものあります。いずれにしても孫と直面することは、己の忍耐と知力に向き合うことになります。  ~次回に続く~
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人は変われるのか

2020年08月01日 05時43分39秒 | Weblog
地元のFMラジオを聴いていると、フリーランスでキャリア・コンサルタントをされてる狩野賢さんという方がゲストで登場しました。引きこもりやニートやフリーターの若者に、就職、転職、在職のキャリアアップ等の悩み相談を受け、自立を手助けされています。江戸川区の就労支援事業「きずな塾」の塾長としても活躍されています。

番組のパーソナリティから、「そのような人たちが、どうしたら変われるのですか」との質問でした。「ある意味で簡単です、自分で変わろうと思うことです」と狩野さんは即答されました。ご自身も引きこもりの経験があり、自分のことはほっといてくれと強く思っていた時期を経て、引きこもりの心境は誰よりも分かると話されていました。

「きずな塾」は開設時間が決まっているものの、来訪者は予約をしなくてもよいそうで、予約をした瞬間から気が重くなる人がいるからだそうです。入口の手前で引き返しても、それはそれで進歩だといいます。そこまで来たことは行動を起こしたと評価します、と狩野さんは話されていました。

私の勉強仲間で、退会の意思表明をしていませんが、勉強会に来なくなってしまった人がいます。直接その本人と話す機会がありました。勉強会で先生の言われていることは、全て正しいと理解しているしもっともだと納得している。しかしそのような自分には変われない、むしろ変わりたくないとの思いが最近は強くなっている、とのことでした。

限られた紙面なので、その勉強会がどのようなもので、先生とはどのような方なのか全部は説明出来ません。しかし先生は、「私に褒められようと学ぶ人は長続きしない」「先ずは我を捨て素直になることが大切」「他者に何か言われて腹が立つところが己の欠点」、このようなことを常に仰います。

私達はどうしても他と比べて、自分の価値基準で、楽をして良いものだけを選ぼうとする傾向があります。その仲間の人は勉強会に何年も続けて、自分を向上させたいと努力されてきたことは確かです。自分の耳障りな真実は今後どこから入るのか、遠ざかる(避ける)ことで問題は解決するのかどうか、私としては懸念があります。

私は「人は本当に変われるのか」のテーマを、ずっと意識してきました。例えば新たな事を始め継続する人を私は信用して、自分を変えられる可能性があるとみていました。仏教用語に“縁覚界”と“声聞界”とがあります。縁覚界とは体験だけで苦を乗り越えて悟りに至る世界(独学とも)、声聞界とは仏(師)の教えに従い修行によってその境地を体得する世界です。

体験だけで苦を乗越えようとしても、それが摂理に合っているかの第三者のチェックが必要です。その段階を踏まなくては、新たなことを始めやり続けたとしても意味をなしません。また独学を実践すると置き換えたら、師に付いて学び、実践(独学)し、その後師にチェックを受け、検証することが必要不可欠です。師を求め、師について、縁覚と声聞を繰り返さないといけないと考えます。

“私にはたった二つのルールしかなかった。出来ることはすべてやれ、やるなら最善を尽くせ”。ケンタッキー・フライド・チキンの創業者のカーネル・サンダースの言葉です。カーネルがその仕事を始めたのは65歳の時。FCビジネスを展開しようとしたのだが1000軒ほどは断られる。それでも熱意をもって仕事に取り組むことにより、今では世界を制覇しました。カーネルに師がいたかどうか分かりませんが、途中で諦めないでやり抜いたその継続性には敬服します。

先ず自分で変わろうと思うこと。そして思い続けること。少しでも行動に移すこと。そして行動を継続すること。「人は変われるのか」の命題に対して、現在の私はこのような考えを見出しています。
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道なき道(その5)

2020年07月25日 05時02分53秒 | Weblog
Kさんは現れました! 既に集まっていた仲間は歓喜の声を上げます。相変わらずスリムでしたが、顎と上唇には白い髭をたくわえ、皺が深く刻まれ、仙人のようないで立ちでした。容姿からは、やはり45年のギャップを感じました。

彼は錦糸町に早く着いたので、持ってきた野菜をお店に置いて、昔学生の頃一年間この界隈で下宿をしていたそうで、懐かしく街をぶらぶらしていたとのことです。長く務めた会社は定年退職して、現在は農業の技術指導をしているとのことで、持ってきたのはその収穫物でした。お店側で、その素材をアレンジした調理を出してくれました。

45年のギャップは話している内に解消して、昔の彼が目の前に居ます。私はやっと再会出来たことの安堵感で、しばらく我を忘れます。彼は何回か手術をして現在胃を全摘しているそうで、酒も飲めず食事も量は食べれませんでした。それでも酒を飲んでいる私たちに合わせてくれて、意気投合します。約二時間半の宴は終わり、お店の前で集合写真を撮って解散となりました。

去年仲間の一人が亡くなっています。恒例の同期忘年会の直前です。その彼は5年前から肺癌を患っていましたが、去年初めて参加を表明しました。「初日の宴席だけは参加できる」と。ところが開催二週間前、彼からかすれた声で「肺炎になってしまい緊急入院するので、ごめん参加出来ない」との電話です。それから一週間後、奥さんから訃報の知らせでした。「皆にまた会いたい」との、彼からの最後のメッセージだったと思っています。

Kさんと同じく、彼とも忘れられない想い出があります。大学二年の時、彼と私は夏合宿で同じパーティー。十日間程の夏合宿で、その学年は四年間で一番過酷な山行となります。二年生の荷物は一番重く、その上ルートを見極める役割があり、隊の先頭を日替わりで歩きました。バテたとしても、二人以外に交代要員はいません。それでも行程を踏破でき、それこそ同じ釜の飯を食い苦楽を共にした戦友でした。

親しかった仲間が亡くなることは寂しいですが、私も後二年で古希になり、そろそろ私たちの年代も死は日常茶飯事になりつつあります。何年も疎遠なっている同期がまだ二人います。出来れば年内声を掛けてみたいと思います。4年経つと私たちは大学卒業50周年を迎えます。一人でも多くの同期と、50周年を祝いたいと思っています。

出口治明さんの著書“還暦からの底力/歴史・人・旅に学ぶ”を読みました。「人生の楽しみは喜怒哀楽の総量で決まるので、年齢の縛りから自由になれ」「高齢者は次世代のために生きているので、定年制も敬老の日もいらない」。本の表紙や帯から拾うと、このような言葉が出てきます。

『人はみな顔が違うように、考えや嗜好、能力、あるいは置かれた状況や環境も異なります。だから「これが普通だ」ということはあり得ません。個人が平均や普通という意味のない言葉に縛られて人生を送る必要などどこもないのです。いくつになっても自分の好きなことを、自分の好きなようにやればいいのです』

『好きなことをやる、あるいはやれること。人間の幸せはそれに尽きます。いろいろな人に会い、いろいろな本を読み、いろいろなところに出かけて行って刺激を受けたらたくさんの学びが得られ、その分人生は楽しくなります。人の感性はさまざまなので、好きなことにチャレンジしていけばいい。還暦だろうが古希だろうが、年齢など関係ありません』

このように、出口治明さんが言われています。年齢の縛りから解き放たれることが大切だと感じました。古希にしても、型にはまった年齢として括らず、自由な通過点としたいと思います。誰と会い、何を読み、どこへ行くかは、私の行動次第ということになります。

健康であってはじめて、好きなことに好きなように取り組めます。ワンダーフォーゲルの昔の仲間が楽しく集えるのも、山登りがあるからです。仲間に誘われれば、それなりの脚力の備えは怠れません。健康寿命を延ばしながら、平均や普通という意味のない言葉に縛られず、道なき道を歩んでいこうと思います。
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道なき道(その4)

2020年07月18日 05時00分00秒 | Weblog
ワンダーフォーゲルとは、ドイツ語で「放浪する鳥」のことです(日本では「渡り鳥」と訳すことも)。19世紀後半のドイツで台頭した、固定化された社会規範から自由でありたいと、野山を歩き自然を謳歌しながら心身を鍛錬する、青少年運動がワンダーフォーゲルの由来です。正に道なき道を、求めようとする精神です。

日本では、第二次世界大戦前のドイツとの国家的友好関係の元、1933年に国(文部省)によって宣伝され普及が開始されました。戦後は高度経済成長と登山大衆化が背景となり、各大学に広くワンダーフォーゲル部が設立されます。私達の大学のワンダーフォーゲル部は1935年の創部となりますので、85年の歴史があります。

OB会の組織もありますが、体育会のような現役の競技を支援するものでなく、私達OB・OGの活動が主体です。その活動とは、やはり山登りです。春と秋には日帰り山行、本格的な登山の夏合宿もあります。日帰りは、同じ山域内で難易度によって10パーティー程に分け登山して、その後一か所に全員が集まる方式で、80歳を超える先輩の参加もあり毎年150名近くにもなります。

当然のこと私達同期でも、頻繁ではないにしても旧交を温めてきました。前回も書きましたが、同期は15名程いました。四年になる前に退部してしまったり、卒業後に遠のいてしまったりした人がいます。しかし60歳前後から、彼らに再会してみたい気持ちが増してきました。年齢ととも出てくる自然な想いかもしれません。

そのような想いが行動に変わり、彼ら一人ひとりに直接働きかけたことで、新たに同期会に参加する仲間が現れました。そのような中で、日帰り登山をして一泊をする忘年会が恒例となり、去年で四年目となり参加者は10名となりました。

前回このブログ上で登場した、Kさんです。彼自身の特殊な事情もあり、卒業以来疎遠なって45年が経過しています。誰が彼に声を掛けるかの話しとなりました。その役を引き受けてくれようとした人がいましたが、「今回声を掛けて断られたら、二度目のチャンスは無いと思う。梶に、お願いできないか」との、依頼です。

私にとってみても大役です。しかし唯一の頼みの綱は、Kさんとは48年前南アルプスで死と直面した体験の共有があります。引き受けることにしました。自宅の電話番号は年賀状のやり取りで知っていましたので、意を決し電話をしました。奥さんが最初出てこられ、直ぐに彼に替わりました。

主旨を伝えます。事前に用意していた再会候補日は大丈夫だが、コロナ禍で現在外出を殆どしていないとのことです。声を聞いていると昔が蘇ります。気使いをしてくれて、彼から近況を積極的に話してくれました。皆で集まって食事をする場所等を、後日手紙で送ることを伝えました。

その役を一旦引き受けようとしてくれた人に朗報を知らせると、「梶さんの人柄でKさんの引っ張り出しに成功しました!」と、他の同期にメールで発信してくれました。褒めてくれるのは嬉しい限りですが、私は彼に想いが通じたことが何よりの喜びです。

皆と集まって食事をする場所は、同期の一人、その息子さんが父親に代わって実質経営しているお店です。私がKさんに出した手紙には、参加するメンバーを知らせ、お店に直接行くか最寄りの駅(錦糸町)改札で待ち合わせするか事前に連絡をもらいたい、と明記しました。手紙を出した意図は、今度は彼から連絡をもらうことで再会する意思の確認でした。

そしてKさんから、開催日(7月8日)の二日前連絡が入ります。安心しました。お店に直に行くとのことです。それを伝えると、それでも同期の中ではドタキャンを心配している人がいます。手紙でのやり取りがありましたので、私は彼を信用していました。

当日を迎え、夕刻5時が集合です。私は4時30分一番乗りで着いて、Kさんを待ちます。お店の人に尋ねると、4時頃それらしき人が来て、持ってきた野菜を置いて、また出て行ったとのこと。一体どういうこと!? そして時間は5時となり、彼以外全員が集合しました。3分が経ち、そして5分が過ぎ去ろうとしています。  ~次回に続く~

OB会の日帰り山行
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道なき道(その3)

2020年07月11日 05時06分49秒 | Weblog
道なき道を求め、私たちは大井川の支流を遡行し南アルプスにある荒川三山を目指しました。アクシデントはありましたが、無事下山することが出来ました。半世紀前の話しです。今、登山者にとってみるとその聖地が大きく変えられようとしています。

一週間程前のこと、リニア中央新幹線を巡るJR東海と静岡県のトップ会談が、平行線に終わりました。JR東海側が静岡工区の準備工事再開への理解を訴えたのに対し、静岡県側は環境への影響を理由にはねつけたのです。6月中に再開出来なかったことで、2027年の開業は困難となります。リニアは最高時速500キロで、品川-名古屋間を40分で結ぶ、総工費9兆円に及ぶ巨大事業です。

JR側が求める準備工事は、作業基地のトンネル入り口周辺の整備や森林伐採などを対象としています。県側が工事再開を認めない理由は、再開を求める準備工事は本体工事にあたるトンネル掘削工事の一部であり、掘削による大井川の流量減少問題が解決されていないとの主張です。(その後、国土交通省が両者に仲介案を提示しています)

その作業基地のトンネル入り口とは、椹島(さわらじま)付近のことです。私たちがかつて奥西河内に取りつく際に、チャーターしたバン車から降りた、山深く人の気配を感じさせないその場所です。そこは今でも南アルプス最深部の登山基地です。ネットで調べてみると、椹島地域は既に人が入り開発が進んでいる様子で、本格的に工事が再開されれば昔の風景は一変するでしょう。

そして計画されているリニアトンネル本体のほぼ直上にあたるのが、荒川三山とのことです。私たちがかつて苦戦した悪沢岳の下に、現代の技術の粋を集めたリニア新幹線が通るのです。しかし南アルプスは地質構造が複雑のようで、多くの人々が利用する大井川水系の源流でもあります。トンネル工事は水資源や自然環境へ深刻な影響を与える恐れがあります。

『道なき道』のテーマで書き出したのは、実は切っ掛けがありました。(その1~2)で書いてきたように私が大学二年20歳の時こと、そのプランに一緒に参加していた同期のKさんの存在です。そのKさんとは大学を卒業して以来、一度も再会することがなかったのですが、一ヵ月前にその彼と45年ぶりの再会をしてみようと決心したからです。

私たちの同期は15名程いました。程とは、四年になる前に退部してしまったり、卒業後に音信不通になったりした人がいるからです。しかし私は、四年間一緒に活動していなくても、山の想いを共有出来るかけがいのない仲間だと思ってきました。社会人になっても東京界隈在住の同期とは、折にふれ集まってきました。

Kさんは、卒業後直ぐに関西勤務となりました。彼は元来大勢でわいわいがやがやするタイプではなく、一時期体調を崩したこともあり、同期とは疎遠になってしまいました。現役時代は彼も沢登り志向で、私とは相性が合いました。年賀状を欠かさず交わしてこれたのも、同じ体験を分かち合っているからだと思います。

先週(その2)を書いている最中、48年前Kさんと行った山々が、世間でも話題になりました。前述のリニア問題です。リニア開業について私は反対ではありませんが、山々の生態系を変え、大自然が破壊される心配が残ります。

Kさんに限らず同期の仲間は、私の人生の底辺になっていることは確かです。その仲間といまだに逢えることも、この上ない楽しみです。一ヵ月前にKさんと45年ぶりの再会をしてみたいと思った経緯を、そして再会が出来たかどうか、(その4)の紙面に譲ることにします。   ~次回の続く~

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