明治23年9月にオスマントルコの軍艦エルトゥールル号が、日本への親善と海軍航海訓練の目的を兼ねて来日しますが、その帰路和歌山県串本の大島沖で台風に襲われ座礁します。機関室に大量の海水が入り込み、水蒸気爆発を起し船は大破してしまいます。
そのトルコ軍の船員が崖に流されて、島の村人が発見します。異国の犠牲者の身を案じ必死の救助活動をし、貧しい村人が自らの貴重な食べ物を与えるなどして、漸く69名の命が救われます。しかし乗組員500名以上が亡くなったという大惨事となりました。
去年2015年は日本・トルコ友好125周年の年でしたが、その事件に起因します。日本人から受けた恩は、トルコの小学校の教科書にも載って語り継がれます。しかしこの話はこれで終わりませんでした。95年後の1985年、イラン・イラク戦争が激化したイランから、今度はトルコが日本人を救うという救出劇に繋がっていきます。
日本・トルコ合作による、そのような実話を描いた映画“海難1890”を先日観ました。10年前から構想された作品で、1890年と1985年を上手く繋ぎ合せていました。
話しは変わりますが、同じ和歌山県にある九度山町が今脚光を浴びています。真言密教の総本山高野山への参道、世界遺産である町石道は九度山から繋がっています。この九度山は、NHK大河ドラマ“真田丸”の主人公真田幸村が関ヶ原の戦いで敗れた後、配流地として14年間を過ごした、幸村ゆかりの里でもあります。
真田昌幸・幸村の父子は初め高野山の蓮華定院に入りますが、寒さの厳しい高野山から20kmほど離れたふもとの九度山に居を構えることを許されます。知将真田昌幸は配流から11年後に九度山で死去します。幸村自身も、また老いを感じる年頃となります。
幸村は14年後に大阪冬の陣に参戦するまで、人生の3分の1近くを九度山で過ごしたことになります。この里の村人たちと融和しながらも、このまま朽ち果てたくはない想いも幸村にはあったのだと思います。この九度山での14年間を、NHKの真田丸ではどう描かれるのでしょうか。
実は二年前に私は和歌山県を旅行したことがあり、串本の大島も九度山も訪れました。当時は映画やテレビでこのような処が舞台となるとは思いもよりませんでした。現地を肌で感じていますので、二つの作品はより魅力が増します。
そのトルコ軍の船員が崖に流されて、島の村人が発見します。異国の犠牲者の身を案じ必死の救助活動をし、貧しい村人が自らの貴重な食べ物を与えるなどして、漸く69名の命が救われます。しかし乗組員500名以上が亡くなったという大惨事となりました。
去年2015年は日本・トルコ友好125周年の年でしたが、その事件に起因します。日本人から受けた恩は、トルコの小学校の教科書にも載って語り継がれます。しかしこの話はこれで終わりませんでした。95年後の1985年、イラン・イラク戦争が激化したイランから、今度はトルコが日本人を救うという救出劇に繋がっていきます。
日本・トルコ合作による、そのような実話を描いた映画“海難1890”を先日観ました。10年前から構想された作品で、1890年と1985年を上手く繋ぎ合せていました。
話しは変わりますが、同じ和歌山県にある九度山町が今脚光を浴びています。真言密教の総本山高野山への参道、世界遺産である町石道は九度山から繋がっています。この九度山は、NHK大河ドラマ“真田丸”の主人公真田幸村が関ヶ原の戦いで敗れた後、配流地として14年間を過ごした、幸村ゆかりの里でもあります。
真田昌幸・幸村の父子は初め高野山の蓮華定院に入りますが、寒さの厳しい高野山から20kmほど離れたふもとの九度山に居を構えることを許されます。知将真田昌幸は配流から11年後に九度山で死去します。幸村自身も、また老いを感じる年頃となります。
幸村は14年後に大阪冬の陣に参戦するまで、人生の3分の1近くを九度山で過ごしたことになります。この里の村人たちと融和しながらも、このまま朽ち果てたくはない想いも幸村にはあったのだと思います。この九度山での14年間を、NHKの真田丸ではどう描かれるのでしょうか。
実は二年前に私は和歌山県を旅行したことがあり、串本の大島も九度山も訪れました。当時は映画やテレビでこのような処が舞台となるとは思いもよりませんでした。現地を肌で感じていますので、二つの作品はより魅力が増します。