梶哲日記

鉄鋼流通業社長の日々

利便性と怖さ

2018年12月15日 06時17分08秒 | Weblog
ガラケーの携帯からスマホに替えて3年半経ちました。私の年齢以上の人でも、この間スマホを持つ人が急速に増えました。知らないことを検索したり、予約や代金決済に利用したり、ラインでグループ通信する時など、大学のクラブの同期でも持ってないこと自体が恥ずかしくなるような時代となりました。

先日スマホの画面が開かなくなりました。充電をしようとコンセントにコネクターを差し込むのですが、全く反応しなくなりました。遂にスマホが壊れたと思いました。翌日の土曜日は友人と登山に行く予定でしたので、緊急の連絡が出来なくなるとあせりました。

仕方なく会社を抜け出し、最寄りの携帯ショップに急ぎました。結局、コネクターが壊れていただけで本体は異常なく、コネクターを新たに買い求め事なきを得ました。スマホを使えなかったのはほぼ半日でしたが、その間落ち着きませんでした。普段便利に使えば使うほど、スマホは今や私達の生活になくてならない物となりつつあります。

“スマホを落としただけなのに”との映画が上映されています。映画通の方に勧められていますが、未だ観ていません。様々な検索の履歴も交友関係も趣味やお金の出入りも小さな端末に収まっているので、紛失して犯罪に使われたら厄介です。『私のすべてが壊される』。映画のサブタイトルにはそのような言葉が並びます。

6日、ソフトバンクで全国規模の通信障害が起こりました。スマホが電話に限らず、コンサートや航空券のチケットなど幅広い用途に使われるようになり混乱拡大に繋がりました。宅配のドライバーの専用端末と携帯電話が使えなくなり、集荷や再配達を受けられないトラブルもありました。今やスマホの通信障害は、生活や企業の経済活動に広く影響が及ぶことを物語っています。

総務省によるとスマホの世帯保有率は2017年に75.1%に達し、パソコンを超え日本でも最も身近な情報端末になったとのことです。新聞の記事によりますと、6~7年前他の携帯電話会社でも通信障害はあったが、当時スマホの世帯保有率も低く(3割程度)スマホを利用したサービスも少なく、今回ほどの混乱は起きなかったとあります。

米国で生まれたグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの4社を略して「GAFA」というそうです。スマホやパソコンの膨大なデータは、それらのプラットホーマーと呼ばれるIT大手が吸い寄せ、それをまた新たなビジネスへと肥大化させます。つまりスマホの向こうに、私達すべてをしる者が存在します。

スマホが壊れた、紛失した、通信障害が起こる。いずれスマホが手元に戻り、通信が復活すれば、何不自由なくまたスマホを使い出します。喉もと過ぎれば、そのスマホの陰にある恐ろしさすらも忘れてしまいます。極論すれば、命は奪われないからかもしれません。

大量のデータを高速でやり取り出来る5Gが本格運用されれば、自動運転車や遠隔手術などの普及に弾みがつく。産業や生活が一段と通信インフラに依存するが、通信が途絶えれば、人命にかかわる事態に繋がるリスクも高まる。と、やはり新聞の記事にありました。

あり得ない話でしょうが、宇宙人が地球を狙って攻撃してきたら、このような人類の脆弱さもあります。利便性を求め進化してきたものはもとには戻りませんが、物事には必ず二面性があります。これまで以上に、安定して運用できる仕組みが必要になることは確かです。
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事業の継承(その2)

2018年12月08日 04時55分43秒 | Weblog
政府が行なった事業継承税制の今回の改正では、納税が猶予される割合が8割から全額になり、対象となる株式も発行総数の3分の2から全てに拡大されました。継承時点での税負担をゼロにすることができます。更に孫の代まで経営を引き継げば、猶予されていた税負担は免除されます。まさしく、日本の産業を支える中業企業の事業継承を円滑に進める為の優遇措置です。

そのセミナーで、東京税理士会の先生と東京都事業引継ぎ支援センターの担当者からの話しを受けて、実態が2~3浮かび上がってきました。2015年のデータでは中小企業の経営は誰へ継承されたか、その内訳は親族33%、従業員26%、第三者41%だそうです。しかし今から50年前は、親族継承が93%を占めていたとのことでした。

経営者のボリュームゾーンは20年前が47歳であったのに対し、現在は66歳前後と、当時のボリュームがそのままスライドした状態となっているそうです。それらの多くが70歳前後でリタイアを希望するとすれば、後継問題は正に正念場を迎えます。引き継ぎ手が現れず更に続投を余儀なくされるのか、後継者不在で廃業するのか、あるいはM&Aの道を模索するのか。

東京商工会議所は東京都事業引継ぎセンターを設けて、中小企業の、主にM&Aを無料で支援しています。具体的な仕事は、譲渡希望企業と買収希望企業からの相談や、実際のM&A成約です。

譲渡希望企業が多いかと思いきや、買収希望企業も多く、件数は拮抗しているとのことでした。買収希望企業の目的は、新たな技術取得もさることながら、人材確保が挙げられるそうです。会社ごと人材を確保する。現在の求人難の世相を反映してるともいえます。このような説明を受けると、正に中小企業のおかれている厳しい実態が見えてきます。

わが社は先代が昭和27年に創業して、今年66年目になります。大正時代中期、私の祖父が鉄の仕事に携わって、戦中・戦後10年ほどのブランクはありましたが、鉄の主体から外れることなく、お陰様で長きに亘り事業を継承させてもらっています。

5年前の11月22日、創業60周年記念式典を新浦安のホテルで、多くのお客様を招いて挙行させてもらいました。その11月22日は、以来わが社の創業記念日と制定しました。

今年は私の都合が悪く、前の日の11月21日に行事をおこないました。行事といっても、全社員がお昼時間に少し豪華なお弁当を買ってきて食堂で食べ、その後会社前面に設置してあるモニュメントを皆で綺麗に磨き上げ、その前で集合写真を撮ります。そのオブジェとは、祖父の時代に工場で使っていたシャーリング機のフライホイールです。

前回紹介しました伸鉄メーカーは、最盛期100社以上存在した同業者がほぼ撤退する中で、それでも生き残った会社です。親族四代に引き継がれ、更に現社長の息子も会社におられます。伸鉄メーカーは一時期、斜陽産業と言われました。斜陽かどうかは問題ではなく、長年の技術力を活かしニッチの市場に対応して存続したのです。

事業の継承問題は、後継者が存在するのか・会社の中身はどうなのか、この両輪です。わが社のオブジェは一つだけの輪ですが、事業継承の両輪を見据えていきます。


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事業の継承(その1)

2018年12月01日 05時28分26秒 | Weblog
鉄鋼業界紙に、創業100周年を迎えた企業が紹介されていました。上場している大企業などではなく、中小規模の鉄鋼業界においては100年を越えて存続している会社は多くはないものの、私が知っている範囲でも何社か存在します。記事で私の目に止まったのは、その企業が“伸鉄メーカー”であることです。

伸鉄とは、再生圧延鋼材とも言われます。精選された鉄屑、船や建物の解体材、製鋼の分塊・圧延工程で生じる発生品、これらを材料として加熱し圧延して造られる小型棒鋼や平鋼などのことです。技術的にも資金的にも比較的操業が簡単なので、主として中小規模の業者がメーカーとなります。

一方大規模な設備で、同じ鉄屑を主原料として、電気炉で溶解・鋳造し圧延して、鋼材を量産するのが電炉メーカーとなります。伸鉄メーカーは1970年代まで棒鋼を中心に高いシェアを維持していましたが、80年代電炉メーカーとの競合などで数を減らしました。最盛期は全国で100社は優に超えていましたが、現在は4社を残すのみとなってしまいました。記事に載っていた伸鉄メーカーは広島福山市に在る、その1社です。

伸鉄メーカーと聞いて懐かしく思ったのは、嘗てわが社は取引をしていたからに他なりません。昭和30~40年代関東でも、30社ほどの伸鉄メーカーが存在しました。東京の江戸川区だけでも4~5社あったと思います。わが社の先代が、扱うことを始めたスケール(鉄の粉)は、その伸鉄メーカーが圧延する過程で発生するので、そこは主要な回収先でした。

昭和40年中ごろ、「梶哲さん、スケールはおたくに出してもいいけどさ、材料を供給してよ」とは、或る伸鉄メーカーの社長からの要請だったそうです。市中から鉄屑を集め、上質の物を一定の重さとサイズにわが社で加工して伸鉄メーカーに供給することが、わが社のスクラップ事業に進出する切っ掛けとなり、そのスクラップの仕入先が溶断業者であり、そこに鉄板を売ることが後々のメイン事業になったのです。

「全国でうちの他3社を残すのみだが、最後の1社となっても伸鉄の名を守り続けていきたい」。福山にあるその伸鉄メーカーの社長の言葉です。少量でも収益性の高いニッチな需要を捉え、伝統の圧延技術をもって、市場の変化に対応し、様々なニーズに応えてきた100年企業です。

単に情業継承と言っても、企業の独自性や先見性、健全性などがなければ存続しません。しかしそのような力が備わっていても、後継者がいるのかいないのか、そして従来の相続や贈与の税制上の問題で、日本の中小企業の事業継承は大きな転換期を迎えています。

「70歳以上経営者の半数が後継者未定であり、日本の企業数の99%を占める中小企業の多くが廃業の危機に立たされ、このままでは約22兆円の国内総生産が失われる恐れがある」と、今世間では騒がれています。

そのような中で、日本政策金融公庫が主催した『事業継承税制説明会』のセミナーに先日参加しました。千代田区大手町にある会場で開かれましたが、出席者は定員をオーバーして300人近くになったようで、この課題での経営者の関心の高さを強く感じました。

今回改正になった事業継承税制の説明では、京橋税務署から資産課税事務担当者。施策・取り組みの紹介では、東京税理士会の先生と東京都事業引継ぎ支援センターの担当者。それぞれから、特例措置のポイントや事業継承支援の概要の説明を受けました。 ~次回に続く~

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目的を持つ

2018年11月24日 06時37分37秒 | Weblog
私は大学時代ワンダーフォーゲル部で、苦楽を共にする良き仲間に恵まれ、四年間は無心に山に登っていました。しかしこのブログ上でお伝えしてきましたが、社会人になって足を骨折し後遺症が残って、以後38年間は全く登山から遠ざかりました。

ところが3年前その同期に誘われ、私は諦めていた山に挑戦することになりました。大学卒業40周年を祝して、記念登山を行うことになりました。登山が終われば、麓の温泉旅館で一泊する企画です。私は当初はその旅館で、皆を待つだけでのつもりでした。

「行けるだけいって、ダメなら登山道をまた戻ればいいじゃなか」。背中を押してくれた仲間がいて吹っ切れました。行った場所は、群馬県と新潟県の県境にある谷川連峰です。パーティは二手に分かれ、私達が目指したのは谷川連峰の西端の平標山(標高1984m)です。私はその直下の平標山の家まで登って、しかしながら、限界を感じ一人下山します。標高差650mを、二時間半を掛けて登りました。私にとってはそれでも、山に再び登れたとの感動でした。

その40周年の切っ掛で、同期の一泊忘年会が始まりました。殆どが登山は現役、手軽な山に登ろうとのことで、3年前に行ったのは伊豆半島の付け根にある沼津アルプスです。200~300mの山々が独立峰的に並び、山稜まで登ると北には富士山、眼下に駿河湾を見下ろせる、抜群の眺望でした。しかし一人が腰痛を訴えだし、私の足を気遣ってくれたこともあり、途中で下山し全山制覇は叶いませんでした。

話は変わりますが、わが家から歩いて5~6分の近さに神社があります。鳥居から急な70段の階段があり、登りきった所に社殿があり、そこには海抜20mと書かれています。最近は毎日その階段を、鳥居がある平地から五往復していますので、100mは登っていることになります。

私は今年5月からウォーキングを日課にしました。歩くことが頭脳の活性化になるとの目的でした。3カ月前から、朝だけでなく夜も歩くようになり、一日で6~7千歩になります。ウォーキングの途中にその階段を登るようになったのは2ヵ月前からです。

何故その階段を登るようになったかと言いますと、歩くだけでなく毎日階段を登ることで、登山に備えておこうとのことに他なりません。前述したように、誘ってくれる仲間に迷惑を掛けたくないとの気持もありました。

2年前の忘年会は同じ伊豆で行なわれ、前年の沼津アルプスで登れなかったピークを制覇するグループと、その年は故障者も多かったので車で観光ポイントを巡るグループとに分かれ、私はまだ山登りに自信が無かったので後者のグループに入りました。

さて、今年の忘年会の行き先は。伊豆の網代となりました。たまには温泉だけつかってゆっくりしようとのことでしたが、俄かに天城山登山が計画されました。やはり登山の血が騒ぐのでしょう。私はというと、エントリーさせてもらいました。

目的が無ければ毎日のウォーキングも続かなったでしょう。そのウォーキングも、頭脳の活性化から、体力を向上する、登山に備える、と目的も多岐に亘ってきましたが、足の痛みも無く続けられることには感謝しています。

今回の天城山プランは、所要時間4時間半、歩行距離8.5km、トータルの登り600m位になりそうです。毎日の階段のトレーニングの6倍ほどですが、今回は離脱せず皆さんについていこうと思います。

毎日登っている階段
 神社からの眺め
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奇縁(その2)

2018年11月17日 08時51分10秒 | Weblog
私は梶哲商店に入社して二年目24歳の時に、現場で大腿骨を骨折して、翌年伊豆修善寺の更に奥の、月ヶ瀬という所に在る病院で手術を受けました。その病院は私が卒業した大学の医学部の付属病院です。温泉のプール等もあり、術後のリハビリ施設も併設されていました。

高校受験の時に私の前に座っていたOと、何とその病院で再会したのです。Oは埼玉の高校の方に受かり、大学は成績優秀により推薦で医学部に入って、整形外科医となっていたのです。再会したのは、私が手術をした直後でした。「中学は一緒、あの時の!」との一声から始まり、何故こんな伊豆の山奥に互いに居るのかとの話となりました。

Oは家族を伴って寮に住み込む勤務医として、月ヶ瀬に来ることになったのです。私が怪我をしていなかったら、Oが医者になっていなかったら、医者になっていても整形外科としてその病院にその時期に来ていなければ、絶対に再会はしてなかった筈です。

Oの自宅は東京の葛飾区でしたので私の自宅からも近く、その後、それぞれに東京に戻ってから親しい関係が始まりました。Oは私の担当医ではなかったのですが、私の怪我の後遺症については、それからも親切に相談に乗ってもらいました。

Oは大学では剣道部でした。その剣道部の仲間で、我々と同じ中学出身で、埼玉の高校で一緒だった同期がいるとのことでと、引き合わせてもらったのが前回話しましたIです。そしてOとIが仲良くしている、埼玉の高校の同期で、葛飾区に住んでいるもう一人がいるというのです。その彼(以後Tとします)は、私と大学では同じ学部だと言うのです。

聞いてみると、Tは同じ学部どころか同じクラス。Tとは内部高校出身なので、大学入試で入ってくるクラスメートより親近感がありました。我々の大学一年の当時、大学は学園紛争中で、数ヶ月授業が行なわれなかったことがありました。真剣なクラス討議をするため、数名でTの伊豆修善寺にある別荘に、泊り込みで行ったこともありました。

Tは仏教学部がある大学に入りなおし、家業を継いでお寺の住職となりました。そのような縁で、OとIとTの仲間に私も入れさせてもらい、それぞれの家に酒を飲むたびに通い合う仲となりました。医者と坊主とそれに中小企業のおやじ二人ですが、不思議な縁の繋がりです。

哲学者で思想家の安岡正篤氏は、縁尋機妙(えんじんきみょう)と多逢聖因(たほうしょういん)ということを説いておられます。それぞれ、「良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展してゆく様は誠に妙なるものがある」「よい人に交わっていると、気づかないうちによい結果に恵まれる」、との意味のようです。

私達の縁が、縁尋機妙であり多逢聖因になっているのかは分かりませんが、ものの考え方や感じ方について、よい意味で私は彼らから多くの影響を受けました。

Tは30代で奥さんに先立たれました。その後付き合っていた女性もいましたが別れて、それからは一人暮らしをしていました。お子さんは三人いますが、それぞれ結婚して所帯を持っています。そのTが今年の2月に突然亡くなりました。自宅のマンションで、家電製品の埃が原因で出火して、その時運悪く脳梗塞を起こしていたらしい、とのことですがそれ以上は詳しくは分からずじまいです。

四人仲間の一人が、また一人の奥さんが、今年去って行きました。今回このブログを書くにあたって、四人の出逢いをまとめてみましたが、それにしても摩訶不思議、奇縁です。そのようなものをしみじみ感じています。
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