梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

近況/職場の変化(その1)

2024年07月20日 04時36分17秒 | Weblog
障害者施設で介護職員として働き出して一年二ヶ月が過ぎました。週五日間、午後からの約4時間の勤務も、身体は慣れてきました。しかし介護の仕事自体は、日々課題を抱えながらの勤務が続いています。そのような中、7月から勤務先が変わり役職も今までとは違うものになりました。私の近況ということで、それに関し順を追ってお伝えしたいと思います。

そもそも私は初めから介護職を選んだわけではありません。私を採用してくれた職場の職種が介護でした。去年初頭では、梶哲商店の社長を退任して会長となって四年目を迎えようとしていました。後進に会社を譲った以上不必要に介在しないために、第二の人生をどのように送るのかを踏まえ、これからも社会と繋がりの大切さを感じ、再就職の道を選びました。

とはいえどんな職種でもいということではなく、二年前に「傾聴」の勉強をして認定資格を取ったこともあり、それを活かせる仕事はないかと考えていました。例えば、高齢者施設で利用者さんの話し相手になるとか、学童の施設で子供たちの相手になるとか。行動も起こし、ハローワークを訪ね求職登録をして、求人広告などもチェックしてみました。

新聞のチラシに乗っていた学童関係の仕事で、先方に応募の問い合わせをしたところ年齢を聞かれ、担当から折り返すといわれて返事がありませんでした。ハローワークのネット求人情報を見ると、施設での介護の補助の仕事がありました。資格も年齢も不問とあり、その施設の代表と面談をし、そして採用されました。私を採用してくれた職場が結果的に介護職だったとの所以です。

今思うと、行動がなければ今の職に出合ってなかったことにもなります。とはいえ畑違いでした。先輩方のやっていることを、見様見真似で行う日々が始まります。半年たった頃です。ある疑問が湧いてきます。ベテランの職員(資格無し)が行っている介護ですが、それはそれで見事なのですが、その方から教わること(指示を受ける)です。果たしてそれが基本や基準なのか。

そのような疑問を抑えきれず、基礎から学ぼうと思いました。介護職員初任者研修を外部のアカデミーで受講することです。週一回一日の研修を、去年の暮れから受けだして全15日間、今年の4月に終了・卒業しました。基礎の知識や技術は、はやり受けるべきだと実感しました。介護制度についても利用者の感じ方も学びました。スクールリングで研修を受けながら、実際に仕事で実務を行いながら、色々検証もできました。冒頭に書いたように、日々の仕事に問題意識が持て課題も見えてきました。

この資格があって初めて一人でホームヘルパー(訪問介護)の仕事ができます。仕事をしながらの研修(日曜日)、そして自宅での通信教育もあり、辛かったのも事実です。しかしこの研修で終わってしまうと、折角習得したことをいずれ忘れてしまうとの切迫感が生まれてきました。その挑戦が介護福祉士実務者研修であり、受講申し込みすることを決めました。

ここで介護の資格について一言。介護職員初任者研修は、介護の入門です。そのキャリアアップとして介護福祉士実務者研修があり、介護保険サービスを提供する施設や事業所などでリーダー的な活躍の場が広がり、さらに介護訪問事業所でのコーディネートを行う責任者となれます。その上級資格に、介護福祉士(国家資格)があります。

その実務者研修は、6月から既に通信教育(eラーニング)がスタートしていて、7月からスクーリングが始まります。スクーリングは週一回(土曜日)で8回となります。筆記試験や実技検定に受かれば、卒業は9月下旬となります。そのような最中、前述したように7月から、私の勤務先も役職も今までとは違い、変わることになりました。次にその説明に入ります。
 
一年二ヶ月勤めていた所は、居宅型通所サービスを提供する介護保険施設です。所謂デイサービスです。利用者は、居宅がある自宅ないしグループホーム(以降略してGH/後で詳しく説明)からその施設に通所して、日中介護サービスを受けます。我々の施設は、車で居宅に利用者を朝夕送迎します。施設では、入浴、排泄、食事などの介助を受けられ、リクレーションに参加し共同生活が体験できます。

私たちの施設は市川市南行徳にあり、利用者も市内に居宅がある方たちです。契約登録利用者さんは現在24〜5名で、一日平均すると14〜5名の方が通所しています。内3名の方がGHからの通所になります。当施設には関連したGHはありませんでしたが、施設の代表は以前からGHを新設したとの想いがありました。それを叶え7月に開設し、この度そこへ私が勤務することになったのです。   ~次回に続く~
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ナチハンター(その7)

2024年07月13日 07時08分00秒 | Weblog
第二次世界大戦に大敗、ホロコーストの大罪が露呈し、ニュルンベルク裁判で戦勝国に裁かれたドイツです。その後自国の手でアウシュビッツ裁判を行い、ホロコーストに加担した犯罪者を訴追する流れが始まり、それがきっかけとなりナチハンターが今日まで続いています。その歴史の教訓を、ドイツは国策としてどのように生かしてきたのでしょうか。

それを具現化しているのが、ドイツの移民・難民対策だといわれています。様々な困難を抱えながらも難民を積極的に受け入れてきました。EUの中にあって、加速していくグローバル化や人口減少などの課題の解決のため、そしてなにより人道支援のために、移民や難民の受け入れの先進国であるのが、今日のドイツの姿です。

日本と違い、ヨーロッパは大陸の中に数多くの人種・民族がひしめき合っていて、歴史の中でも流動を繰り返しています。この大陸で歴史上数多くの戦争や紛争が起こり、犠牲が生まれました。現在のEUというのは、そういった悲惨な歴史と無数の人達の犠牲の中で、過去から学んで、必死に知恵を積み重ねてきたといえます。

2012年にEUは、60年以上に亘る欧州の平和と調和・民主主義と人権の向上に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞します。しかしながら、現在ヨーロッパ各国で人種差別主義的な極右政党が台頭している点は憂慮されていて、各国の動きも注目されていますが、特にEUで中心的な役割を果たす、中道を模索するドイツの動向は重要であるといわれています。

ドイツは第二次世界大戦を経て南欧やトルコからの移民を労働者として積極的に受け入れてきました。結果、現在ドイツ国内には1640万人(ドイツ全人口8380万人)の移民をルーツとする人々が暮らしています。特に2015年の中東での紛争の影響により、多くが難民となってヨーロッパに押し寄せ、ドイツに到着した難民の数は約89万人。最も多いのはシリアからで、その他アフガニスタン、イラク、パキスタンからの難民でした。

難民受け入れ政策を推し進めたのは当時の首相メルケル氏です。では何故メルケル氏は混乱を予想しながらも、大量の難民の受け入れに踏み切ったのか。自らの体験や人道的な理由が大きいといわれています。2015年から2016年の中東紛争の際、当時ドイツに向かう多くの難民たちがハンガリーの鉄道の駅で動けなくなっていました。過去ドイツは1990年まで東西に分かれていましが、民主化を求めた旧東ドイツの住民は西ドイツに亡命するためにハンガリーに一旦出国し、そこから電車で西ドイツに向かいました。東ドイツの国民にとっては忘れられない光景でした。東ドイツ出身のメルケル氏にとって、ハンガリーで止められた難民の姿に心を動かされた。難民専門家はそうみます。

そうした特別な感情を別にしても、難民の受け入れは、人道主義的な動きとの認識がありました。2年後に控えたEU連邦議会選挙で、左派勢力からの支持を失う事を防ぐという政治的な計算もあったとの見方もあります。ドイツ国内でも難民支援の機運が共有されてきており、当時EU連邦議会に議席があったすべての政党が、メルケル氏の政策を支持していました。

あらためて重要なのは、このドイツの政策は、ナチス時代の深い反省であるとの見解です。ナチに迫害されたユダヤ人や反体制派が生き延びることができたのは、米国やパレスチナ等計80カ国以上の国々がドイツからの亡命申請者を受け入れたからです。ナチス時代の経験を教訓とし、戦争や政治的迫害などの苦境にある民に手を差し伸べることが、ドイツの国として、目指す理念であったことは間違いありません。

現在、労働力の補充のための外国人労働者の受け入れが、ドイツが移民国家へ向かう大きな要因となっていることも事実です。元々政府は、外国人労働者がある程度の期間で帰国するだろうとの算段だったのが、想像以上に住み着く人が多かったという現実がありました。当初は、色々と帰還させるための施策を練っていた経緯も否定できません。

しかし同時に、その人達に基本的な権利保障を、しっかりと与えるような法制度も都度柔軟に整えてきました。もちろん同時に、流入する民に義務も課せる。一度受け入れたのであれば、外国人労働者であれ難民であれ、基本的な人権や生活を社会的統合に応じて保障していくという姿勢を、一貫したドイツです。それがナチ以前の本来の合理から生まれた国民性なのでしょう。シリーズを追ってドイツをみてきて、確信したことです。今回を以って、このテーマを終わりとします。

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ナチハンター(その6)

2024年07月06日 07時04分20秒 | Weblog
1946年5月から始まった、東京裁判を構成する判事は11ヶ国から1名ずつ選ばれ、オーストラリアのウエッブが裁判所長に任命されます。検事もまたこれら11ヶ国から1名ずつ選ばれ、首席検事としてアメリカのキーナンが任命されます。日本人被告28名は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」または「通例の戦争犯罪」の2つ以上について起訴されました。罪状認否では全被告が無罪を申し立てますが、25人全員(裁判終了前に亡くなった2名と発狂により免訴された1名を除く)が死刑や禁固刑などの判決を受けました。

判事らは7ヶ月かけて判決理由を書きます。票決は8対3で、結果全被告が有罪とされたのです。有罪に対して反対を訴えた3人の中で、注目されたのがインド代表のラダ・ビノード・パール判事の判決書です。この判決書は多数派判決文よりも長い英文25万字、1235項におよぶ膨大なもので全7部構成。パールは全員無罪の判決書を書いた唯一の判事でした。審理を冷静に見つめたうえで、多数派判決の法律的見解、事実認定に対して真っ向から反対したのです。

パール判決書の第1部『予備的法律問題』では、勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従って裁判を行なうことは敗戦者を即時殺戮した昔と、われわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹消するものであるといい、儀式化された復讐のもたらすものは単に瞬時の満足に過ぎないばかりでなく、窮極的には後悔を伴うことはほとんど必至であることを指摘し、勝者による裁判そのものへの疑問を投げかけます。第2部は『侵略戦争とはなにか』と題して、多数派のいうその定義を認めることは困難であるとしました。

第4部の『全面的共同謀議』は判決書の核心をなすもので、分量も判決書の半分を占めます。満州事変以降の、満州における軍事的発展は確かに非難すべきものであったし、法律的にみても正当化できるものではなかったのであろう。と述べつつ、しかし検察側が提出した記録のなかに共同謀議を証明する直接証拠がないことを述べた。残虐行為についても証拠は圧倒的であるが、この法廷に残虐行為を犯した人はいないし、命令し、授権し、許可したという証拠は絶無であるといい、ニュルンベルク裁判の被告たちが発したような命令、通達、指令の証拠は見当たらないとしました。

また第6部『勧告』では、原子爆弾の投下を命令し、授権し、許可した者の責任はどうなるのかと問いかけます。パール判事はこうも書いています。単に執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴えることは許されるべきではない。世界は真に、寛大な雅量と理解ある慈悲心とを必要としている。さらに敗戦国の指導者だけに責任があったのではないという可能性を、本裁判所は無視してはならない、と論じました。

法廷はパール判決書の朗読を、一週間や十日はかかるという技術的な理由等で拒否しました。オランダ、フランス、フィリピン代表判事などの少数意見と共に法廷では読まれることはなかったのです。1952年の来日時にパールは「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」と表明します。

パール判事の、その後世の中の受け止め方です。日本の侵略的な戦争を正当化する勢力は、パール判決書を「日本無罪論」などと呼び、自らの主張を裏づけるものであるかのように宣伝しました。しかし、パールは裁判の法的根拠を批判したのであって、日本の行動を正当化したものではないとの見方が有力です。パールは、インド独立運動の父ガンジーを尊敬し、欧米の植民地主義を批判する立場であり、日本の対外進出にも批判的な見地をもっていたからです。「平和に対する罪」を事後法とするパールの見解については、1919年の国際連盟規約(ヴェルサイユ平和条約)や1928年の不戦条約(パリ条約)など、第一次世界大戦後の戦争違法化に向けた国際法の発展を過小評価したものとの示唆も、忘れてはならないとされています。

何年もの後、東京裁判を推進したマッカーサーは、東京裁判は誤りであったとし、キーナン主席検事、ウエッブ裁判長も同様の発言をしています。「日本の若者が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。誤られた歴史は書きかえられねばならない」と、パールは憂いていたといわれます。

第二次世界大戦で、先にドイツが負けその後に日本が負けました。裁判は、先にドイツで行われその後日本で行われました。その歴史の因縁から、東京裁判はニュルンベルク裁判のよくない余波を受けました。前回書きましたが、裁判で白黒つけずに、国際世論や国内世論の道義的判断に委ねることも可能だったのです。ナチハンターの流れは、ドイツ国内世論の道義的判断を長きに亘り模索してきたものだと捉えることができます。   ~次回に続く~

 パール判事 
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ナチハンター(その5)

2024年06月29日 06時15分24秒 | Weblog
ホロコーストの抑制がもはやきかなくなり、第二次世界大戦に負けたドイツは、裁かれることになります。それがニュルンベルク裁判です。軍部の統制が図れず混迷し、太平洋戦争に負けた日本も、裁かれることになります。それは極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)です。

ドイツと日本のこの裁判で特徴的なのは、主に勝戦国が敗戦国を裁いたところにあります。一体、国や戦犯などを裁くとはどのようなことなのか。二つの裁判は、勝戦国の論理や正義を持ち出して、裁くことにならないのか。それを理解しなければ、これらの裁判の本質は解りません。

もし日本が米国に勝っていたら、東京裁判で裁かれた同じ行為をしていた日本は、裁かれることはなかったでしょう。つまり、戦勝国の行為が人道にもとったものでも、問われないことになります。色々と疑問がわいてきます。今回このような問題を考えてみたいと思いました。

今回二つの裁判を学び直し、調べてみて分かったことは、ニュルンベルク裁判が先に行われ、その後に東京裁判か行われ、しかも東京裁判はニュルンベルク裁判を手本としていたということです。それが、日本にとって理不尽な結果に終わったことは、あまり知られていません。

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ平和条約によって設立された国際連盟の規約には、国家が国策上戦争に訴える余地を残していました。しかし、1928年に署名され翌年に発行した「パリ条約」において、当事国は「国策の手段としての戦争を放棄する」ことを宣言しました。

つまり国策の手段として、国は戦争してはならないとのことです。この条約には後に多数の国が参加しました。そのため国策の手段としての戦争を侵略戦争と呼び、パリ条約以降、侵略戦争は国際法に違反する行為となったのです。一国の侵略的な戦争行為は、人道上では悪行とされたのです。

これに対して異論もあり、国策の手段としての戦争はパリ条約の当事国相互間では違約行為であっても、条約の非当事国を含む国際社会全体において違法行為となったわけではなく、侵略戦争とパリ条約で宣言したものの、何が侵略戦争であるか何が自衛戦争であるかをハッキリ定義せず、結果この判断は「各国家に委ねられる」とのことになりました。

皮肉にもそこを明確にしないまま、第二次世界大戦がドイツによって引き起こされます。また、それまでは「戦争犯罪人」という言葉は、「通例の戦争犯罪(捕虜の虐待や一般住民の殺傷のような戦時法規の違反者の犯罪)」を犯した者の意味であって、国として戦争を行なうことは犯罪とはみなされていなかったのです。

従って、第二次世界大戦の後でも、通例の戦争犯罪人を処罰するにとどめ、ドイツや日本の戦争責任については、国際世論や国内世論の道義的判断に委ねることも可能だったのです。ではどうして、ドイツや日本がその裁判で裁かれるようになったのか、それも戦勝国によって。

米ソ英仏4ヶ国はドイツを無条件降伏させた3ヶ月後の1945年8月ロンドンにおいて「ヨーロッパ枢軸国主要戦争犯罪人の追及および処罰に関する協定」を締結し、同日定めた国際軍事裁判憲章に基づき、同年11月からのニュルンベルク国際軍事裁判もこの4ヶ国で構成されました。

ロンドン会議で、国際法の内容の中で一番議論を呼んだものの一つは「国家の行為に対して、個人の責任を問うことの是非」でした。その結論は、戦勝国たる連合国側は、裁判により戦敗国の指導者の戦争責任を追及する道を選ぶことになります。

東京裁判のモデルとなったニュルンベルク裁判とは、1945年11月から1946年10月までニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判をいいます。ニュルンベルク裁判で起訴されたのは、第三帝国期のドイツ国家官庁・ナチ党・軍・経済界の指導的地位にあって戦争遂行に重大な役割だったとされる24名の被告でした。

裁判における訴因は「(侵略戦争遂行のための)共同の計画もしくは共同謀議への関与」「平和に対する罪」「(狭義の)戦争犯罪」「人道に対する罪」の四でした。この視点も、過去からの統一性への努力が生かされていないように思われます。ここで注目すべきは、ナチス・ドイツの強い復讐心から、このニュルンベルク裁判が戦勝国によって企画されたとの指摘があることです

その流れを汲んだ東京裁判は、正義の追及を考えていたのでしょうか。あるいは、連合国にとって好都合な戦争秩序を作りだすための政治的行為であったのでしょうか。両方あったにしろ、やはり優位だったのは後者の政治的側面のほうだと思われます。

事実、東京裁判は真珠湾奇襲に対するアメリカの復讐、日本に対する核兵器の使用というアメリカの国家的犯罪を緩和するための手段かとの声が上がっていたとのことです。私は、東京裁判というものは組織を裁くことができないので、人間を裁いてしまったという気がしてなりません。

ナチ体制の犯罪、わけてもホロコーストが、日本の「通常の」戦争犯罪と比較し、類をみぬ犯罪であったにもかかわらず、ニュルンベルク裁判よりも厳しい判決が東京裁判では下されました。東京裁判はニュルンベルク裁判をモデルとしながらも、それとは重大な相違を帰結することになったのです。日本がドイツの余波を被った、といっても過言ではありません。

その東京裁判に異義を称えた人物がいました。判決に際して判事団の中から、幾つかの少数意見が出されましたが、その内で最も注目されたのがインド代表判事のパル判事の判決書です。次回それを紹介します。 ~次回に続く~ 

 ニュルンベルク裁判の被告

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ナチハンター(その4)

2024年06月22日 07時06分39秒 | Weblog
ある映画を最近シネコンで観ました。少し難解な場面もあったので観終わった後、ネット上で映画のあらすじや解説を確認しました。それらを引用し紹介します。この映画を何故観ようと思ったのか、今回のテーマのナチハンターとどう関連しているのか、読んで下されば理解できるように書いていきます。映画の出だしからです(以下文章は、引用したもの)。

 映画が始まるとすぐに画面はブラックアウトする。奇妙で不気味とも言える音楽に、ささやき声やうめき声のような音が重なって行く。その間、約3分。目の前の黒い画面を前に、何とも落ち着かぬ気分にさせられる。やがて、小鳥のさえずりが聞こえ始め、ようやくスクリーンに水辺でピクニックを楽しむドイツ人家族の映像が現れる。
 彼らは夜遅く車で帰宅し、カメラはまばらに明かりを灯した屋敷の外観をとらえている。問題は、その家がアウシュビッツ強制収容所に隣接していることだ。塀の上にはよく見ると有刺鉄線が張り巡らされ、煙突からはひっきりなしに煙が上っている。
 翌日誕生日を迎えて家族や部下たちから祝福されていたのは、収容所の司令官ルドルフ・ヘスだ。歴史上実在した人物であり、その家族が強制収容所の隣に暮らしていたことも史実に基づいたものだ。アウシュビッツ強制収容所で行われていた悪魔のような所業が直接的に描かれることはない。だが、悲鳴や銃の音、焼却炉の轟音や正体のわからない機械音といった尋常でない音が常に響いている。映画は収容所の恐怖の実態を「聴覚的」に表現しているのだ。オープニングのブラックアウトの3分間はそれを端的に表したものだったのだ。
 しかし、ヘス家がそれを気にするそぶりはない。ルドルフは家庭では良き父、良き夫として描かれ、妻のヘートヴィヒはこの暮らしにすっかり満足している様子だ。音が聞こえていないはずはないのだが。一家はすっかりその音に慣れてしまい気にならないようだ。慣れてしまえるのは、収容所に収監されている人々の苦しみに対して驚くほど無関心だからである。

このような出だしの映画でした。題名は『関心領域 The Zone of interest。アウシュビッツ収容所を「聴覚的」に描き、人間の冷徹な「無関心」さを暴く問題作といわれます。英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督がマーチン・エイミスの小説を原案に2年のリサーチを経て製作した注目作品とのことでした。

なぜこの映画を観たかといいますと、ある新聞の記事によって興味を持ったからです。以下、その記事の要約です。表題は“ホロコーストは上位下達か問い直す~映画「関心領域」に見るナチ幹部の実像~”

 アウシュビッツ強制収容所で、ホロコーストに関わりながら意識を背ける醜悪さとともに、ナチ幹部らの「主体性」や、有名な「悪の凡庸さ」を考え直す視点も浮かび上がる。タイトルと相まって、一家は隣の虐殺に「無関心」なように映る。だがナチズム研究者の田野大輔・甲南大教授は「無関心なのではない。むしろ確信的に虐殺に加担している」と語る。映画で、ヘスは「効率的」な焼却炉の新造を綿密に打ち合わせる。
 田野氏によると、描かれるヘスら親衛隊員の姿は、近年の研究で明らかになってきた実像に近いという。例えば、親衛隊は単なる上意下達の組織ではなく、各自がナチのイデオロギーを内面化し、それを具体化させようと「主体的」に実践を競い合っていた、という点だ。ユダヤ人らを排除したドイツ人の『東方生存圏』を築くという全体構想は共有されていた。その共通認識のもと、各部局が競い合って虐殺がエスカレートしていった状況を映画も踏まえているという。【東方生存圏:ドイツが東部に領土を獲得するべきであるという思想で、ドイツ帝国以前からすでに現れていた】
 ヘスと同じ親衛隊の幹部に、ユダヤ人移送を指揮したアドルフ・アイヒマンがいる。戦後、イスラエルで彼の裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント(女性)が唱えたのが有名な「悪の凡庸さ」だ。この概念を再考する機会にもなる映画だと田野氏は指摘する。「ホロコーストを行ったナチも普通の人間たちだった」と考えると、免罪するような意味合いになってしまう。映画のように、彼らは虐殺に積極的に手を染めていた。
 一方、香月恵里・岡山商科大教授(現代ドイツ文学専攻)は、アーレント自身も「悪の凡庸さ」を「ありふれた」という意味合いでは用いていなかったと指摘している。アーレントの意図を離れて「悪の凡庸さ」は一人歩きした。日本でも、同調圧力を批判する文脈などで使われやすい。ただそれはアーレントの言いたかった意味とは異なるものだと、香月氏は言及。
 田野氏もホロコーストを語る際の決まり文句として「悪の凡庸さ」が用いられることに警鐘を鳴らす。想像を絶する悪を、自らの理解に収まる言葉だけで説明しようとするのは、事実を矮小化することだ。それは映画で描かれたような、進行中の加罪から意識を背ける行為になってはいないか。

ここまでが記事の内容です。「悪の凡庸さを許さない」。ナチハンターの精神と、ここで繋がります。今に至るまで映画もドラマも「忘れさせてはいけない」、そのような意図で描かれているのです。   ~次回に続く~

 映画「関心領域」


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