梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

言葉使いと話し方(その1)

2021年01月30日 04時50分55秒 | Weblog
今から36~37年前のことです。家内と結婚して四年後にして、長女が産まれました。父親の懇意にしている方が、ご夫婦でお見えになり、その奥様が作られた毛糸の手編みの“おくるみ”を頂戴いたしました。私はその際に「何着あっても重宝します。有難うございます」と、そんな言葉がつい口から出てしまいました。

実は既に“おくるみ”を、他の方から出産祝いとして頂いていたのです。同席していた父親から、後でこっぴどく叱られました。「相手の立場に立ってみなさい」と。確かにそう言われればそうでした。余計なことを言わずに、その方に対してのみのお礼の言葉でよかったのです。

私の父親もそのご夫婦も、だいぶ昔に亡くなっています。しかし、大失敗した記憶はいまだに無くなりません。『覆水盆に返らず』とか『綸言汗のごとし』とか言います。これらの故事のように、一度してしまった失敗は取り返しがつかないし、一度口から出てしまった言葉は取り消すことができないのです。何気なく使う言葉には、問題を引き起こす種が隠れています。言葉の使い方について、少し考えてみました。

社内会議で、各部門の責任者が毎回報告をしているとします。「何かありましたら、報告して下さい」と、司会進行役が言ったとします。これから報告をしようとした者が、「特別な事でなければ、報告をしなくてもいいのですか」と、取ってしまう危険性があります。例えば「お伝えしたいことを、是非報告をお願いします」と誘導すれば、発言者の気をそらすことはないでしょう。

コンビニに入ってきたお客さんがマスクをしていないとします。店員さんが「お客さん、マスクをして下さい!」と言ったとします。マスクは持っていて、つい着けるのを忘れたのかもしれません。面倒くさいのでしなかったのかもしれません。例えば「お客さん、マスクをお持ちですか?」と問い掛ければ、気を害することはありません。

会社の業績がコロナで悪化して、改善を目指して頑張ろうとしているとします。トップが社員を前に「せめて収支トントンまでは何とか持っていきたい」と伝えると、収支トントンでいいんだと、社員の中には自分には関係ないと捉える人もいます。例えば「絶対赤字だけは出さないように、一人ひとりの力を結集しましょう!」と表現すれば、皆の気を前に向けさすことができるはずです。

これらで共通しているのは意味として同じようなものでも、発した側のその表現によって、その言葉を受けた側の気持ちは違ってきます。言葉は話し手と聞き手と対(つい)をなす、切り離すことはできない、二つで一つの対だと私は考えます。切り離すことができないとは、聞き手の反応(良い悪い)が必ず対をなしているとのことです。

言葉の使い方は、失言して恥をかいたり誰かから教わったりして、年齢が増せば大きな失敗は収斂されることでしょう。その前提に立てば、歳を取ればとるほど、他人は注意してくれません。受け手は非常識と思っても、嫌われ者になりたくないから余計なお節介をしない、そのようことも考えられます。

ちょっと話題は変わるかもしれませんが、先日観ていたテレビで“アンガーマネジメント”を取り上げていました。初めからその番組を観ていなかったので、導入部分はよく分かりませんが、母親が子供の教育で悩んでいることに応用できるとの想定のようでした。

“アンガーマネジメント”の存在は、以前から知っていました。その意味は簡単に言えば、「怒り」を上手にコントロールすることです。怒ることが絶対にだめだという教えではなく、ちょっとしたことでイライラせず、怒りを上手く扱う方法を教えてくれるものです。

アンガーマネジメントは、1970年代にアメリカで生まれたとされています。当時は、DV(家庭内暴力)や、軽犯罪者の矯正プログラムのために作成されたようですが、現在ではそれが一般化して、企業研修など様々な分野で取り入れられています。言葉の使い方において、このアンガーマネジメントにヒントがあるのではないか、と思うようになりました。   ~次回に続く~
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文章を書くこと(その3)

2021年01月23日 04時51分10秒 | Weblog
私が書いてきたブログの文章は、論文型(主張型)でもストーリー型(物語型)でもなく、直観型(エッセイ・随筆など)でした。エッセイとか随筆は、「筆のおもむくままにかきつづった文章」とのイメージがあるが、パターンがあり、その構造とは体験、感想、思考の三点セットである。 “いい文章には型がある”の著者、吉岡友治さんはそのように記しています。以下、直観型の要点を本文から引用(要約)します。

体験は「自分の身に起こったこと」、感想は「そのことに対する感じ方」、思考は「そこから考えた内容」である。つまり、自分に起こったことで、感情が揺すぶられ、そこからあれこれ問題を考え出すという流れである。現実に起こったことに素直に感応して、それを手がかりにして考えを進める。

直観とは、日本語ではやや曖昧に使われている言葉だが、理性的推論によらないで、物事の本質を見抜く力のことである。理性的推論は「もし…ならば、…である」という論理の規則に従って、前提を言い換えて結論に至る。しかし、直観は(直感ではない)そういう結論のつながりに頼らずに、物事の一番大切な意味をずばりと了解させる。

つまり直観型文章は、体験を「いつ、どこで、だれ(何)が、何をして、どうなったか?」という物語型の文章として叙述するとともに、そこに書き手の「心情」が感想としてくっつく。さらに、その意味・意義などを考えていく。その際には「なぜか?」「どういう風に?」など、主張型の文章に表れる議論の構造も出てくるのである。もちろん、ポイントは自由な発想にあるので、議論の構造の部分は簡略だし、論理展開が途中で省略されることも多い。

以上が、本から抜粋した主旨です。ここで言えるのは、直観型であっても、物語型と主張型の極意をなお兼ね備えていれば、読むに耐えるエッセイや随筆になるとのことです。逆に物語型と主張型の文章には、直観型の要素はあまり要らないとも言えます。

さらに直観型文章で大事だと感じたことは、やはり話題の選定(探し)です。つまり自分の日頃の体験から、それをどう見つけ出すかです。その上に、感想:書き手の心情と、思考:議論の構造を、普段から高めておかなければ、読んでもらえるような文章にはならないことになります。ブログを書き続けることは、これらの課題への取り組みとなります。

今回の私のブログのテーマ“文章を書くこと”の文章が、直観型であるとして、その構造の体験、感想、思考に分けてみました。

「体験」としては、私の小さい頃の作文に対するコンプレックスの話し、から始まりました。文章を書くことをまともに勉強したわけでもないのに、そのような私が15年前から、ブログを書くようになった。しかし最近何気なく買った中古本に出合い、文章には三つの型があることを知った。

「感想」としては、その本を読んで納得しているところです。結果として、本の内容の要約に多くの紙面を割いてしまいました。要約はこの本を読んでいる体験ともいえますが、新たな知識と対話しているように捉えれば、本に対する感じ方となり、感想として成り立ちます。

「思考」としては、今まで書いてきた私のブログが、明らかに直観型の文章であったことの発見です。エッセイや随筆の分類に入るとの、三つの視点でブログを見直しました。それを手がかりにして、これからブログを書く際に、新たな課題を見つけることができた。となります。


これからは余談になります。新聞などの新刊の広告(大増刷など)は、売り手の意図に乗せられている面があります。売り手が読んでもらいたい本と、買い手が読みたい本とはギャップがあるかもしれません。また新刊が必ずしも、良い本とはいえません。

ブックオフ置いてある中古本にも、今回のように良い本(読んでみたい本)があります。ブックオフの今までの私の利用方法は、新刊を大事に読んで、売りに行くところでした。中古本は値段が安い良さもありますが、転売を考えず読み切って、書き込みも出来るメリットもありました。ブログを書いていく上でも、本との出会いは大切に思っています。
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文章を書くこと(その2)

2021年01月16日 04時41分16秒 | Weblog
私が本を求める多くは、新聞の広告をみて気に入ったものをアマゾンで注文します。たまに書店に出向いて、実際本を手にして中身を少し見てから買うこともあります。いずれも新刊が主となります。後は誰かに薦められたとか、何かの記事や書籍で紹介されているものを読んでみようと思う時、これも便利なアマゾンを利用しています。

この間街中へ出て、ブックオフに立ち寄ってみました。中古本を買うつもりはなかったのですが、時間があったので新書版のコーナーを隈なく見ることになりました。100円均一のものもあれば、4~500円と中古本にしては結構高い本もありました。その高い本の棚に“いい文章には型がある”とのタイトルの本(著者:吉岡友治)が目に留まり、買ってしまいました。

前回のブログの最後で書いた最近手にした本とは、この本のことです。この本を読んで、今回のテーマで書くことにしました。また前回の冒頭で、私の小学校低学年の作文は母の作品だったと書きました。この吉岡氏の本のまえがきに、全く同じようなことが書かれていました。いえ正直に申しますと、そのようなことがあった自分を思い出し、話題を拝借しました。

「恥を忍んでこんな思いをさらすのは、作文教育の実態なんて大同小異だったのではないか、そんなインチキが半ば公然と行われていたような気がする」、と氏は回顧しています。東大文学部を卒業し、大学予備校で20年以上にもわたり国語・小論文の講師を務めた、文章のオーソリティが小さい時はそうだったのですから、私にとっては大いなる安堵です。

さて、その“いい文章には型がある”の内容です。文章の型を三つにざっくりと分けています。ストーリー型、主張型、直観型、です。それぞれの型は次のようなもので、以下本文の引用(要約)です。

先ず、ストーリー型とは、「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました…」という具合。具体的な場所・時間で登場人物が行動する。すると、事件が起こり、意外な方向に話は転がっていく。聞く/読む方も、主人公が一体どうなるのか、息を凝らし話の展開を追う。

この場合、目標とするのは二つ。一つはハラハラドキドキの物語展開。もう一つは魅力的な登場人物。主人公と対立し妨害する悪役たち。これが用意できれば、読者はついてくる。このパターンはけっこう応用が広く、歴史・経過・報告など、出来事を時間に沿って述べるときに使う。

それに対して、論文型の代表は論文。つまり意見を言う文章だ。皆で何かを話して「どうしようか?」と迷っている。そこに自分が「こうしたらいいのでは?」と述べる。皆が考えている問題に対して「答えはこうだ!」と鮮やかに解決をする。これが意見だと。このタイプでは、魅力的な登場人物も出てこず、クライマックスや大団円もない。

その代わり聞いている人々から、絶え間なくツッコミが入る。「なぜ、それがいいのか?」「具体的なデータはあるのか?」、そういうツッコミに耐えて「なるほど」と思わせて納得させる。読む方も楽しむだけではない。読み手が書き手に対立する相手となり、丁々発止と渡り合い、批判的に読む。その意味で、論文はアイデアの競争、対決だ。

最後の直観型は、エッセイや随筆だ。まず元となる体験がある。それに対する感想を「良かった」とか「感動した」とか書く。そこから「人生とは…」「仕事とは…」などという考察につなげる。この場合は周囲からの厳しいツッコミをあえて予想しない。有名人が筆者なら、だいたい読者はファン集団。理由がなくても説明が足りなくて、もうるさいことは言わない。つまらな内容でも、結構売れるかもしれない。

もちろん、激しいツッコミがないことの良さもある。激しすぎると、発想が守備に回って、アイデアを自由に発展させらないからだ。俗にエッセイは「三題噺」と言う。互いに関係がなさそうな三つの話題を組み合わせて、一つの内容にまとめる。すると、突然新しいつながりが見えてくる。多少理由や説明が不足していても、その発見は何ものにも代えがたい。

以上がこの本でいわれている、文章三つの型の主旨です。世の中の文章は韻文でなければ、この三つのどれかに分類されると著者は指摘しています。こう並べて見てくると、ブログはエッセイ・随筆なのだと改めて理解しました。私のブログには殆どコメント(厳しいツッコミ)も無く、自由に書かせてもらっていると有難く思います。たまにあるコメントを見落として、返答するのを忘れたこともありました。   ~次回に続く~
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文章を書くこと(その1)

2021年01月09日 04時39分55秒 | Weblog
私は文章を書くことにコンプレックスがあります。それは小さい時の体験を引きずっているからです。私は小学校の時、作文は大の苦手でした。他の生徒がスラスラ書いているのに、なかなか書けませんでした。宿題で作文を出されると、傍で見ていた母親が、「ここはこうしたほうがいい、これはこうしなさい」と、殆ど母親の作品となりました。

これを提出すると、担任の先生の評価が高いのです。先生は、母親が手を加えたものだと薄々気がついていたはずです。小学校高学年になると、さすがに自分で書かざるを得なくなりますが、作文には自信が持てませんでした。中学校でも同様で、これが作文に対する私の原点です。

義務教育の期間においても、「なんでも自由な発想で書いていいです」と言われたくらいで、作文について充分な指導を受けた記憶はありません。私の行った中学校は進学校でしたので、国語の文章についての時間は、誰かが書いた文の要約や内容把握などが主でした。学校は作家とかプロを養成する所ではなかったので、それで良かったのでしょう。

高校や大学の試験では、記述による回答も多くありましたが、キーワードをしっかり書いてあれば良しとされ、文章構成は二の次でした。大学時代、私はゼミを選択しませんでしたので、所謂論文も書いていません。論文を書くとなれば、少しは文章の定型や構成などを自ら勉強していたかもしれません。

自ら文を書くいえば、手紙でした。学生の頃、家内と一時期文通をしていました。社会人となって怪我をし、手術とリハビリを含めて一年半、そこで出逢った人ともしばらく手紙のやり取りをしていました。つたない内容だったことでしょう。しかし、伝えたい気持ちはありましたので、形に捉われず、それこそ自由な発想で書いていたと思います。

手紙といえば、筆まめだった父親を想い出します。父の会社に入って知ることになりますが、親しい得意先や友人などに、何かあると手紙を出していました。今とは違って電話以外では、当時手紙が当たり前の意思伝達の手段でした。そんな父から手紙の書き方を教わりました。「口頭で言うので、そのまま書け!」と父に言われ、その通り書いてみると、きちっと筋が通った内容になっていました。

父の指導で、公式な手紙にはある程度定型があることを知ります。色々な文面もあり、その手紙の写しをとっておき、それを真似して自分で書くことで、あらたまった手紙を書くことの抵抗感がいつしか無くなっていました。

振り返ってみても文を書くことがことさら好きでもない私が、ある切っ掛けで、文章を外部に向けて継続的に書くことなってしまったのも不思議です。15年前に始めたこのブログは週一回の発信、10年前に参加した勉強会の会報には月二回の投稿、期日に追われながらも何とか書き続けられました。

私は今問われても、文章を書くことは苦手だと答えます。テーマが既に決まっていたとしても、どのように書いていくか毎回悩みます。量を多く書けば、解決するものでもありません。しかしパソコンを利用することで、文章の手直しや置き換えなど、書くことの苦労が軽減されていることも助けとなります。昔の人は、思ったことをそのまま書いて、言葉が文章になってしまう凄い技がありました。

最近手にした本の中で、『いい文章には型がある』と、『自己流にこだわった文章は未熟なものになるおそれがある』とも、著者は言っています。私としては、先ずは他者がみて読みやすい文章を目指してきました。改めて型というルールを学んでみて、その上で自らの個性を出せればよいのはないかと考えています。  ~次回に続く~
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ネガティブ・ケイパビリティ(その2)

2021年01月02日 08時06分34秒 | Weblog
このネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)の言葉を知ったのは、新聞のコラムです。『正解を求めず耐える力を』の表題で、あるジャーナリストが書いたものでした。

「コロナ対策が典型だが、すべての物事に正解や万全の解決策があるわけではない。にもかかわらす、往々にして為政者や国民は、正解とみえるものに飛びつきがちだ。危機の時こそ容易に答えの出ない事態に耐えうる能力、ネガティブ・ケイパビリティを鍛えることが重要である」。との、主張でした。

ネガティブ・ケイパビリティを、少し調べてみました。現代社会において、重要度合いが高まっている考え方のひとつのようです。ネガティブという言葉から否定的な印象を受けますが、実は相手を思いやる共感性の手立てであることが分かります。ネガティブ思考を生かせるメリットが、むしろありそうでした。

ネガティブ思考:負の能力は、どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力をさします。あるいは、性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力をさします。それでも現代の社会では、早急に答えを出すことが求められます。

しかし物事は簡単に答えの出ない事態の方が、はるかに多いように思われます。結果を急ぐことは、解決できない問題や中途半端な状態を無視することに他なりません。そのような何事も急がれる我々の社会の中で、大切な何かを失っているとするなら、それは「共感する力」や「受け止める力」です。

ネガティブ思考の特徴としては、失敗を恐れて行動できない、後悔して過去に固執する、何でも一人で抱え込んでしまう、などがあります。物事には必ずプラスとマイナス面があります。ネガティブ思考のメリットを考えてみると、危険への回避能力が高い、想像力が豊かである、感じやすい心を持っている、とも言えます。つまり、相手の悲しみや悩みに寄り添うことができることになります。

親友を突然失い、その死を受け入れられない娘の話しに戻ります。年を取った私が共鳴する死生観を伝えてみても、理解できないのは無理からぬことです。その悲しみに寄り添うことは、娘は正にネガティブ・ケイパビリティです。死に対して、性急に正解を求めず耐えているように思えます。少なくとも娘には時間が必要なのかもしれません。

私自身においても親の考えを押し付けず、娘に対し寛容さを持つことが、今回大事であると思いました。白黒はっきりさせることや、結果を急ぐことは、解決できない問題や中途半端な状態を無視することに他ならない。そこをもう一度、リマインドしてみる必要を感じます。



改めまして、新年明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
ブログを読み続けて下さっている皆さまには、心から感謝しています。
老いや死が私にとって身近になっていることも、体力や気力の低下も避けられないのも現実です。
しかし物事の見方や感じ方については、自分の中で、少しでも進化を感じる年にしたいと願っています。
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